ぼくの心に感じたコトバ


<はじめに>
 ホームページに新しい欄を創ってもらいました。
これまでの項目については、あまりぼく個人の主観的なことは述べないで、できるだけ客観的に書くよう心がけてきました。それで今度は、欄の表題でもわかるように、ぼく個人の主観まるだしのことも書いてみようと思ったのです。
(感想を寄せてもらえればうれしいです。)

<『子どもの権利条約』第28条「教育への権利」(a)初等教育を義務的なものとし、
すべての者に対して無償のものとする。> (強調は新開)

 ぼくが勤務した二つめの学校(北丘小学校)でのことです。1970年に『にんげん』が学校現場に届き、解放教育を模索する過程で、「就職猶予・免除」の名で教育権が奪われている子どもたちがぼくたちの視野に入ってきたのです。そんなとき、千里地区に、
1973年度に「特殊学級」(当時の呼び名)が新設されると伝わってきて、ぼくたちは夏季休業中の8月30日に教員で会議をもちました。<障がい児教育>を全体のテーマにして議論したのは初めてでした。北丘校区内で「就職猶予・免除」されている子どもが8名もいたのです。その後何回会合をもったか忘れました。
10月、「特設学級新設に関する見解」が教職員の統一見解としてまとまとまりました。(以下、項目のみを示す)
1、障害児教育についての基本的な理念
2、障害児教育の原則
3、障害児学級の特設が望まれる
4、具体的な運営案は、後日検討する
5、現在普通学級内の障害児の教育について
6、保護者や専門家との話し合いをもつ
 
職場外へ取り組みは、家庭訪問、教育委員会交渉、PTAへの働きかけ、千里地区4小学校教員の会合、4小学校校長との話し合い、などなど、よくがんばったと思います。
 そして、なぜか、本校に特設学級が新設されたのでした。
(ぼくたちの取り組みが進んでいたからか?)
 
 4月、1年生として入学してきたQ(「多動性情緒障害」との病名)との格闘(?!)の実態は省きますが、ぼくたち教職員の認識がいかに観念的であり、甘かったかを、
いやというほど感じさせられたのでした。

ぼくの心に感じたコトバ(2)

<あの段階(内ゲバ)にくると、逃げるだけの器量をもたないといけない。命令されて仲間をリンチで殺すくらいなら、逃げるんだ。
人間にはそんなこと(大義というような抽象的なこと)を判断する能力はない。誰となら、一緒に行動していいか。それをよく見るべきだ。>
          鶴見俊輔(『戦争が遺したもの』)

 ぼくは「逃げる」ことが苦手です。もちろん、相手を殺すというようなことは考えないし、行動もしないけれど、相手を論破しようとする傾向は強い、と自覚しています。
「逃げる器量」というコトバは痛いです。おまえの器量は小さい、と言われているからです。
また、「大義」より「人」を見よ、というコトバは、この年齢になって少しは理解できます

ぼくの心に感じたコトバ(3)

<大切なものは、明確な教義にあるんじゃない。
大切なものは、あいまいな ぼんやりしたものだ。
 人間を動かすのは明確なものじゃなくて、ぼんやりした信念なんだ。
 ぼんやりしているけれど、確かなものなんだ。>
鶴見俊輔『戦争が遺したもの』

 若い頃のぼくにとっては、「明確なもの」と「確かなもの」とは同じものでした。それを求めて、本を読みあさりました。自分の行動は、他人から指示されてではなく、自分の判断で行いたい。自分の判断で実行したい。この思いは強いものでした。そのために、判断基準になるものを手に入れたい、と考えていたのです。
 「人間を動かすものは、信念なのだ」ということは、わかります。「ぼんやりした信念」というのもわかります。それが「確かなものだ」というのもわかります。しかし、「明確な信念」ということもあるのではないのでしょうか。そこのところが、まだよくわかりません。

ぼくの心に感じたコトバ(4)

<わたしたちがそれを頼りに生きている真理の圧倒的多数は、
 検証されていない真理からなる>
ウィリアム・ジェイムズ
 前回(3)で取り上げたことと同じようなことを、ウィリアム・ジェイムズも
述べています。彼は「真理」というコトバを使っていますが、それを、「検証」
という科学的手続きを行使しようとせずに、わたしは、頼りにしているのです。
「検証」できないことを知っているからでしょうか(!?)。
そこが人間の大切な要素の、ふしぎな一面かもしれません。

ぼくの心に感じたコトバ(5)

<「なぜあなたはそうした問題に関心をもったか」と聞かれると、「自分でもよくわかりません」と返答している。これは私の正直な感情である。
そもそも、自分を突き動かしている動機が何であるかなど、当人自身にわかるはずがない。ましてや、自分にとっての「決定的な経験」など語る言葉をもたず、沈黙するしかない。
数多くの戦後知識人たちの思想を読んだあげく、人間は結局のところ、自分の動機を自分で理解するなど不可能なのだ、という結論に達した。>
小熊英二『<民主>と<愛国>』

 前回(4)、前々回(3)と似たようなことを、小熊英二も述べている。
そういうものなんですね。
ぼくが、今も「日本語の教育」にこだわっていろいろ調べているのは、なぜか。
かつて、そのことに関わって、こんなことを書いたことがあります。
「思春期といわれる年代には、<自分とは何か>という疑問をもつ。ぼくも高校生のとき、同じ疑問をもち、多くの本を読みあさった結果、<人間の人間たるゆえんは、ことばを獲得したことである>との結論に至った。疑問に対する答えとは違っていたが、それで納得した」と。

ぼくの心に感じたコトバ(6)

<子どもは、最初はコトバを比喩的にとらえ、主に右脳で処理している。
 習熟して機械的に処理できるようになると、左脳で処理するようになる。
 新奇な表現は、右脳経由で左脳で処理されるようになっていく。>
(認知科学の解説書から引用)
 そうなんですね。論理的な説明的文章より文学的な表現のほうが理解しやすい、という、授業での子どもの現実は、この説明でとりあえずは了解できます。
それだけではない、子どもの生活という側面がある、とは思っていますが。

ぼくの心に感じたコトバ(7)

<われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいて
いる概念体系の本質は、根本的にメタファー(隠喩)によってなり
たっているのである。>
G・レイコフ、M・ジョンソン『レトリックと人生』

 前回(6)、「コトバを比喩的にとらえ」と書いていて、思い出したので、関連することを取り上げました。
「メタファー」といえば、詩・文学の世界の技巧のことを思い浮かべるの
常識でしょう。ぼくもそうでした。(「メタファー」の本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験すること)。
説明的文章を分析するとき、その文章の中に比喩的表現があると、たとえられ
る「他の事柄」のどこに着目するかで、理解が異なってきます。つまり、論理性
があいまいになる、誤解をまねくということが起こりえます。文学的作品の場
合は、読み手の解釈にゆだねられることが前提で文章化されていますが、説明
的文章の場合は、できるだけ文章の論理にそって理解してもらいたいわけです。
 ところで、「普段、ものを考えたり行動したりする」場合、文学的作品や説明
的文章のように、文章化されているわけではなく、その場の状況・社会的文脈に
依拠しているので、少しちがうかもしれませんが、引用した文章を読んで、うー
んと思いました。前回(6)は、子どもの理解についてでしたが、おとなでも
似たようなことなのかなと。メタファーは、文脈だけでなく、受け手・思考主体
の生活環境・内面生活に依拠することが大きいですから。

ぼくの心に感じたコトバ(8)

<メタファーが私たちの言語・認識・行動に共通する大切な思考手段であること。(略)。どのようなメタファーを無意識に用いているかを調べることによって、「人間とは何か」という大きな問いに、部分的な小さな解答が出せれば・・・。>
瀬戸賢一著『メタファー思考――意味と認識のしくみ』


 前回(7)、<メタファーが日常の認識・思考・行動に関わっている>というコトバを取り上げました。今回も同様のことが述べられている本を取り上げました。瀬戸は、「メタファーとは『見立て』と考えると分かりやすい。「を見る」に対する「と見る」ものの見方のことだ。AをBと見るとき、Bにメタファーが生まれる。」と説明しています。それにしても、「人間とは何か」に小さな解答が出せるとは、大きく構えたものですね。
 では、この本の目次を例示してみましょう。

視覚のメタファー
 о「見る」のメタファー
 о「分かる」とは何か
 о光と闇
空間のメタファー
 о位置と運動
 о人生は旅
 о「道」のメタファー
メタファーと現代社会
 оメタファーと心理
 оメタファーと経済
 оメタファーと科学

 瀬戸の「人間とは何か」の切り口(これもメタファーです)が推測できます。

ぼくの心に感じたコトバ(9)

<「関係性欲求」を持つことが人間の本質であり、他者からの評価や肯定が私たちを動かす原動力である。>
藤井直敬『つながる脳』

 藤井は、<人間は他者との「関係性」が決定的な意味をもつ存在である。>
とも述べています。他者との「関係性」をつかさどっているのが「社会脳」
(「つながる脳」)といわれる部位・機能です。この「社会脳」が共感や教育などを可能にするのです。チンパンジーはどんな動物よりもヒトに近い能力を示しますが、この「自己と他者を認識する脳」(「社会脳」)を欠いているので、人間に進化できなかったのです。
 ぼくが「関係性」ということをいろんな機会に強調しているのは、脳科学によってこのように証拠づけられているのです。
(実は上記のようなことを知ったのは最近で、これまで「関係性」ということを強調してきたのは、別の事実からですが、そのことはまた別の機会に話します。)

ぼくの心に感じたコトバ(10)

<悪意への悪意(カウンター悪意)>
星野智幸『呪文』

 星野は、「強いものには強いもので返す」という風潮は怖い、と書いています。このコトバが、負けることの嫌いな、論破するのが好きな、ぼくには強く感じられました。
「理由なく生き続けることの価値を肯定しないと、みんなが死にたがるか殺したがる方向に行かざるを得なくなってしまう」とも述べています。
「煮え切れなくて、決断力を欠いていて、往生際の悪いこと」を肯定することの大切さについても書いています。
また、我に返る(自覚する)ためには、立ち止まる時空間が必要なのだけれど、今のように情報社会が成熟しSNSが発達している社会では、それがすごく難しい、とも述べています。
(この作品を、鴻巣友季子は「町おこしディストピア小説」と評している。
誰もが「正しい」と考える「町おこし」をテーマにした作品である。)

ぼくの心に感じたコトバ(11)

<心の持ち方ひとつで地獄は極楽にもなる。>
稲森和夫(京セラ役員)

若い頃は、こういうコトバにすごく反発していました。権力を持つ人たちが
ぼくのような民衆をごまかすためのコトバだ。心の持ち方を変えても現実(客観的ことがら)は何も変わらない。現実を変えることこそが重要だ。そう考えていたからです。
経験を重ねた今、このコトバに一面の真実はある、と認めるようになりました。「ピンチはチャンスだ」というコトバと合い通じるところがあると思います。

ぼくの心に感じたコトバ(12)

<体のなかで、最も注意が払われていない部分は、・・・足の小指ではないか、・・・。・・・逃げおくれて被害にあうのは足の小指が多い。
・・・ふだん注意を払われていないからこういうことが起こりやすいのかも・・。・・ないがしろにしていても文句を言わず、黙々と働いてくれている。・・「すみませーん、これから存在を意識して行動します」・・・>
海原純子(日本医大特任教授)

足の小指を骨折した事実を述べているのだが、ぼくには、これまでに書いてきた「メタファー」としても読めてしまいました。足の小指のような存在の人って周りに居ますよね。「ないがしろにしていても文句を言わず、黙々と働いてくれている」人、「逃げおくれて被害にあ」いやすい人、そんな人を、ぼくはきちんと意識してきただろうか。
自信がない。反省します。

ぼくの心に感じたコトバ(13)

<前には黒と白、正義と不正義とに截然と、世界が分かれていた。
・・・世界が、正義と不正義とに直線によって二分されているという
信条は、応用不可能なのだ。>
鶴見俊輔(戦争体験を回想して)

ぼくも、これまでにも述べたように、若いときは「黒と白、正義と不正義」に分けて考える傾向が強いものでした。いつごろからでしょうか、社会体験を重ねるなかで、それは不適切であるということがわかってきました。一つの出来事、状況がとても複雑な要素で構成されていることを知るようになったからです。でも、若いときのそのような傾向をダメだとは思いません。成長する過程には大切な姿勢だと考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(14)

<自分があらかじめ内部にもっている既存の言葉に、
思いもかけない読みかえが提示され、それまで言葉にならなかった
心情の表現手段として適当であると感じられたとき、
その「言葉」は読者に届く。>
小熊英二『<民主>と<愛国>』

子どもたちに「ことば」で伝えることの難しさを、教師は日々体験しています。その子の内部にあるコトバをなかなか知りえないから。その子の内部のコトバを知るためにも、子どもから聴くことが大切なのだ、とぼくは思います。
小熊は、<与えられた言葉に違和感を覚えたとき、人はその言葉を
「輸入」されたものとみなすのである。>
とも述べています。
自分の外から与えられた言葉を、内部のコトバとうまく関係づけられたとき、子どもは「わかった」と感じるのでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(15)

<日本人は○か×かという二律対抗の中で生きる感じが強いと思うのだけれど、ぼくは正論や正解にこだわらずに、自分の領域で仕事をしてきた。○でも×でもない、とんがった△だったなと思います。
そこに自分らしさがあるだろうと思っていた。>
鎌田實(『週間読書人』から)

 「ぼくの心に感じたコトバ(13)」でふれたことに関連する
コトバを見つけました。ぼくの「自分の領域」といえば、国語・
日本語教育です。はたしてぼくは、「とんがった△」と言えるような
実践をしてきたか、この問いに、自信を持ってイエスと言えるか?
これは、自己評価でなく、ぼくの周りの人に判断してもらうしかないですね。

ぼくの心に感じたコトバ(16)

<哲学の役割は「批判」「指針」「同情」である。
「同情」とは、他者が自分と異なる存在であることを認めたうえで、
他者と共感し、連帯を生みだすことである。>
     鶴見俊輔(小熊英二『<民主>と<愛国>』より)

 鶴見はこの三つの姿勢を「哲学の役割」とのべていますが、ぼくは、自分が心がけねばならない重要な心構えだと思っています。
児言研の読みの構えは「批判読み」です。教師が児童・生徒との関係で示す大切なことの一つが「指針」です。そして、教室や授業で培わねばならないことはまさに鶴見のいう「同情」だろうと、ぼくは考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(17)

<自分の意思でしたことは、ほんとうに自分の意思でしたことか?
この疑問には、こたえることができないのである。>
鶴見俊輔『不定形の思想』

 鶴見は、「自分の意思が、自分以外の集団の意思、国家の意思に
まげられてゆくか」とも述べています。ぼくがわが身を省みたとき、
「まげられることは絶対ない」と言い切れるのか、自信がありません。
ところで、教室での児童・生徒はどうでしょう。先生の意思、仲間の意思、親の意思、などなど、自分以外の意思に無意識のうちに「まげられてゆく」ことがないでしょうか。いや、先生の意思に自らすすんであわせるのは、それも「自分の意思」と言えるのでしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(18)

<他人の特有な意思の苗床を探り、理解して、その上に育つものとして意思を評価すること。そのとき、1ミリの発芽、1ミリの上昇をも、たましいの躍動をもって見守ることができる。>
    鶴見俊輔『不定形の思想』

 前回(17)に続けて、鶴見のコトバをとりあげます。
学校での児童・生徒の「意思」を、このような姿勢・感情で見守ることができればどんなにうれしいことでしょう。そうしたいと思って、
現役のときは、子どもたちとつきあってきましたが・・・・・・・。
今、若い先生たちに、ぼくなりのコトバで話していますが、どれだけ届いているか。学校現場はとても時間がなくて、先生が子どもたちと
向き合う時間がなかなかとれないとか。さびしい現実です。

ぼくの心に感じたコトバ(19)

<「関係性欲求」を持つことが人間の本質であり、他者からの評価や
肯定が私たちを動かす原動力である。>
藤井直敬『つながる脳』
 
 藤井は、こんなことも述べています。
◎人間のように他者との<関係性>が決定的な意味をもつ存在を
「社会脳」(ソーシャル・ブレイン)という研究をとおして探求する。
◎チンパンジーは、どんな動物よりもヒトに近い能力を示すが、共感や教育などを可能にする「社会脳」(自己と他者を認識する脳)を欠いている。
◎「つながる」という言葉が、これからの脳科学のキーワードになる。
 ぼくはこれまでさまざまな機会・場面で<関係性>ということを
強調してきましたが、この本を読んで意を強くしました。また、
<「関係性欲求」を持つことが人間の本質>であるのなら、
ぼくが強調しなくても子どもたちはすでに持っているのですから、自覚させることが重要なのだ、とも思いました。
無意識のうちに持っていることを意識化させることの大切さは、これまでにも述べてきましたから、ますます、意を強くしました。

ぼくの心に感じたコトバ(20)

<ごん狐の妙に腑に落ちない結末・・・・・・・。弱者(と、南吉が設定する)の側の、一方的な献身。そして、その「健気さ」は、決して報われないほうが物語として美しいと感じている。なんだか演歌の世界みたいだけれど、・・・・・・・。
 そういったメンタリティーが多くの「日本人」の心にはまって、
「ごんぎつね」の全教科書採用などという愚挙にいたっているのでしょう。>
川島 誠『日本児童文学』(2013)
 
ぼくは、教科書の最新版を見ていないので、今も「全教科書採用」となっているのかどうか知らないのだけれど、「ごんぎつね」が初めて教材に取り上げられたのは1956年版の大日本図書(4年)のようです。‘70年度から全社(5社)に採用されるようになりました。この時は、「おおきなかぶ」(1年)も全教科書採用になっています。「かさ(こ)じぞう」(2年)も’89年度から全社(6社)採用になりましたが、訳・再話者は、教科書会社によって、内田りさ(「漢字表」外)子・西郷竹彦・岩崎京子と異なります。
ところで、「ごんぎつね」の作品世界を、川島のように「演歌の世界」と思う人もいれば、「やさしさ、温かさが底に流れている」と感じる人もいるので、全教科書採用を「愚挙」といえるのかどうか・・・・・・・。
現在、教科書採択制度が非民主的(?)になって、現場教師の意見が通りにくくなっているようですが、ぼくが採択委員であった当時は、現場教師の意見が反映される制度だったので、「教科書を左右するのは教室」「現場の意向を配慮する」などと、教科書編集者は話していました。そうであれば、「ごんぎつね」が全教科書に採用されるようになったのは、当時の現場教師の多くが「日本人的メンタリティー」にはまっていたということでしょうか・・・・・・・・・(教師はみな日本人でした)。

ぼくの心に感じたコトバ(21)

<人間は言葉の動物だ。言葉が人を動かし、人を形成する。そして、
言葉は行動と不可分のものである。天皇皇后が患者たちの心をとらえたのは、その態度や姿勢、表情が言葉以上の言葉となっていたからである。>
(高山文彦著『ふたり―皇后美智子と石牟礼道子』についての
中島岳志の書評)

 教師はコトバ抜きではやっていけない仕事です。子どもが教師を
「先生」と思ってくれるのは、「その態度や姿勢、表情が言葉以上の言葉となってい」ると感じたときではないでしょうか。
ぼくたちは、制度としての「先生」ではない人になっているか。
「先生」と呼ばれて安心していられません。

ぼくの心に感じたコトバ(22)

<現実は問題ではない。どう解釈するかだ。>
川村 透訳『人の力を借りれば、もっとうまくゆく』
 
「解釈」が重要であることはよくわかります。しかし、「現実は問題ではない」と言い切られると、ちょっと待って、と言いたくなります。
現実はやはり大事です。ぼくたちは現実に生きているのですから。
でも、「現実」ってなんでしょうか。「解釈」を通さない客観的な「現実」というものが存在するのでしょうか。ここが悩ましいところです。
 子どものせかいで、最近は「いじめ」がよく話題になります。
行政は「本人がいじめられていると感じたら、それはいじめである」と「解釈」します。
では、はたから見て「いじめられている」と多くの子どもたちが思っても、本人が「いじめられていない」と感じていたら「いじめではない」ことになるのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。

ぼくの心に感じたコトバ(23)

<作品が批評になっていないと意味がないと思っているんです。>
横尾忠則「高倉健を追悼する」

 教師にとっての「作品」とは何だろう?
ぼくは「授業」だと思っています。授業には日常の学級の状態(学級つくりのありよう)が陰に陽に反映しているからです。
 では「批評になっている」とはどういうことでしょうか?
これまでの自分の授業と比較して、あるいは、他者の授業と比較して。
また、国語科の授業に限れば、ぼくは児言研の言語認識を援用していますが(例えば、批判読み。一読総合法。)、教科研国語部会・文芸研・文教研など他の国語教育研究団体の授業と比較して、自分の授業を評価・判断することでしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(24)

<主張よりも謙譲、正義よりも親切を優先させる「心の豊かさ」>
マックス桐島(ハリウッド映画プロデューサー)著
『日本嫌いのアメリカ人がたった7日間で日本が大好きになった理由』

 桐島が日本人の文化について述べているコトバです。ぼくは、
「思いやり」「個人主義」「迷惑をかけない」「空気を読む」などのコトバを思い浮かべました。「謙譲」「親切」が大切だという意見には賛成です。しかし、「主張」や「正義」と対比させることには、すぐに賛成はしかねます。また、それらのことを「心の豊かさ」でまとめることにも少し違和感があります。「共存共栄の感性」とも述べています(文脈が違いますが)。
日本人が取り立てて・立ち止まって考えることのない風俗・習慣・文化について、友人のアメリカ人家族(夫婦・兄妹)の目をとおして述べられることの中には、考えさせられることが多々ありましたが。

ぼくの心に感じたコトバ(25)

 <事典には正解があるが、辞典には正解はない。>
 平木靖成・『広辞苑』編集部副部長

 ネットで調べたことがらには「正解」がある、多くの情報に当たれ、ということだろうか。ことばについては、「正解はない」ということは理解できます。
授業における疑問については、十分吟味することが求められているのは、日常体験していることでしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(25)

<いい人と出会うことです。いい人は人生の宝です。>
  高倉健が学生に語ったことば

 ぼくもまったく同じ意見です。「いい人」ってどんな人?
それは自分で判断する・感じることです。「人生の宝」、そうです。
人生が豊かになります。自分が豊かになります。
 若い(高校・大学)とき、なんでも語り合える友人がいました。
もちろん、よく議論・ケンカもしました。そのことがお互いを知る
(自分を知る)のに大切なことでした。大人になってからは、あまりケンカをしたことがありません。議論は、その場の状況に応じて、ときにはすることがありますが。

ぼくの心に感じたコトバ(26)

<すぐれたリーダーとは、何を成し遂げたかでなく、
自分よりもすぐれた人材を未来に残す人のことだ。>
  ホセ・ムヒカ(ウルグアイの前大統領)

 この人は「世界一貧しい大統領」といわれました。元左翼ゲリラで刑務所に入ったこともあり、質素な生活をしていて、2010年の大統領就任時の資産は約18万円相当の自家用車だけだったそうです。
彼は、「貧しい人とは、少ししかものを持たない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人だ」と、言っています。
 さて、「リーダー」についてですが、教師は子どもたちから見ればリーダーでしょう。ここで自問です。「自分よりすぐれた人材を育ててきたか?」。「Yes」と言いたいところですが、これは他者に判断を
ゆだねるしかないでしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(27)

<組織を活性化するのに必要な人材は、まず「若者」、次に組織を
客観的に見られる「よそ者」、3番目には急に思いがけないことを
言い出す「バカ者」だ。・・・>
     鈴木厚人(高エネルギー加速器研究機構・機構長)

 学校・学級も「機構」というとちょっとひっかかるけれど、
「活動単位としての組織」という意味ではそうでしょう。
今学校は若い先生が増えていますが、学校の活性化に生かされているのでしょうか。「よそ者」、「バカ者」の存在はどうでしょうか。管理職の力量が問われる場面です。自分を振り返ってみて、うーんとうなるばかりです。
過日、教師駆け込み寺(ぼくもスタッフの一人)に来られたある
高校の教頭の対応を聞いて、驚きました。「力量」などとはほど遠い
もので、「今の状況において大事なことは何か」、判断できないのです。高校でも、管理職のなり手が減っているそうです。その結果、30代後半で管理職テストを受けさせられる実態・・・。そんな年齢で管理職なんて、かわいそう!!!
 学級でのリーダーはもちろん学級担任です。クラスの中に「バカ者」が居ることは、みなさん経験していることでしょう。そこで担任の「力量」が問われるわけですが、むずかしいところですね。できるだけ
ゆったりと、どんな意見も受け止める構えで臨むことが大切なのは言うまでもないですが・・・。

ぼくの心に感じたコトバ(28)

<忘れてええことと、忘れたらあかんことと、
ほいから忘れなあかんこと>
         河瀨直美『沙羅双樹』
 
「忘れてええこと」は無数にあります。日々忘れています。
「忘れたらあかんこと」は、いろいろありますが、
他者に対して行った許せない行為を省くことはできないでしょう。
「忘れなあかんこと」は、うーん・・・・・・
重大な失敗は、もう何十回、何百回繰り返し浮かんでくることか!
その失敗から何を学び取るか、浮かんでくるたびに考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(29)

<「何を食べるか、どう生活するか」で、ほとんどの病気は治る。>
    白澤卓二(順天堂大学大学院教授)

白澤は、「薬が病気を治すのではない」「病気の原因物質や環境・生活要因を除去することが大切」と、別のところで述べています。
 この頃、「いじめ」がよく話題になります。そして、いじめられた子といじめた子についての対応が話されます。そのことが大事だと認めたうえで、でも、それって、対症療法(薬)であって、ほんとうに大切なこと(病気が治る)は、その子どもたちの生活環境(クラスつくり)でしょう。この視点からの発言がとても少ないのが残念・心配です。

ぼくの心に感じたコトバ(30)
 
<「敵兵を殺してお前そいつを食うか?食わんくせに殺す。だから
わしゃいくさがきらいじゃ」>
      倉本總作「屋根」の登場人物の台詞。

倉本はこんなことも語っています。
「富良野塾で、生きた鶏をみんなに殺させていた。それは命を奪うという残忍な行為を我々が行うのは、あくまで空腹を満たすという目的からくるもの」
 ぼくが小さいとき、田舎で過ごしていました。そこでは、鶏など家畜を殺して食卓に出すのは日常のことでした。小さい子どものぼくはその情景をふつうに目にしていました。どう感じていたか思い出せませんが、「残忍な行為」という感覚はたぶんなかったと思います。
 ○戦争について、このような視点から触れることに、新鮮さを覚えました。

ぼくの心に感じたコトバ(31)

<『あなたという国』>
  ドリアン・助川著

彼は、「国」ということばを辞書どおりの意味で使っていたのですが、
ぼくは、「あなた=対話の相手」と誤解し、それで、「国」を、「多様な・豊かな内容のある存在」という比喩的なコトバとして、読んでしまいました。
それで、『あなたという国』という題名に、「あなた(他者)を、
<国>のように豊かな存在として理解する姿勢」を感じたのです。
読み間違いなのですが、ぼくは、この読み間違いは大切にしたい、
と思っています。

ぼくの心に感じたコトバ(32)
 
<相槌で変わってしまう人の仲>
徳留節

この川柳よくわかります。
対話をできるだけ順調に進めるには、だまって相手を見つめているのでなく、適切に合槌をうつのがよいとはわかっているのですが、
下手な合槌をうってしまうと、話がかえってむつかしくなってしまいます。そのあとの人間関係にまで影響することもあるでしょう。
コミュニケーションのむつかしいところです。

ぼくの心に感じたコトバ(33)

<どんな言葉にも哲学の芽がある。
言葉を言った人より聞く人の方が問題なわけです。>
     高橋源一郎(鷲田清一「折々のことば」について)

高橋は、<「これがすごいよ」と説明する人がいないと、言葉は通り過ぎてしまう。>とも、語っています。
子どものコトバについて言えば、ぼくも全く同感です。

ぼくの心に感じたコトバ(34)

<幕が上がったあと、何をしているのかしばらく「意味」を考えたが、
すぐ諦めた。そして、他者の身体感覚に同期することを試みたが、
態変の舞台に登場する人々の身体感覚に同期するのは難しかった。
態変のパフォーマンスは皮膚感覚とか内臓感覚や粘膜の「活動」が
中心なので、・・・細胞レベルで同期させることに努めた。・・・、
「意味を考えなくてもよい」ということには、すがすがしい開放感があった。>
内田樹:劇団態変を観る

内田は「不思議な、それまで一度も味わったことのない経験だった」とも述べていますが、ぼくには推測できません。
劇団態変は、ぼくも応援しているので、案内はもらうのですが、まだ一度も観に行ったことがないのです。
やはり、一度は経験しておくべきなのでしょうが。

ぼくの心に感じたコトバ(35)

<真の方法は、探求されるべき物事の性質に従う>
エドムント・フッサール

「あらゆる対象を等しく分析できるような一つの方法は存在しない。
 物事の真相を捉えるにはそれにふさわしい方法、文体、表現のスタイルがある。」(鷲田清一)
 ぼくたち教師が子どもと向き合う時の基本的な姿勢・構えも同じだと考えます。
 子ども一人ひとりがみんな独自の存在です。
 改めて、彼のコトバを心に刻むことにします。

ぼくの心に感じたコトバ(36)

<良いことも不幸もなくて除夜の鐘>
                        寺田 稔

日本では「無事でなにより」とか「無事でよかった」というように、
「何事もなかったこと」を「平穏」とプラスの方向でうけとめますが、
欧米では「Nothing special」は「退屈感」を表すそうです。
ぼくの和英辞典では、「平穏」にpeacefulがあてられていました。
この感性の違いは、そこに住み続けないとわからないのでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(37)

<どうやって直すのかわからないものを、
壊し続けるのはもうやめてください。>
セバン・カリス・スズキ

「オゾン層にあいた穴、絶滅した動物、砂漠になってしまった森、
それらをどのようにして元に戻すのか、あなたたちは知らない
でしょう。」
地球サミット(1992年)で、12歳の彼女は訴えました。
ぼくもまったく同感です!

ぼくの心に感じたコトバ(38)

<ラクダについて知るには、
 ドイツ人は図書館に、
 フランス人は動物園に、
 イギリス人は砂漠に、
 出かける。>
      伊藤博文

では、日本人はどのような行動をとると、
伊藤は述べているのでしょうか

ぼくの心に感じたコトバ(39)

<人は考える力を失うと、うそでいいから答えがほしくなります。
・・・、回答を待つばかりの社会は怖い。
与えられたものがそのままで真実になるのですから。>
若松英輔

ひとりで考え続けるのは、ほんとうにしんどいです。
ぼくは対話することで、その状況を超えるようにしています。

ぼくの心に感じたコトバ(40)

<日本人は無宗教だと言いながら、死者のために祈ろうとする。・・・。
一神教が「信じる」宗教ならば、日本人のそれは無宗教というより
「感じる」宗教なのかもしれません。>
山折哲雄
ぼくには「宗教」というコトバの意味がよくわかりません。
最近、ムスリム諸国がよく話題になるので、
『イスラーム法とは何か』(中田考著)を読み始めたのですが、むずかしくて・・・。

ぼくの心に感じたコトバ(41)

<私たちは互いに「内面を表現せよ」「考えていることを言葉にせよ」と
要求することに慣れています。そして、「沈黙」を「同意」とみなし、
表現されないもの・表象されないものを「ないもの」とみなすことに
ためらいを覚えません。>
田中智彦

ぼくも子どもたちに言い続けてきました。
「考えていることを言葉にしなさい」「思っていることを外に出しなさい」と。

「表現されないものを『ないものとみなす』ことにためらいを覚えない」と断言されると、
少しひっかかりますが、言われていることには、反論ができません。
田中は、「沈黙の奥にあるものに耳をそばだてる」ことの大切さを述べていますが、
これには全く同感です。でも、実際はなかなかむずかしいことです。

ぼくの心に感じたコトバ(42)

<「レモンをかじらない自分をイメージしてください」と言われて、
 イメージできますか?このように、
 「潜在意識」は「否定形」が存在しない。>
クスド フトシ

確かに、「否定形」はイメージできません。
クスドは、こんなことも述べています。
<この『無』は「全てがある」「全ての可能性がある」ということ。
一つのことに自分を同化させないこと。>
うーん、この論理はぼくにはよくわかりません。
「全ての可能性がある」「一つのことに自分を同化させないこと」
というのが、何を言おうとしているのかわかりますが・・・

ぼくの心に感じたコトバ(43)

<知性に頼って情の薄い人生を送ってきた報いをうける・・・>
藤原帰一「映画愛」
93歳になったホームズを描いた映画評のコトバです。
「情の薄い人生を送ってきた報い」なんて言われるとドキッとします。「感情を置き去りにして」日々を過ごしてきたとは思いませんが、
「理性>感情の傾向が強い」と言われることがままあるぼくとしては、これからの生き方をしっかり見つめなければ、と思いました。

ぼくの心に感じたコトバ(44)

<私たちはいつのころからか、生命や社会や人生について
抽象的な思考をしなくなったのではないだろうか。・・・・・・。
「人間とは」を考える言葉が失われたところでは、「人間らしさ」
を考えることもできない。・・・・・・。
こうして多くの深刻な問題が、私たちの関心の外に放り出されて
いるのである。>
高村 薫

児言研では、「読み」においても「作文」においても、
「抽象化」と「具体化」の往復作業の大切さを主張してきています。
ほんとうにわかっているかどうか、この作業で点検できるからです。
この思考作業の重要性を確認しておきたい、とぼくは考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(45)

<心って見えへん、というけれど、心は見えると思う。・・・・・
人と人とがかかわる中で心は表出してくる。
とすれば、常に見えていると考える方が自然だろう。>
石黒 浩・鷲田清一

「他者との関係のなかに人の心が現れている」。
ぼくも同感です。他者との関係性に心がかかわっているのだから、
「見える」人には「見えている」のです。こわいことです。

ぼくの心に感じたコトバ(46)

<人間は、一枚の紅葉の葉が色づく事をどうしようもない。・・・。
言葉も亦紅葉の葉の様に自ら色づくものであります。>
小林秀雄 「文学と自分」

小林の言うように、歳月とともに言葉も自ら色づくとすれば、
怖いなあと思います。
ぼくがこれまでに綴ってきた言葉は、今、どのように色づいているのか。
枯れてしまっている言葉があるだろうことは想像できますが、美しく色づいている言葉がはたしてあるのか。
豊かに色づいている言葉もあってほしい、と願っています。

ぼくの心に感じたコトバ(47)

<文字を読むことがおぼつかない人々への布教は、
経典の意味を説くことより、声の調子や歌の雰囲気から入っていった。>
「節談説教」の解説より。

授業と布教とはまったく異なるものだ、とよくわかったうえでの話です。
<信仰は観念としてだけでなく、場として存在する。>
<言葉の意味を超えて心に届く「声」や「響き」>
授業(教授⇄学習過程)は「場」として存在しています。
その「場」でやりとりされる言葉は、「意味」だけでなく「声・響き」も働いています。

このことを忘れないために、<・・・>のコトバを引用しました。

ぼくの心に感じたコトバ(48)

<ホモ・サピエンスが出現したのは、およそ20万年前。
そのころの人々のからだも脳も基本的な遺伝子構成も、
今の私たちと同じである。>
長谷川眞理子(大学院教授:動物の行動と進化専攻)

<現代的課題の解決策を考えようとするとき、「最近の20万年」の
視点を持つことが重要>とも述べておられます。
20万年前と変わらない私たちの感情・情動・欲求のあり方と
急速に発展した技術が生みだした現代社会のあり方とのギャップ、
という視点に問題解決のヒントがある、という発想に驚きました。

ぼくの心に感じたコトバ(49)

<「何も特別なことのない一日」の価値。
生きていて家族や友がいて生活の場がある何でもない一日は、
実は「特別な一日」だと気づく時、心のあり方はかわる。>
海原純子

日本には「無事でよかった(なにより)」というコトバがあります。
日本的感性では「至福感」を表しますが、「無事」ということを、
欧米では、「Nothing special」と言うそうで、「退屈感」を表すとの
ことです。
文化のちがい、生活感のちがいを改めて感じました。

ぼくの心に感じたコトバ(50)

<ここではあなたの判断力が必要です。人はストーリーを語るとき、
 いろいろな話し方をします。(体験者の)録音や映像もあります。
 でも、何を録音し何を展示するかを決めたのは特定の人々です。>
(東 自由里の記事から)

これはドイツのナチス関連物を展示しているセンターの子ども向けの音声ガイドだそうです。
未成年の来館者に「批判的思考」を促しているのです。
日本にもこんな説明のある場所はあるのでしょうか。
考えさせられました。

ぼくの心に感じたコトバ(51)

<米国社会では、小学生から社会人に至るまで、自己主張が求められる。
アイデアや意見が優れているかどうかよりも、プレゼンテーションの上手な者が尊重される。>
     スーザン・ケイン(『Quiet(静寂)』の著者)

ケインはこうも述べています。米国社会では、
「自分を主張しない人は能力が劣っている、とみなされる」
「外向的な人間が勝者であり、内向的な人間は敗者だ」とも。
日本と異なる文化・社会だということがよくわかります

自分の考えを表現する(言葉化する)ことを、ぼくも子どもたちに求めてきました。
そうすることで、自分が何を考えているかわかるからです。
アイデアや意見の内容を確認するための方法であって、
「主張する」行為そのことを励ましてきたのではありません(ある子どもに対してはそういうこともありますが)。
内容と関係なく、主張の仕方が上手かどうか、など、考えたこともなかったです。

ぼくの心に感じたコトバ(52)

<戦争を「語る資格」を問うなら、それは現代に対する目的意識の有無ではないか。
体験の有無だけで歴史を語るヒエラルキーが定まり、
今を検証しない話者が歴史を語ることに嫌気がさしている。>
                    武田砂鉄『紋切型社会』

「今の若い人は、本当の貧しさを知らない」という言葉遣いも同じでしょう。「体験」を軽視するつもりはないですが、
「体験」を論拠にする人には、「あなたは現代社会に身を置いていますか」と問いたいですね。
 子どもたちの話し合いでも「体験」がものをいいます。
聞いている他の子どもたちをどう参加させるか、いつも悩むところです、教師の立場として。

ぼくの心に感じたコトバ(53)

<知識人には二つの軸が不可欠だと思います。
 ひとつは現状に対する批判力。
 もうひとつは構想力。構想力とは、間違った現状を超える、
 まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力と言えます。>
                    坂本義和(国際政治学)

教師は「知識人」です。辞書には「知識のある人」とありますから。
しかし、坂本のいう「二つの軸」があるかと問われると、答えに窮します。
批判力はあるでしょう。でも構想力のほうはどうでしょうか。
苦しいところですね。

ぼくの心に感じたコトバ(54)

<「あきらめる」ことを拒否して生きていける人は一人もいないのでは
ないか。・・・・。「あきらめること」「我慢すること」を敗北としないで、
もう少し自然に肯定する空気があってもいいと思う。>
            山田太一「「ガマン」を花で飾った人たち」より
ぼくもこれまでに「あきらめた」ことは何度もあります。でも、それを
「敗北」と感じたことがあったかな?・・・、若いときは似たような感じをもったことがあるような気もしますが、
「肯定する」ことはなかったように思います。「肯定する」・・うーん、むずかしいですね。

ぼくの心に感じたコトバ(55)

<虚偽というものは、しばしば、真実の途方もない重さに
おしつぶされるかもしれないという不安の表現にすぎない。>
            カフカ(山田太一「作家をめぐる本」より)

子どもたちと話していると、「ええっ?」と思うことが時にあります。本人は「真実を話す」ことに「不安」を感じているようには思えないのですが。たぶん、当人も自覚がなくしゃべっているのでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(56)

<リアルとは、未来の自分を動かす力であり、
自分の将来を変えるものをリアリティと呼ぶ。>
        堀江敏幸の書評から

高校生に向けた辞書には、
リアル=①現実的 ②写実的
リアリティー=いかにも本当らしい様子。迫真性。現実味。
とあります。
「未来」「将来」を視野に入れた、自分を動かす「力」という視点に、
納得するものがありました。

ぼくの心に感じたコトバ(57)

<「なにを書くか」より、「いかに書くか」の方を高く評価する人がいるが、
「書き方」は書く内容と組み合わさってこそ意味があるのではないか。>
            田中和生(文芸評論家)

国語の授業でも同様のことが話題になります
最近では「書くために読む」ことが学校の課題になっているところも多く、
「何が書かれているか」は軽く流し、「どのように書かれているか」
が学習の中心になっていることも多いようですね。
ぼくは田中の意見に賛成で、内容と組み合わせて書き方を議論してほしいと思います。
ぼくの心に感じたコトバ(58)

<愛とは自分の幸せより、相手の幸せを思うことだと考える。>
     ゲルダ(『リリーのすべて』の主人公のひとり)

「愛」というコトバを、たとえばはにかみもなにも感じないで、
口にできる日本人は少ないのではないでしょうか。(ぼくが傘寿だからかな?)。
ゲルダの考えに異論があるわけではないのですが。
最近の小学生なら、特別な感情なしに口にできるのだろうか?

ぼくの心に感じたコトバ(59)

<多くの対立や矛盾は、アイデンティティに内在する多様性を
抑圧すること、あるいは、ある種のアイデンティティの多様性が
画一的に構成された社会によってひきさかれ、社会の共同性の
基礎が破壊されたことによる。
私たちは共同性と画一性を区別する必要性がある。>
         汪 キ(日扁に軍)『世界史のなかの世界』

子どものアイデンティティを認めることはとても大切なことです。
留意することは、そこに内在する多様性を本人に気づかせること、
教師が画一的に認識しないことでしょう。でないと、子どもたち
のあいだに対立をもたらすことになりかねませんから。

ぼくの心に感じたコトバ(60)

<長く続いた平和のなかで、
日本人は「日常の底に潜む恐怖を想像できなくなっている」>
                古井由吉(自作の小説について語る)

古井は「世界は危険を含んでいる。平和・平穏で当たり前と思って
いては、危ない」とも述べています。
子どもたちのなかには、このコトバの意味を感じとれる人もいるでしょうが、幸せに過ごしてきた子にはむずかしいでしょうね。
クラス集団がうまくいっていれば、なおさらです。複雑な感慨です。

ぼくの心に感じたコトバ(61)

<いくつ歳を重ねても、その歳にならないと、わからないことがある。
 そう思うと、明日を生きるのが楽しくなる。>
            吉沢久子(98歳、エッセイスト)

ぼくも傘寿になりました(98歳にはとても及びませんが)。
「その歳にならないと、わからないことがある。」
というコトバには共感します。
そして、吉沢のことばに、「明日を生きよう」と励まされます。

ぼくの心に感じたコトバ(62)

<京都府宇治市は、認知症の人の支援に力を入れてきたが、
 認知症の人が医療や介護サービスの利用者や患者である前に、
「同じ町で暮らす生活者だ」という視点が欠けていたことに
気づいた。>       (新聞記事)

数十年昔のことですが、「障がい児」を担任したとき、
こんな子がこの地域にいるんですよ、と
地域の人に知ってもらう行動をしたのを思い出しました。
ぼくの心に感じたコトバ(63)

<将来のことは、大人になるまで生きていたら考えるよ。>
            パレスチナ難民キャンプにいる子ども

日本で同じような答えをする子どもを、
闘病生活をしている子ども以外は、ぼくには考えられません。
(貧困状況にある子どもはどうなんだ、という声が聞こえます・・・・。)
「大人になるまで生きている」のは考えるまでもない、のが日本です。
ありがたいことです。

ぼくの心に感じたコトバ(64)

<人間は「遠近法」で物事を捉えている。>
             ある本(題不明)からの引用

ここでの「遠近法」とは、
「自分に近く感じられる事柄は、実際よりも大きく感じられ、
遠いと感じられる事柄は実際よりも小さく感じられる」という
認識・理解のひずみについて述べている比喩的コトバです。
ぼくも同じ意見ですが、これを修正するのはむずかしいでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(65)

<永久革命がありうるとしたら、社会主義でも共産主義でもなく、
民主主義においてだけだ。>
                         丸山眞男

授業つくり・学級つくりでも、丸山の意見は適用される、とぼくは思います。
民主的な授業・学級は常に(永久に)発展・進化(革命)しています。
そうだからこそ、子どもたちは楽しく参加・活動しょうという意欲がわいてくるのです。

(社会主義的・共産主義的な授業・学級を、みなさん、想像してみてください。)

ぼくの心に感じたコトバ(66)

<読み終えた人に印象を残すことが成果なので、当然、技法が
 必要になる。>
            荒川洋治(随筆集についての評語から)

学校でも文章の書き方を指導します。作文の種類にもよりますが、
「印象を残す」作文という観点から、作文指導をした記憶は、
ぼくにはありません。皆さんはいかがですか?

ぼくの心に感じたコトバ(67)

<世の中には3種類の人がいる。「話せば分かる人」
「話しても分からない人」「話さなくても分かる人」だ。
政治家は「話しても分からない人」にも分かってもらう
努力を続けねばならない。>
                小泉純一郎(元首相)

子どもたちにも小泉のいう3種類の人がいます。
ぼくたちは政治家ではないですが、「話しても分からない人」にも
分かってもらう努力を続けねばならないですよね。そのためには、
日ごろから、子どもたちとの関係を築いておくことが大切です。

ぼくの心に感じたコトバ(68)

<私がどう思うかが大切で、私とは何か、私の根拠をどこに置くか、どのようにこの私になったのか、という問いが欠けている。>
                 川村覚文(近代日本思想研究家)

左派・右派の若者が自分にこだわる現象について述べられたコトバ。
自分をどこまで深く・広く・多様に見つめているか、を問題にされているのですが、これは自戒したいところです。ぼくも人前で話すとき、「これはぼくの個人的な意見です」とことわることがありますから。
自分の研究歴については、必要最小限ことわることはありますが。

ぼくの心に感じたコトバ(69)

<文章にも感涙スイッチはある。記者稼業も長くなると
「こう書けば読者は感動する」と見えてくる。
 それが嫌で、あえてその表現を避ける。>
                    小国綾子(新聞記者) 

教師も長く務めると、「こうすれば子どもたちはのってくる」と
わかってきます。それにのっかれば、子どもたちとの関係をうまく
つくることができます。けれど、それに頼っていれば子どもたちを
「発見する」ことがむずかしくなります。要注意です。
ぼくの心に感じたコトバ(70)

<オープンダイアローグは説得しない。
一つの合意を目指すのではなく、対話を通じて多様な声が交錯し、
辛い体験が共有されていく。・・・・・・。
言語とコミュニケーションが現実をつくるという考え方に立脚し、
「言葉」と「対話」へのあつい信頼に支えられている。>
                        斉藤環(精神科医)

ぼくが高校生だった頃、「自分は何者か」という問いにとらわれ、
書物を読み漁りました。そして行き着いたのが、「人間が人間であるのは、
コトバを獲得したことにある」という結論でした。
「問い」と「答え」が対応していないのですが、それなりに納得したのです。
<「言葉」と「対話」へのあつい信頼>。ぼくも同感です。

ぼくの心に感じたコトバ(71)

<思想とは、何か外界にある実体のようなものではなくて、
 私たちが生きるために、よく生きるために、それを使うもの、
 という風に私たちは考える。>
                竹内好(「思想の科学」研究会)

竹内好は次のようことも書いています。
「人がだれでも本来にもっているもの。それをそだて、その法則を
つかむことによって、さらにそれをよくそだててゆきたい」。
ぼくも同感ですし、そうありたいのですが、
それがなかなか実行し難いのです。
(この文章の動詞には漢字を使っていないのはなぜだろう?)

ぼくの心に感じたコトバ(72)

<今一番新しい劇作家、ウイリアム・シェイクスピア>
                北村紗衣(大学教員)

北村はこんなコトバも述べています。
<シェイクスピアが描いた芝居はまさに自分たちの「同時代」の問題を扱っていると考え、
現代的なセットや衣装を採用することもよくあります。>
優れた作品とはそういうものなのでしょうね。
いつになっても古びない内容を含んでいる作品を「古典」というのですから。

ぼくの心に感じたコトバ(73)

<自分と異なる思想や生き方を選ぶ人を否定したり、
非難したり、憎んだりする心をいかにのりこえるか。・・・
こんなに科学技術が進歩しても、
他者を受け入れず存在を許さないという心を進化させることができない。>
                           海原純子(大学教員)

ここに述べられているような心をいかにのりこえるか、
これはぼくにとっても大きな課題です。
「進化」できるか否かは、人間の努力の外にありますから。

ぼくの心に感じたコトバ(74)

<「アクティブ・ラーニング」というコトバを、
教育界でよく耳にするようになりました。
「主体的で協働的な学習」を意味するようですが、
わたしたちは以前からこのような学習形態を実践してきており、
いまさら、新しい事としてカタカナコトバで言われるようなことではありません。>
     新開惟展(「第25回大阪児言研・関西集会のあいさつ」より)

ぼくのコトバですから、もちろん、ぼくは同じ見解です。
教育界はカタカナコトバがお好きなところのようですね。

ぼくの心に感じたコトバ(75)

<子どもたちも教師も「楽しめる」授業をつくるために
 大切なことは二つあります。
 一つは、授業に参加できるコトバを育てること。
 二つは、そのコトバを適切に受け止める学級集団をつくること。>
    新開惟展:「第25回児言研関西集会のあいさつ」

ぼくのコトバをまた挙げるのは心苦しいのですが、
ほんとうに大事なことと信じているので認めてください。

ぼくの心に感じたコトバ(76)

<「真実」をつかもうとして、迷ったときに頼れるものは、
 「本質」に戻る「想像力」と「他者への優しさ」、そして
 「直感」だろう。>        堤 未果

異論はないのですが、どれもむずかしいことです。
「真実」をつかむことがそれほどむずかしいということ
なのでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(77)

<日本には「謝罪文化」というものがある。・・・・。
 謝らないことには、世間が収まらない。「まず謝っちゃおう」
というパフォーマンス、儀式だ。でも、謝ったからといって
自ら責任を認めたわけではない。・・・、批判する方もおもしろ
がってやる。
どちらも理詰めでは論争しない。>
        マッド・アマノ(パロディー作家)

ひじょうに鋭く、いいところをついています。
ほんとうにぼくははずかしいです。でも、ここに指摘されている
ことは事実として認めないわけにはいきません。
理詰めで相手に迫るぼくは嫌われ、ケムタがられています。

ぼくの心に感じたコトバ(78)

<気づくということは、当たり前のことに疑問を持つことでもある。
 ・・・・。
 興味を持ったらすぐに頭をはたらかせる。
 興味や関心をそのままにしない生き方が自らの生き方だった。>
            橋本武(灘校の国語の教師)

ぼくも同じような傾向があり、すぐ調べ始めるけれど、
それが「自分の生き方」とまでは言い切れないなあ。

ぼくの心に感じたコトバ(79)

<メダカ1匹=ご飯83杯。
 オタマジャクシ35匹=ご飯1杯。
 アキアカネ1匹=ご飯3杯。>
            福岡県糸島市の「農と自然の研究所」

生き物が田にどれくらいいるかを数えた全国調査をもとにした数式。
メダカ1匹が育つのに、ご飯83杯分の稲が植わった田んぼが必要だ、ということです。

ぼくは驚きました。
「田んぼを米を生産する工場みたいに考えてはいけない。
多くの命を生み育て、支えている場なのです」
とも説明されています。これはぼくも知っていました。でも、
このように数式で示されると改めてほう~と感じました。

ぼくの心に感じたコトバ(80)

<9勝6敗を狙え>
         色川武大

このコトバについて、鷲田清一は、
<高校野球なら毎試合全力を投入しないと次に残れないが、
プロの勝負は通算で決まる。
人生も同じ。・・・・・、
「これを守っていれば勝ち越せる」というフォームを見つけること。>、
と述べています。
おっしゃることはよくわかります。
ただ、「勝ち越せるフォーム」を見つけることが、ぼくには難題なのです。

ぼくの心に感じたコトバ(81)

<近代社会に移行する過程で、人間社会は、ヒトという動物が本来、
共同繁殖でなければ子育てができない動物であるという事実を忘れた。>
                長谷川真理子(進化生物学者)

長谷川は、こうも述べている。
「社会がいかに市場経済と個人主義に変わろうと、
両親以外の多くの個体がかかわらねば子育てができない
という生物学的制約は消えていない」

隣近所のつきあいがうすくなってきている現実を実感するにつけ、
「子育ち」が心配です。
ぼくの子どもは近所のおとなにしかられながら育ちました。
このごろは、他人の子どもをしかるのにすごく気を使います。

ぼくの心に感じたコトバ(82)

<新卒採用で重視した点を企業に聞くと、
1位が「コミュニケーション能力」、・・・、
「責任感」は6番目だ。>
   中村秀明(毎日新聞論説委員)

「コミュニケーション能力」をどのようにして判断したのか、
ぼくは知りたいですが、それはここでは横において、
「責任感」が6番目とは驚きました!!!
考えられない企業の姿勢です。
ぼくもいろんな研究グループに参加していますが、
「責任感」を持っていない人って、信頼できませんよね。

ぼくの心に感じたコトバ(83)

<哲学的対話の目的は、
「ある事柄の意味(本質)を
言語によって明確化する作業」である。>        プラトン

「哲学的対話」ではないですが、
「対話」は共通の答えに到達するための作業・行動である、
 とぼくは思っています。

ぼくの心に感じたコトバ(84)

<少年院を取材していて思う事。
かつては、社会との対立構造の中で事件が起きた。
でも、今は反社会でなく、非社会になっている。
矛盾が内へ内へ、家庭に向かえばネグレクト、
自分自身に向かえば自傷行為や引きこもりとなる。>
            石井光太(ルポライター)

「今は反社会でなく、非社会になっている。」ぼくも同感です。
「反社会」的な行動に出ていた方が「安心」(?)できました。
「非社会」的になってきたのはどうしてでしょう。悲しいです。

ぼくの心に感じたコトバ(85)

<あきらめない持続性こそ一番信用できます。
しぶとくノーを言い続ける。>
            黒井千次(作家)

「持続することは力」というコトバがあります。
ぼくがかかわっている活動も同じです。
それでどんな成果があったのか、気にしません。
続けることで社会に影響していることを信じています。

ぼくの心に感じたコトバ(86)

<代受苦者(だいじゅくしゃ)>
     仏教のコトバ

金子みすゞ記念館の矢崎節夫館長が、みすゞの詩から読み取った
みすゞの物の見方について語ったコトバだそうです。
意味は、「もともと自分が受けたかもしれない災難やくるしみを、
 自分に代わって受けてくださった人」
(似たコトバに「獄苦代受」(ごっくだいじゅ)があります。仏教語。)
菩薩の慈悲のこころを指し、菩薩の行の一つともいわれています。
ぼくも金子みすゞの詩は好きで、読むたびに強く心に感じます。
でも、こんな仏教語で受け止められるとは知りませんでした。

ぼくの心に感じたコトバ(87)

<凡庸は罪である。>
     ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』

ええ~、そんな厳しいことを言わないでください。
と、思いましたが、こんな説明があって少し安心しました。
<「平凡」と「凡庸」は似て非なるもの。 
 「凡庸さ」は思考停止につながり、そのことが
全体主義という巨大「巨大な悪魔」を生みだす。>
ぼくは「平凡」ですからびっくりしたわけです。
「思考停止」にならないよう、常にこころがけ心がけています。

ぼくの心に感じたコトバ(88)

<言葉は・・・誰もが共有できる、しごく公平なもの。
 誰もが使っている言葉から、新しい文脈を引き出すのが
詩人の仕事。>

最近の教科書には、説明的文章の書き方の例がほとんどで、
ぼくが教師になりたてのころ大切にした、
いわゆる「生活綴り方」が見られません。
これには驚きました。
子どもたちは「共有の言葉」を使って、文章を書きます。
その文章には子どもたちの人間性・個性があらわれてきます。
最近の教科書のように、「説明の型」にそった文章では
そこのところがどうなるのでしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(89)

<小学校で、「誰よりも早く目を覚ますもの、なーんだ」と聞くと、
・・・、「空」と元気よく答えた男の子がいた。>
                近藤勝重(新聞編集委員)

こういう子どもがいるクラスは気持ちがいいですね。
周りの意見にとらわれずに、自分の思ったままを述べる。
そんな子どもに誰もが育ってほしいと、しんそこ思います。

ぼくの心に感じたコトバ(90)

<文章は形容詞から腐る。>
            開高健

このコトバは、留意しなければならない。
つい不用意に形容してしまうことがありますね。
好きな形容語を使う時は、要注意です。

ぼくの心に感じたコトバ(91)

<教育というのは集団の営為だ。>
            内田 樹

ぼくも同じ考えです。
内田は教師について述べているのですが、
教室における教育も同じで、
子どもたちの関係・集団のありようによって、
授業の「効果」は異なります。
ぼくが学級・学習集団つくりに力を注ぐのはそのためです。

ぼくの心に感じたコトバ(92)

<私は自分の気持ちをうまく表現できない時に「やばい」という
言葉を使っていたようだ。>
            中学生(15歳)

彼女は「良い意味にも、悪い意味にも使える」とも書いていて、
「<やばい>を使い続けると、本当に伝えたいことが伝わらなく
なる」とも書いています。
語彙が乏しいなと感じられるような文章を書かないよう、
ぼくも心がけてはいるのですが・・・・。

ぼくの心に感じたコトバ(93)

<「相手や場面に合わせて態度を変える方が好ましい」
 という人が、
 「いつも同じ態度でいる方が好ましい」
 を、20代では上回った。>
            2013年度世論調査

この記事の筆者は、
「コミュニケーション能力が上がっている一面があるかもしれない」
と分析しています。
以前、企業が「コミュニケーション能力」を1位に、
「責任感」を6位に位置付けていることにふれて、
「コミュニケーション能力」をどのような観点で判断するのか
知りたい、と述べたことがありますが、一つわかりました。
ぼくはこの若者の考えを良しとしているのではありませんが・・・。

ぼくの心に感じたコトバ(94)

<無関心は罪>
        全世界文化アカデミー

2日間のホーラムの記録集
『介入とは?人間の権利と国家の理由』から引用しました。
そこには、「最も非人間的なのは、かかわり合いを避ける選択、
無関心だ。」と述べられています。
ぼくは関心をもつ分野が狭く、ほとんどのことに無関心です。
しかし、人間に関わる分野には無関心ではありません。
人間の権利にかかわることに<無関心であることは罪>には
同意します。

ぼくの心に感じたコトバ(95)

<方言の持つあいまいさは人間そのもののあいまいさであり、
 感情というものの奥行きの深さをあらわすものだと、思う。>
                    天野祐吉

「方言は共通語より気持ちがあらわせる」という人が多い。
文章に書けば、意味の伝達は共通語の方がまさる、と思うが、
話しコトバは<意味+感情>だから、むずかしいです。

ぼくの心に感じたコトバ(96)

<電子メールで、
笑顔や泣き顔といった絵文字が、
女性に多く使われている。
理由は、
気持ちをより分かりやすく伝える、
相手への親しさを表す、
などが多かった。>
            新聞記事(2016年9月)

ぼくは絵文字を使ったことがありません。
事務的な内容が多いことが一つの理由ですが、
ほかにも訳があります。
この記事のなかにもそれは述べられていました。
「笑う表現を例にとっても、日本語にはいくつもの単語がある。
微妙な感情のひだを一つの絵文字で表すことはできない。」
ぼくも乏しい語彙の中から、できる限りピッタリの語句を選んで
使うように心がけています。

ぼくの心に感じたコトバ(97)

<民主主義が成熟すればするほど政治家は小粒になると思う。
 市民が成熟すれば、すごい政治家は必要なくなるのでは・・。>
                鈴木由紀子(作家)

先日、ぼくが主催する研究会で聞いたことです。
子どもたちをひきつけることも、授業の技術も優れている先生。
保護者からも管理職からも評価が高い。
子どもたち同士の関係は?と尋ねたら、うーんという答え。
こども”たち”ではなく、一人ひとりが先生と結びついている様子。
子どもたちと教師の関係・指導の在り方を考えるうえで、
大切な観点だと、ぼくは思います。

ぼくの心に感じたコトバ(98)

<人の動きには癖がある。その癖(「体癖」)は、
 趣味、教養、知識、感情、思想、健康状態から
家風、経済、流行等、
個人生活から社会事情に至るまで、
そのすべてが反映している。>
     野口晴哉(はるちか)著『体癖』

野口さんは、10万人以上、30年以上、
「体癖」を観察した結果、
人が行動する基準を、
〇損得を重視する傾向、〇好き嫌いを重視する傾向、
の二つに分類しています。
ぼくは、自分の「体癖」などわからないのですが、
どちらかといえば、後者に属するのかなあ・・・
教師の目で子どもたちを見ていると、
一人ひとり「体癖」があるように見えますね。

ぼくの心に感じたコトバ(99)

<加害者である親たちは異口同音に
「自分なりに、子どもを愛していました」と語った。>
        石井光太『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち』

「愛している」のに虐待する親、死なせてしまう親。
<「複雑な」という紋切り型の形容では言い切れない家庭環境>
と石井さんは述べるのですが、
このような親のあり様を「家庭環境」で説明することは
ばくには理解できません。

ぼくの心に感じたコトバ(100)

<従順であるとは、「他者の意志への屈服」である。>
        アルノ・グリューン『従順という心の病い』

子育てを体験してきた、そして、教師を体験してきた
ぼくとしては、とても複雑な心境になります。
「従順」というコトバを使ったかどうかは別にして、
このような姿勢で子どもたちに対応してきたことが
多くあったのは事実です。

他者の意見を批判的に聞いて、それに従うということは、
「屈服」とは違う、とぼくは考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(101)

<一人ひとりに与えられた体は、それぞれ、
天然自然、あるいは宇宙全体の縮小版であって、
その中に根源の真理がすべて内包されている。>
        井上雄彦:漫画家『バガボンド』

若いときには、「身体」について
井上とはちがう意見を持っていたのですが、
今では井上の考えが少しわかるようになりました。
体を動かすことは自己との対話である、ということも。

ぼくの心に感じたコトバ(102)

<自然破壊をする性質を持つ科学技術社会では、
 人間という自然も破壊される。
 生きものを機械とみている。>
         中村桂子(JT生命誌研究館館長)

ぼくは人間です。自然です。機械ではありません。
日本は科学技術文明の進んだ国ですが、
生きものを機械とみない国であってほしいものです。

ぼくの心に感じたコトバ(103)

<問題意識がなければ、目は節穴だということだ。>
            川田順造(文化人類学者)

川田はさまざまな国を見てきてこう言います。
「食う、運ぶ、座る、歌うなど身体の使い方にも
 異なる作法と原理がある。
ちょっとした差異に気づくことから問題意識が生まれ、
見えなかったものが見えてくる」

「問題意識がなければ、目は節穴だ」という意見に
ぼくも賛成です。
教師の現役のとき、子どもたちの何を見ていたか、
見えていなかったことが後からわかる体験は多々ありました。

ぼくの心に感じたコトバ(104)

<「これ、見られたらやばいな」って意識せざるを得ないような、
 畏怖の対象があるかどうか、これは大事だと思う。>
                    阿川佐和子

このような意識は若いころからもっていました。
しかし、生意気にも、
身近に具体的な先達をみつけることができませんでした。
今は、身近ではありませんが、そのような人がいます。
ぼくの視野が広くなったことの証でしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(105)

<言葉が無駄遣いされています。
ツイッターやフェイスブックの大半は
垂れ流しなのではないでしょうか。>
        谷川直子(作家)

「言葉の無駄遣い」にはいつも注意しているのですが、
他者から見たら、
「無駄遣い」になっている場合があるかもしれません。
いっそう心したいと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(106)

<「あたしこれ好きかも!>
    若者の言い回し

好き嫌いは本人がいちばんよく知っているはずなのに、
こんなふうに言う若者。
未知の自分を発見した喜び?
自己の対象化?
判断の延期?

金田一秀穂は
「これはアナログの中にとどまっていたいという欲求だ」
と解釈します。
「アナログの中にとどまる」ってどういう心情なのか、
ぼくにはわかりません。

ぼくの心に感じたコトバ(107)

<社会学の基本には、物事を「関係」として捉える発想がある。
家族を取り上げたら、
家族とそれ以外のものとの関係も考えなければいけない。>

 佐藤俊樹『古市くん、社会学を学び直しなさい』

佐藤はゼミの学生に
①    「自分の言うことがどれだけ間違い得るかに鋭敏になれ」
と言っているそうです。
また、こんなことも言っています。
②    「触る」というのは、
全部はわからないけれども、何かの部分をつかむことができる。
触っているモノやコトが何かを教えてくれる。

①    は厳しいですね。
②    は留意したいコトバです。

ぼくの心に感じたコトバ(108)

<社会学に向いている人は、
 一に好奇心、二に好奇心、三、四がなくて、
 五に尻軽さ(好奇心に体が伴って、現場に動く)。
 +
 想像力より現実の方が豊かだと思えること。>
上野千鶴子『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』

ぼくも社会学に向いているようですね。
上野の言うこの条件に合うようですから。

ぼくの心に感じたコトバ(109)

<文末に「思う」「考える」と書くのは、極力避けようと
心がけている。安易な感じがするからだ。>
  近藤勝重(毎日新聞、客員編集委員)

ぼくも同感です。
言い切ればすっきり・はっきりするのに、
なぜか、政治家の発言に「・・・、と思います」
が多いように感じます。(はっきりさせたくない?)
ただ、近藤も言うように
「思う」と「考える」の使い分けは重要です。
ぼくも気をつけています。

ぼくの心に感じたコトバ(110)

<役に立つことを求めることが社会をだめにする。>
        大隅良典(ノーベル賞受賞者)

「基礎的なことを大切に」ということで、
このコトバの趣旨は同感ですが、
教育の場面ではどう理解すればいいのでしょうか。
「社会の役に立つ人を目指しなさい」
という趣旨のことを、ぼくは子どもたちに話してきました。

ぼくの心に感じたコトバ(111)

<まっとうな批判が「悪口」と受け止められる時代、
本音でモノを言うのが毒舌、と認知される昨今、・・>   
    武田砂鉄:『紋切型社会』の筆者

武田は「安易な同調や
耳に心地よい『いい話』風の言葉が好まれる」
とも述べています。
コトバが軽くなってきている、
主体性が弱くなってきている、
とぼくは思います。
「イエスとノーとの間に
どれだけのグラデーションを用意できるか」
「言葉を取り戻さなければならない」
ぼくも同意見です。

ぼくの心に感じたコトバ(112)

<「多数者の専制」:
 民主主義が常に多数派による
少数者の自由侵害の危険をはらむこと。>
        トクビル(フランスの思想家)

例えば、多数決という方法がはらむ危険性を
常に意識しておくことが大切だと、
ぼくは思っています。

ぼくの心に感じたコトバ(113)

<個性的な作品を作りたいと思う作者は
 個性の弱い人です。
「個性的である」とは、
 競争に勝ち抜いて目立つことではありません。>
        山田洋次(映画監督)

山田はこのように述べています。
「か弱く傷つきやすい人たちをあらゆる暴力からかばい、
 その命を深く愛しみ、守り抜くところに、
 人の個性とその強靭さがおのずとあらわれるのです」
山田のこのコトバは、教育界でも大切にしたいものです。

ぼくの心に感じたコトバ(114)

<対話は、
私が消えていく出来事だ、 と言えるかもしれない。
そこにコトバだけが存在する。
対話とは、
自分が何を考えているかを相手の口から聞くことだ、
と言えるかもしれない。
また、
自分が何を考えてきたかを、
相手の言葉を光にして、たどって見る経験だ、
とも言えそうだ。>
  若松英輔『現代の超克』(中島岳志)

「対話」について、
ぼくはこのような感想をもったことはありませんでした。
対話する相手によるのでしょうか。
自省の構えによるのでしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(115)

<置かれた場所で咲きなさい。
 どうしても咲けない時もあります。
 そんな日は下へ下へと根を降ろします。>
    渡辺和子『おかれた場所で咲きなさい』

「咲けない時は下へ根を降ろしなさい」
というコトバに強く心を動かされました。
“見えないことを豊かにする”、
この発想を大切にしようと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(116)

<障害は個人に属するものではなく、環境に依存する。>
    福井佑実子:KKプラスリジョン代表
    (=障害を「ある」から「ない」に変える
            仕組み作りに取り組む企業)

ぼくは、「関係論的視点」でものごとを見るようにしています。
ぼくが主催する集まりでもこのことは明言しています。ですから、
「個人能力還元主義」的な見方をしない福井の意見に賛同します。

ぼくの心に感じたコトバ(117)

<人間はなぜ「権威」(命令)に「服従」し、
残虐行為もやってしまうのか。>
    玉木研二(毎日新聞編集委員)

教師は重々気をつける必要があります。
子どもたちは教師の働きかけに従うからです。
かつて現役のころ、ぼくのクラスで、
「先生、なぜそんな質問をするのですか」
と尋ねた児童がいました。
このような質問ができる集団(学級・学習)を
つくることが大切でしょう。
(アイヒマンは「命令に従ったまで」と繰り返し、
 責任を感じる様子はなかったそうです。)

ぼくの心に感じたコトバ(118)

<平均からはずれているために
 不安感からひきこもってしまう人や、
いじめられる人からの相談をうけることが
多くなってきた。>
    海原純子(心療内科医師)

「平均の中に入れない人はダメ、という
 社会通念のような意識がある」
とも海原は述べています。
“みんなと一緒”でないと安心できない、
あるいは、そのような人を排除する、
という心理・風潮は困ったものだと思います。
ぼくはこのような「社会通念」とは無縁に生きてきたので、
なんとアドバイスしていいのか・・・・・。

ぼくの心に感じたコトバ(119)

<ゆがんでいるのは小説世界ではなく、
 不条理だらけの現実世界の方だ。>
  三崎亜紀(作家:『となり町戦争』にふれて)

小説世界がゆがんでいても、
ぼくは困ることはありません。
でも、現実世界がゆがんでいると、
ぼくは困ります。
このごろの現実は
ほんとうにひどいことが多いです。

ぼくの心に感じたコトバ(120)

<偏見や恐怖にとりいる虚報が
正しい情報より拡散してしまうのは
人の世の宿命なのか。>
毎日新聞:余禄(2016.12.28)

「宿命」とは思いたくないけれど、
現実がそうであることは
認めなければならないですね。

ぼくの心に感じたコトバ(121)

<5万人を前に演奏したこともあれば、
 50人のために演奏したこともあります。
 しかし、
 50人に演奏する方がむつかしい。
 5万人は「一つの人格」に見えますが、
 50人は一人ひとりが自分だけの世界をもっています。>
    ボブ・ディラン:ノーベル文学賞受賞のスピーチ

教室では45人以下(?)でしょう。
「一人ひとりが自分だけの世界をもっている」
このコトバを十分かみしめて、授業したいですね。

ぼくの心に感じたコトバ(122)

<現在、
自由や民主主義が守られる保障のある国は
 一つもない。
 私たちが想像する以上に
 自由を失うのは簡単である。>
  ヴィタリー・マンスキー(ロシアの映画監督)

ソ連時代の経験を動機に、全体主義社会の存在理由に
興味・関心を持ったそうです。
日本も「自由や民主主義が守られる保障」はありません。
わたしたち自身が守る以外には。

ぼくの心に感じたコトバ(123)

<今、「福は内、鬼は外」という理論がまかり通っており、
 それが正当化されつつある気配がこわい。>
        海原純子『新・心のサプリ』(毎日新聞)

自分と意見や思想、ルーツを同じくする人たちを「内」とし、
じぶんと異なる人たちを「外」として受け入れない考え方。
海原は、
<「投げた豆は隣の屋根に落ちる。
隣の家にとっては“内”なんだよ」と
父に言われた記憶を例にあげて、
真の「鬼」とは何だろう、と考える。>
ぼくも同じ考えです。これからも、
真の「鬼」を考え続けていくつもりです。

ぼくの心に感じたコトバ(124)

<この上なく有能な傾国官僚>
  面 一也:大学教員(『週刊読書人』2017.2。3)

大学交付金一律削減という国の方針について、
「基礎的研究がやりづらくなる」と述べた学長を、
マネジメント「無能」者と評価したエリート官僚。
その高級官僚について面が評価したコトバです。
「有能な傾国官僚」とはうまい形容語だと感じました。
ぼくも有能な「傾学級集団」教員にならないよう
留意しなければ、と思ったのです。
こんな教師が周りにいましたから。

ぼくの心に感じたコトバ(125)

<古人、禍は口よりいで、
病は口より入るといえり。>
   貝原益軒『養生訓』

「禍は口よりいで」
というコトバはよくわかります。
留意して話してはいるのですが、
時に、後悔することもあり

ぼくの心に感じたコトバ(126)

<彼(オバマ)は、
誰かを見下したり、いじめたり、おとしめたり、
そういうことをしなさそうな人だった。
そういう安心感は、株価が高騰することよりも、
人が生きる社会にとってはずっと大切なことです。>
    中村安希:ノンフィクション作家

ぼくも同感です。
トランプ大統領は信用できないし、安心もできません。
子どもたちにとって、
安心できる教師はうれしい存在です

ぼくの心に感じたコトバ(127)

<「いい質問」が人を動かす>
  谷原 誠の本の題名
<質問を大切に。
 答えは平凡でも、
質問で何が問題なのかを伝えることができる。>
 国谷裕子(ニュースキャスター)

今回は「質問」の重要性について取り上げました。
国谷キャスターのコトバに、ぼくも同感です。
教育界では「発問」と言っていますが、
教師は授業での「発問」を重要視していて、
「発問」研究会もあるほどです。

ぼくの心に感じたコトバ(128)

<囲師には必ず闕(か)き、
窮(きゅう)コウ(漢字出ず)には迫ること勿れ。>
    孫武著『孫子』より

意味は、
相手を追い込んでも逃げ道をつくっておかなければならないし、
負けた相手をさらに追いつめてはいけない、ということ。
若いときの自分を思い出します。
議論するとき、
先に逃げ道を閉じておいてから追いつめる、
ということを意識的にしていました。
相手がどんな思いをするか、
ということに考え及ばなかったのです。
ある時期から、
「鬼」の新開―→「仏」の新開
に変わりました。

ぼくの心に感じたコトバ(129)

<「フェイクニュース」>

昨年のアメリカ大統領選挙頃から
急激の耳にするようになりましたね。
オックスフォード大学出版局が
2016年を象徴するコトバとして
「POST-TRUTH(ポスト真実)」
を選んだことにも驚きました。
マスメディアが「フェイクチェック」するのは
当然だと思っていたのですが、
そうでもないのでしょうか。
ネットで情報が世間に広がるようになって、
世の中、何かおかしくなったように感じられます。

<オルタナティブ・ファクト>

トランプ大統領のこのコトバには驚きました。
「事実は人によって異なる」
一般論としては認めます。
「事実」は多様だという意味で。
人によって「事実」は異なるという意味で。
しかし、参加者の人数は客観的に判断できることでしょう。
こんなことがまかり通れば、世の中、
声の大きい者が「勝ち」ということになりかねません。
怖い世の中になったものです。

ぼくの心に感じたコトバ(131)

<お母さんのこえは、
耳かきと同じくらいきもちがいいです。>
                小学3年生の男子

この子は
「お母さんのこえがやさしいこえなので、
よんでもらうのがすきです」
とも書いています。
この子は、コトバでなく、声に優しさを感じているのです。
声にお母さんの気持ちがこもっているのでしょう。
すてきなお母さんだなあ、と思います。

ぼくの心に感じたコトバ(132)

<若くなるには、時間がかかる。>
    日野正平

日野は身体のことを言っているのだと思います。
(若いからだをつくりあげるには、
時間をかけて鍛えなければならない。)
ぼくは精神的なことに置きかえて、同感です。
この歳(傘寿)になってみて、そう思うのです。
若いとき、それから先の時間は気になりませんでした。
今また、残された時間を気にせずに、
自由に、すきなように、行動しています。

ぼくの心に感じたコトバ(133)

<まんがで学ぶメリットは、
 活字ほどハードルが高くなく、
 映像ほど受動的でないこと、です。>
野島博之:『学習まんが 日本の歴史』アドバイザー

「まんがを読んでも読書とちゃう」という親、
「まんがを読まんと勉強しなさい」という先生、に
このコトバを聞かせてあげたいです。
こまとこまのあいだを考える・想像することは、
あたまをきたえるのによい活動になるのですね。

ぼくの心に感じたコトバ(134)

<人間がつけた価値観というのは、
 それが通用する社会の中だけのものといえる。>
         海原純子:医師
 
視野をひろげ、多様性を認め、相対的にみる、
ということの大切さを改めて感じます。
教室の前に掲示されているスローガンは
要注意ですね。

ぼくの心に感じたコトバ(135)

<本や雑誌の売り上げが
ここ16年で4割も減った。
が、自費出版は増加傾向にある。>
    高田公理:酔狂道中記(2017年)

高田はこのようにも書いています。
「SNSなどで発信し、
多くの他者に知ってほしいと考える人が増えた。
自己表現の面白さに目覚めたのだろう」
ぼくはこの傾向を歓迎します。
ただし、他者の非難や悪口はいただけませんが。

ぼくの心に感じたコトバ(136)

<「アメリカファースト」
 「都民ファースト」>
 トランプ米大統領、小池都知事

ぼくたち学校教育に関わる教員としては、
「児童・生徒・学生ファースト」
ですね。
このことが徹底していない職場を
知っているぼくは、声を大にして言います。
「児童・生徒・学生ファースト」!!!

ぼくの心に感じたコトバ(137)

<日本の社会は、異質なものに対しては
 モーレツに冷たい。>
  山田太一:ポスト・バブルの日本人考

この発言は15年前のものです。
最近は、
街中で障がい者を目にすることが多くなりましたが、
「異質なものに冷たい」状況は
変わっていないと思います。
「日本文化の一面だ」という人がいますが・・・・!?

ぼくの心に感じたコトバ(138)

<「みんな」という魔力>
    海原純子:心療内科医
 
海原は次のようなことも述べています。
「日常生活のなかのさまざまなものごとで、
 「みんな」と同じでないということを
 ストレスにかんじている方が多いことを
 診察のさいに気づく。」

 ぼくは、小学生の頃のことはおぼえていませんが、
中学生から周りのことはあまり気にしませんでした。
それで、
「少しは周りのことを考えなさい」と、
母親から言われたことが何度もあります。
大人になってからも、今も、この傾向はつよいです。

ぼくの心に感じたコトバ(139)

<「印象操作」、「マジックワード」>
   安倍晋三首相

「ポスト真実」というコトバが社会化しています。
いやなコトバです。
引用したコトバも同じようなことを意味します。
事実を示すのではなく「印象」づけて、「そうか」と思わせる。
「この道しかない」「選択肢はほかにない」
なども同様で、聞く人に思考停止させる働きがあります。
政治家は意識的に(あるいは無意識に)コトバを発しているので、
要注意ですね。

ぼくの心に感じたコトバ(140)

<どんな文化も平等に尊重するという「多文化主義」は
 もう失敗していることを認めるべきです。>
      谷口功一(法哲学者)(2017.4)

谷口はこのような現実を示しています。
「どの国でも、多文化主義は
 社会の断片化、マイノリティの疎外、市民の怒り、
 に行きついている」
これが世界の現実だとすれば、
そのような社会をつくってしまう「市民」の問題ですよね。
ぼくもその「市民」の一人なのだ、と認めたくはないのですが。

ぼくの心に感じたコトバ(141)

<我が国の正義は力で守る>
   北朝鮮国家

「力で守る」ところは横において、
ぼくが守る「正義」は『日本国憲法』です。
残念なことに、
『日本国憲法』をきちんと読んでいない人
(ぼくを含めて)が多いようです。
「豊中市民力フェスタ」(2016.11)の参加者に、
第99条の「尊重・擁護する義務は国民にある」というのは
「正しい」か否かをたずねたところ、
男女ともに「正しい」と答えた人の方が多かったのです。
正解は否です。義務を負うのは「国民」ではなく、
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」
です。
教師は、憲法を、学校できちんと指導しているのでしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(142)

<続けるという行為は、
新しいことに取り組むよりもエネルギーのいることかも。>
  山中隆太『阪神・淡路大震災 わたしたちの20年目』

わかります。
ぼくもずっと続けていることがありますが、
新しいことに取り組むほうが気持ちが昂りますから。

ぼくの心に感じたコトバ(143)

<外来語を大和言葉に置きかえないと、
ほんとうには「実感」できないと思う。>
上野誠:『さりげなく思いやりが伝わる大和言葉』の著者

ぼくも同感です。
大和言葉には、意味だけではなく、感情が感じられますが、
外来語は、感情抜きに、知的に意味だけが受け止められて、
「実感」とはなかなかいかないですね。

ぼくの心に感じたコトバ(144)

<チョウチョの飛び方、
あれがチョウチョにとってのまっすぐなんだ。>
   坂口恭平『現実宿り』

チョウチョがとぶ方向はぼくには予測できません。
子どもたちの行動も同じで、
その子にとっては「まっすぐ」なんだろうけれど、
ぼくから見るとそのように見えないことがあります。
ここが悩ましいところです。

ぼくの心に感じたコトバ(145)

<正しい大きさの感覚が、認識を正しくするのだ。>
    長田弘『幼年の色、人生の色』

「感覚」と「認識」の関係、
なんとなくわかるような気がしますが、
むずかしいです。
「認識」が「正しい」かどうかは、
何かにもとづいて判断するわけですが、
「感覚」が「正しい」かどうかは、
もとづくものがあるのでしょうか。

ぼくの心に感じたコトバ(146)

<すべての人間関係は力関係であり、
 その意味では政治である。>
 池澤夏樹の、『紋切型社会』についての評語から。

「人間関係は力関係」と言われると、
すなおに納得できないけれど、
否定もできないですね。
「政治と同じ」と言われると、
「うーん・・・・」
学級集団つくりもそうなのか!?

ぼくの心に感じたコトバ(147)

<ファクトを直視せよ。
 南スーダンに派遣されている自衛隊が
 二つの「オルタナティブ・ファクト(別の真実)に
 振り回されている。> (2017.2.28)
 森 健(ジャーナリスト)

「ファクト」というコトバが新聞を駆け巡っています。
辞書では「事実」と訳されているのですが、
「真実」の意味で使われている文脈もあります。
上記の文章もそうです。
日本語で書かずに英語で書くのはなぜでしょうか。
トランプ大統領の言葉遣いに端を発しているようです。
(「フェイクニュース」も日本語に訳されず、そのまま使われている)
「事実は真実の敵である」というコトバもあるようです。
日本語にせず、英語のまま使うほうが、
「現実」をあらわしているのでしょう・・・・
こうなると、理解に苦しみます。
いや、
「現実」が理解不可能なのですから、それでいいのかも・・・・

ぼくの心に感じたコトバ(148)

<私は・・頭髪は真っ白で、電車に乗るときは帽子をかぶります。
 席を譲られるのが嫌なのです。
 今の若者はアルバイトや・・私よりもっと疲れていると思いますので、
 1時間くらいは立っています。
 見えです。見えを張らなくなったら本当の老人になったのだと思います。>
                75歳の女性

ぼくと同じ態度や意見なので驚きました。
ただ、1時間もかかるほど遠くへ行くときは、
見えをはらずに、
座ることにしています。
この女性より6歳年長ですので。(言い訳です)

ぼくの心に感じたコトバ(149)

<人間として生まれたから人間になるのではない。・・・
 人間として育っていく・・・、その一つが「書くこと」。
 「書く子は育つ」>
         近藤勝重(毎日新聞客員編集委員)

ぼくも全く同じ意見です。
「書く」行為は自分を知る大切な実践です。
だから、子どもたちに「書くこと」を求めてきました。
そして、その文章をプリントして、クラスメートに届けました。
学級文集はぼくの宝です。

ぼくの心に感じたコトバ(150)

<「凡庸は罪である」>
 藤井聡著『<凡庸>という悪魔―21世紀の全体主義』

「凡庸は罪である」と言われるとつらいですね。
「凡庸」とは「優れていないこと」と、辞書にあります。
自分には何か「優れた」ところがあるかなあ・・・?
でも、
「罪である」とまで言われると・・・!!
「人間である限り思考停止してはならない」
という意見に反論はしませんが、
そうありたいとは思っているのですが・・・、

このごろ、木々の緑、色とりどりの草花にやすらぎを感じる時間が
増えてきました。

ぼくの心に感じたコトバ(151)

<親が子どもに及ぼす影響というのは、計り知れない。>
   小川 糸(作家)「日曜日ですよ!」

ぼくにはふたりの子どもがいる。
(子どもが小さいとき、
ぼくは仕事でほとんど家にいなかった。
子どもは母子家庭のような中で育った)。
今はふたりとも独立していて、ぼくは安心している。
どんな「影響」を及ぼしてきたのか、「計り知れない」!!


ぼくの心に感じたコトバ(152)

<差別とは、本来対等で同じ価値を持つ私たちが、
 私たち自身をus(私たち)とthem(彼ら)に分けてしまうこと。>
      中島京子(作家)

ここでの「分ける」ことを
「分類する」というコトバに置き替えてみます。
「分類」は認識や行動のために人間がつくった枠組みですから、
存在そのものの区別ではありません。
「分けること自体が差別だ」という意見は
どのような認識・行動のための「分類」なのか、
「私たち」と「彼ら」とを分ける根拠・論拠を問う、
という作業をとばしています。
「本来対等で同じ価値を持つ」存在を「分類する」、
という発想自体が差別なのだ、
ということのようですね。
う~ん・・・、
差別的発想だ、と言われると、わかるような気はしますが。


ぼくの心に感じたコトバ(153)

<野に雑草という名の草がないように、
 工場には雑用という名の仕事はない。>
小関智弘著『どっこい大田の工匠たち』

教室の係活動は、自分たちの活動のためにあるので、
先生の雑用をする「先生係り」はありません。
そんな係りを置いている学級があるようですが、
わたしはそのような係りを置いたことはありません。

ぼくの心に感じたコトバ(154)

<定型があるからこそ、
うたい出すことのできる魂もある。>
 上野千鶴子:社会学者

「ホームレスの鳥居さんは短歌と出会って、
これなら自己表現ができると思った。
定型が彼女の感情とことばを解放した。」
上野はこう述べています。
以前にも述べたことがありますが、
今のぼくは詩や短詩に
こころを動かされることが多くなりました。
なぜだか、自分でもわかりません。

ぼくの心に感じたコトバ(155)

<「言葉でなく、態度で示す」こと。
「弱音を吐いてもよい」環境をつくること。>
        上野千鶴子:社会学者

先生は話すことも大事ですが、
子どもたちは、それを実感できて
初めて安心するのです。
これは心にとどめておきましょう。

ぼくの心に感じたコトバ(156)

<書くことで、
誰かの心の蛇口をひねっているような
心地がしました。>
文月悠光(詩人)

うまい比喩ですね。
読んだ人が、自分の胸の中のもやもやを
代わりに書いてくれた、と感じるわけですから。
ぼくもそんな文章が書きたいです。

ぼくの心に感じたコトバ(157)

<人々の鬱屈する不満に応えるうそが
真実を打ち負かした今年である。>
   余禄(2016.11.18)

「ポスト真実」については以前にも触れましたが、
また触れます。
どうしてこんな世に中になってしまったのでしょうか。
「なってしまった」ではなく
「してしまった」というべきだ、と
叱られそうですが、
ぼくはぼくなりに行動してはいるのです。

ぼくの心に感じたコトバ(158)

<高校のクラスというのは、
 イケてるグループ、中間グループ、
 イケてないグループ、菌類、
 という階層状にわかれる。
 これが「スクールカースト」だ。>
    カレー沢 薫(漫画家)

「スクールカースト」と名付けられるグループ階層は
いつごろから存在し始めたのでしょうか。
ぼくが高校生のころ(60数年昔)はなかったと思います。
あれば、ぼくは「中間グループ」だったでしょう。
(何をもって、「イケてる」「イケてない」というのか、
実はよくわからないのですが)
これが事実だとすれば、いやな世の中になったものです。
(子どもに尋ねてみよう)

ぼくの心に感じたコトバ(159)
(158)の続きで、「スクールカースト」についてです。

いつごろから言われるようになったのか、少しわかりました。
2000年代半ば、中学・高校生の流行語になっていたそうです。
その社会的背景には、1990年代後半、
中央教育審議会、臨時教育審議会、などで議論された
「能力主義」「自己責任論」や、
「近代型能力」(知識量、知的操作の速度、など)から
「ポスト近代型能力」(主体性、創造力、思考力、
コミュニケーション能力、など)への
能力観の転換があります。
また、
生徒たちのあいだで自分と他人とを、
「人付き合いがスマートな人」「体育会系でノリのおもしろい人」、
など多様な観点で比較し、「格・身分」など上下関係で位置づけする
ようになったようです。
            『スクールカーストの正体』堀裕嗣著(2015)参照

ぼくの心に感じたコトバ(160)

<日本の侵略戦争に「共同謀議」を適用するのは、
 無理がある、と東京裁判では言われたが、
アメリカは、A級戦犯に適用した。
そして、今
「共謀罪=テロ等準備罪」の審議が始まった。>
        「余禄」(2017.4.20)から

4月15日午前7時45分ごろ、可決・成立しました。
徹夜して強行する裏に
どんな狙いが含まれているのでしょうか!!!
安倍政権の今後の行動をしっかり見張りましょう。

ぼくの心に感じたコトバ(161)

<「記憶にない」ことは、
 実は前後の記憶があるからこそ認識できる。
 記憶にないことこそが記憶なのである。>
        福岡伸一(生物学者)

そう言われればそうですね。
福岡さんは、また、
「うそにならないよう言い繕うときに使う方便でしかない」
とも述べています。
なかなか辛辣ですね。

ぼくの心に感じたコトバ(162)

<人間は自分自身がはりめぐらした
意味の中にかかっている動物である。>
 クリフォード・ギアーツ(文化人類学者)

「人間」のコトバに「ぼく」を置き換えてみます。
そのままあてはまります。
よくわかります。

ぼくの心に感じたコトバ(163)

当たり前のことに気がつくのに時間がかかる・・・・
年を取ることのいいことのひとつです。
        福岡伸一(生物学者)

ぼくも齢をとりました。その結果、
いろいろ気がつくことがあります。
よくもの忘れをするというのもそうです。
これは
「年を取ることのいいことのひとつ」でしょうか?!

ぼくの心に感じたコトバ((164)

<1995年、二十歳の私は、
何に依拠して生きていけばいいのか。
地震の揺れ以上の精神的揺れが、
自分の中で起こっているのを感じました。>
中島岳志(政治学者)

1995年は、ぼくが退職した年です。
後輩に道を譲るよう教育委員会から指示されて、
1年早くやめました。
あと1年でやれることが見えなかったからです。
図書館に籍をとってもらって、本を読み漁りました。
昼休みは、千里中央の公園まで散歩しました。
楽しい、豊かな時間でした。

ぼくの心に感じたコトバ(165)

<自分の失敗や過ちを思い知ることが
 認識を相対化し、思考の幅を広げる。>
   山室信一『アジアの思想史脈』

山室さんのコトバはぼくなりに解るのですが、
「思い知る」ということはなかなかむずかしいです。

ぼくの心に感じたコトバ(166)

<いかに怒りや葛藤を美しい形にかえることができるかが
 大人の条件なのだ。>
海原純子(心療内科医師)

ぼくは大人になりたくありません!
だって、
「美しい形にかえること」がむずかしいことを
経験から知っていますから。
できれば子どものままでいたいです。
「子どもみたい」と、ときどき言われます。

ぼくの心に感じたコトバ(167)

<普通の人たちが、真面目に、懸命に、
きちんと日常生活を送る努力をしているから、
社会が成り立っていると思うのです。>
 葉室麟(作家)

葉室さんは、
「普通の人が誠実に生きて、
 高みに到達する。
 小説にはそんな思いを込めています」
とも述べています。
ぼくはこのごろ小説をあまり読まなくなりましたが、
引用したコトバには同感しています。
小説を読まなくなったのは、
生きてきた時間が長くなったからでしょうか?!
最近は、詩をよく読むようになりました。
発想や飛躍が楽しめるからでしょうか?!

ぼくの心に感じたコトバ(168)

<正確を期そうとして書き換えた結果、
 わけがわからなくなる。>
青野由利(毎日新聞編集委員)

ぼくもこのような経験があります。
読んでくれる人の読解力の想定が
むずかしいのです。

ぼくの心に感じたコトバ(169)

<「日本語」というものはない。
 漢字語とひらがな語、カタカナ語の混合体を
 「日本語」と呼んでいるにすぎない。>
    石川九楊(書家)

「日本語」の定義を述べていないので、
意見を述べることができません。
ただ、実体として
 「漢字語とひらがな語、カタカナ語の混合体」
 であることは認めます。
 ひらがな語のことを「大和言葉」という人もいます。

ぼくの心に感じたコトバ(170)

<共産主義国にはサービスという概念がない。
 ノルマだけがある。>
   新日鉄副社長

旧ソ連のコルホーズ(集団農場)では、
こんなことも話されていたそうです。
「ロシアのトラック会社では
 使った鉄の量でノルマが測られる。
 だから、
 大型のトラックを作る。
 細い道が通れない不便は我慢する。」
ぼくは、若いころ、
社会主義・共産主義の考え方に期待していました。
その後、
社会主義・共産主義国の現実を知るようになって、
夢を捨てました。人間の社会は複雑です。
悲しい、さびしい思いです。

ぼくの心に感じたコトバ(171)

<選手に「こうやれ」ではなく
 「こういうやり方もあるよ」
と言ってきた。
 野球は自分で考え抜いてやるものだから。>
        森 和繁(中日のヘッドコーチ)

このコトバの
「選手」を「子どもたち」に、
「野球」を「学習」に置き換えてください。
ぼくたち教師の姿勢です。

ぼくの心に感じたコトバ(172)

<耳で聞いた感覚と
 目で読んだ感覚は違う。>
桂 福車(落語家)

国語科で音読指導が欠かせない理由です。
特に、文学関係の文章の場合は、
音読させる文章を指定することが大切です。

ぼくの心に感じたコトバ(173)

<根拠が示されていなくとも、
 「ああそうなんだ・・・」と
 事態の確認材料を提供できれば、
 神話は神話としての使命を果たしている。>
    苅谷剛彦(社会学)

「事態の確認材料」と「根拠」の違いがよくわかりませんが、
ぼくは「根拠」にこだわる傾向があります。
(意見と神話のちがいにあるのかもしれない)
苅谷のこの「意見」をしっかり分析したいと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(174)

<指導者の暴力を「指導」と受け取る
 生徒や父母が少なくないのが現状らしい。>
        毎日新聞の余禄(2016.12.20)

幕末の英国初代行使オールコックは
「日本人は決して子どもを撲(う)つことはない」
と書いているそうです。
その日本社会がなぜ
<余禄>にあるような状況になったのでしょうか。
ぼくたちはよく考えてみるべきでしょうね。

ぼくの心に感じたコトバ(175)

<大人とは子ども時代がそのまま続いている人間だ
 と信じています。>
  マーロウ「子どもの文学とは」?

「成熟した人間に備わっている最高の能力は、
 すべて子どものときにすでに内在している」
とも述べられています。
子ども時代がいかに大切か!!!
改めて思います。
心すべきことです。

ぼくの心に感じたコトバ(176)

<女性には男性とはちがうサイクルがあるのだから、
 あせって目標を決めるよりも
 自分のサイクルを生きながら
 長期戦で構えた方がいい。>
    緒方貞子

妻を見ていて本当にそうだと思います。
妻は「自分のサイクルを生きながら」
今、自分のやりたいことを実行しています。

ぼくの心に感じたコトバ(177)

<女が安心して幸せに生きるには、
 男の人格が守られていなければむずかしい。>
    吉武輝子

吉武はこんなことも述べています。
「自分の人格が守られていない状況では、
 自分より弱いものの尊厳を認めることはなかなかできない」
また、こうも述べています。
「自分が抑圧されている人は、
 他人を抑圧するし、攻撃する」
子ども社会も同じだと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(178)

<時事川柳は、その時々の言葉への感度が問われる文芸だ。>
        近藤勝重:『健康川柳』の著者

近藤は
「反権力の笑いこそ時事川柳の真骨頂であろう」
とも述べています。
権力を批判的に論評することはジャーナリズムの仕事ですが、
その表現に「笑い」をもたせるのは至難の業でしょう。
五七五の形式におさめるのもむずかしい作業です。
ぼくは少し以前から川柳を楽しんで読んでいます。

ぼくの心に感じたコトバ(179)

正社員派遣社員が指導する
(作者:いつのまにやら)

続けて川柳をとりあげます。
この句、学校現場にもあてはまります。
「正社員」=新任の教員
「派遣社員」=再任用の校長
最近の若い教員は、ぼくが若かったときに比べて、
とても従順です。いいのかなあ・・・・

ぼくの心に感じたコトバ(180)

<赤ん坊はみんな天才>
     類塾「天才教室」から

「天才とは追求力を失わない人。
 追求心の塊である赤ん坊はみんな天才」
とも述べています。
ぼくも同感です。
ただ、
学校に来るようになると、
なぜか、天才でなくなっているのです・・・

ぼくの心に感じたコトバ(181)

<「愛」の反対語は憎しみではなく「無関心」である。>
         マリアテレジア(マザーテレサ)

「憎む」のは相手に関心を持っているからですね。
「無視する」「眼中にない」心境こそが反対語。
(「語」というのには少しひっかかりますが。)
言いたいことはわかります。

ぼくの心に感じたコトバ(182)

<孤立できる人間、独りでもぜんぜん平気な人っていうのは、
 家庭がすごくあったかかった人が多いんじゃないか。>
   内田樹:『橋本治と内田樹』から

自分を振り返ってみて、わかる感じがします。
父親は優しくて叱られた記憶がありません。
母親は厳しかったけれど、あたたかかった。
ぼくが独りでも平気なのは、家庭があたたかかったことに
一因があるのかもしれません。

ぼくの心に感じたコトバ(183)

<「ものがあふれ、豊かになるほど
分け合うのがむずかしくなるのでは」
 とおっしゃる方がいた。・・・
 分け合っても減ることがなく、
逆に増えるものがある。
それは「信頼」という
目に見えない絆である。>
海原純子:「新・心のサプリ」(2017)

「信頼」を得ることがいかに大切か、
そして、いかにむずかしいか。
多くの役割を経てきて、実感します。

ぼくの心に感じたコトバ(184)

<会議する準備のためにまた会議>
   詠人知らず(サラリーマン川柳)

小学校の職員会議を思い出しました。
今も同じような状況が多々あるようですね。

ぼくの心に感じたコトバ(185)

<喜びは、自分のものじゃない成果を見る楽しさです。>
糸井重里:『ほぼ日刊イトイ新聞』

糸井は「数字にできないことが誇り」とも
「勝手にやっていることを、だれかに審査されるのはいや」
とも述べています。
ぼくにはよくわかります。
「自分のものじゃない成果を見る楽しさ」は、
先生も同じですね。

ぼくの心に感じたコトバ(186)

<障害はその人にあるのではなく、
 環境にあるのです。>
 岸田ひろ実(車いす生活者)

かなり以前から街中で障がい者によく出会うようになった。
うれしいことです。
ぼくが障がい児・者を意識するようになった50年ほど前は、
社会の視線から隠れるような状況でした。
ぼくは地域の人に知ってもらうために
意識的に校外へ連れ出していっしょに歩いたりしたものです。
(同様のことは以前にも取り上げていますが、違う視点で
 感想を述べているので、またとりあげました。)

ぼくの心に感じたコトバ(187)

諦めが幸せ連れてやってきた
    さわとら(68歳)

ぼくが作者の年齢のときには、
「諦める」ことがなかなかむずかしかった。
今では、「諦める」こともできるようになり、
ここに詠まれたことがわかるようになりました。

ぼくの心に感じたコトバ(188)

<銭湯で、3歳の子どもに
「上がるときは30になってからね」と言うと、
「5かける6は30」と言って、
一瞬で上がってしまいました。>
   新聞の投稿欄から。

子どもの知恵には感心する。
ヤルネ~ 子ども!!!
それにしても、
3歳で掛け算をどこで覚えたのだろう。

ぼくの心に感じたコトバ(189)

<自らの権利を放棄する者は
 他人の権利を侵害する。>
  ヨーロッパの言葉

この言葉の意味を
じゅうぶんかみしめる必要がある。
自分が我慢すればすむこと、と、
単純に思わないようにしたい。

ぼくの心に感じたコトバ(190)

<40歳をすぎたころから、肩の力が抜けた。
 自意識が薄れていくと同時に、
 他人とつながろうとする気持ちが生まれた。>
      野矢茂樹(大学教授)

ぼくと同じような人もいるな、と思った。
ぼくも若いころは、肩に力が入っていた。
理屈が先に立っていた。
野矢は
「相手に届くような言葉を身につける」
ことを述べているが、
そこが未熟だった。

ぼくの心に感じたコトバ(191)

<日本語によくある次のような表現
「~と思われる」「~と考えられる」に
〔誰が〕思っているのか
〔誰が〕考えているのか
という反応・発想は不適切である。>

ぼくもこのような反応・発想をするタイプです。
しかし、そのような反応・発想は×。
―それは、欧米的・中国的反応・発想で、
日本語的反応・発想ではありません。
「みんなが」そう思っている、
「みんなが」そう考えている、
という表現なのです。―
と説明されて、
あ~、なるほど、日本的だなあ、と思いました。

ぼくの心に感じたコトバ(192)

<命より大事な仕事はない。>
    過労死した人の家族

「息子は、誰からも自分を守る知識を教えられていない」
とも、家族は述べています。
これは耳が痛い!
ぼくは子どもたちに「自分を守る知識」を教えてきただろうか。
「相手の立場にたって」ということは常に言ってはきましたが・・・

ぼくの心に感じたコトバ(193)

<子どもらは大人と別の地図を持つ>
   小雪(投稿された川柳)

ぼくも同じ意見です。
子どもたちと話しているとよくわかります。
「自分の意見が正しい。
子どもに何がわかるか」
と、
態度でおさえる大人を見かけますが、
あれでは、子どもは育たないと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(194)
<アメリカのやり方を日本人に押しつけては駄目だ。>
      ヘレン・ミアーズ

戦前の日本の社会を内在的な視線でみつめた
アメリカ人の女性ジャーナリスト・研究家。
理論や政治にとらわれない姿勢を持ち続けた。
『忘れられた日米関係』で初めて知った、
魅力的な人物です。

ぼくの心に感じたコトバ(195)

<子どもに教えるクルアーン的世界観は
 愛(神からの・神への)、尊厳、平和の構想。>
『クルアーン的世界観』から

ムスリムの大人たちは、
自分たち(の行動)をふりかえって、
子どもたちにどんな顔で話すのだろう。

ぼくの心に感じたコトバ(196)

<記憶力 ないから楽し 再放送>
   鳰の里(新聞に投稿の川柳)

「再放送」ならぬ「再めぐりあい」。
旅に出て、時々、
あっ、ここは以前訪れたことがある!
と思うことがあります。
妻は、「○○年前に、来たことがあるでしょ」
と言って、前後のことを説明してくれますが、
ぼくは思い出せません。
妻は「新鮮でいいね」と言います。

ぼくの心に感じたコトバ(197)

<大学が教育すべきは
 「正しく知り、考える技術、
  異論を持つ人とも討論しすり合わせて、
  意見を共有する技能」
 である。>
山口裕之著『「大学改革」という病』

この教育内容は、義務教育の内容と重なります。
ぼくは小学校で同じことを教育してきました。

ぼくの心に感じたコトバ(198)

<個人を重視する欧米、
 人間関係を大事にする日本、>
ポポウィチュ・ペーテル(ハンガリー)

この意見に同意します。
ぼくは「関係性」ということを、
いろんな場で話しています。

ぼくの心に感じたコトバ(199)

<他者理解は自己理解と表裏一体である。>
小熊英二『誰が何を論じているのか』

小熊は
「他者への理解を通じて
 自己理解を深める」
とも述べている。
ぼくにも少しはわかります。

ぼくの心に感じたコトバ(200)

<知性というのは個人においてではなく、
 集団として発動するものだと私は思っている。>
内田 樹『日本の反知性主義』

学級集団・学習集団を重視して、実践してきたぼくには
納得できる意見です。
内田はこうも述べています。
「集団として情報を採り入れ、その重要性を衡量し、
その意味するところについて仮説を立て、
そのプロセス全体を活気づけ、
駆動させる力の全体を<知性>と呼びたい」
ぼくはそこに集団を構成する人の「関係性」を加えます。

ぼくの心に感じたコトバ(201)

<あなたの広告を出せるとしたら、
 何を伝えますか?>
新聞(2017.12.31)広告

「反骨」精神でしょうか・・・

ぼくの心に感じたコトバ(202)

<本当にいいものは 
 みんなタダでできているねー。>
ある母親が子に語る

ここで言う「本当にいいもの」とは
朝の澄んだ空気、
夕やけの美しさ、
家族の笑い声、
などなどです。
ぼくは同感します!!!

ぼくの心に感じたコトバ(203)

<魂でもいいから、そばにいて>
『3・11後の霊体験を聞く」』から

東日本大震災(死者・行方不明者1万8千人余)で
肉親を亡くした人のコトバです。

「わかる」とは言いませんが、
その心情は想像できます。
ぼくも肉親を亡くしていますから。

ぼくの心に感じたコトバ(204)

<もの忘れ 「あ」からたどって探り当て>
正能照也(投稿者)

よくわかります!
ぼくも経験していますから。

ぼくの心に感じたコトバ(205)

<「先生」の敬称は、
誰かに無理を押しつけるためにあるわけではない。>
天声人語(1月24日)

最近の保護者のなかには、
子育てを教師に任せる人がいる、
ということを聞きます。
ぼくたち教師は子育てに参加しますが、
それは保護者に協力するのであって、
保護者の肩代わりをするのではありません。
「先生、お願いします」と言われたら、
中味を吟味して、返事をしましょう。

ぼくの心に感じたコトバ(206)

<もの・こと・人・自然との
ボディー・コミュニケーションの大切さ>
金森俊朗『学びあう教室』の筆者

金森は「感じ考えるからだ」を育てることを
重視します。ぼくも賛成です。
「コトバによるコミュニケーション」は
どうしても知的にかたよりがちです。
論理を軽視するのではないですが、
「からだで感じたこと」が土台にない論理は、
コトバが軽く、空疎になりがちです。
教師は子どもたちに
「自分のコトバで」とよく言いますが、
上記のことを述べているのでしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(207)

<「妄想」(言葉の体系)が
社会を生きるのにふさわしいかどうかを
評価するのが「父の役割」です。
 評価を抜きに肯定するのが「母の役割」です。
 言葉以前的な要素(笑顔や泣き顔、
 ダッコやオンブが与える感覚)が大事です。>
宮台真司『ウンコのおじさん』

「評価する」ことに熱心な母親が
ふえてきているように感じます。
「評価」抜きに「肯定する」こと、
言葉以前的な要素を大切にすること、
をこころがけたいですね。

ぼくの心に感じたコトバ(208)

<法を守るのもホドホド。
 法を破るのもホドホド。>
宮台真司『ウンコのおじさん』

続けて、宮台の言葉の引用です。
「やりすぎはダメ」とも述べています。
どこから先がやりすぎか。
それがわかるようになるのが大人になること、とも。
これは経験から学ぶしかない、ということでしょう。
「マニュアルに固執しない」ことです。
店で対応する若い人のことば遣いに感じることです。

ぼくの心に感じたコトバ(209)

<論破禁止>
高橋源一郎

ぼくは「議論の場」以外で
「論破」をしたことはありません。
それなのに、現役時代、
ぼくと「意見を交わす」のをさける人が
多かったのはなぜでしょうか。
それは「論拠」を徹底して追及したからです。
「論拠」をきちんと考えずに、
意見を述べていることに気づかされることが
嫌だったようです。

ぼくの心に感じたコトバ(210)

<私たちは、日本語を通じて現実を理解している。
日本人の頭に砂が水を吸うように
英語が入ってくることはありえない。>
   水村美苗(小説家)

水村は
「まずは日本語を教育の基本にすえるべきである」
とも述べています。
ぼくもまったく同じ考えです。
小学校高学年の英語を2020年から正式教科にする、
と、文科省はいうが、ぼくは反対です。

ぼくの心に感じたコトバ(211)

<文化資本(マナー、美的感受性、言葉遣い、教養)は
成人してからの学習努力では身につかない。
「生まれ育ち」で決まる。>
             内田樹

内田は、
「学歴では文化資本の差は埋められない」
とも述べています。
それが「階層差」だというのです。
経済的な階級差とは異なる、というのです。
ぼくが若い時代には、「生まれ・育ち」
というコトバをよく耳にしました。
今はあまり聞くことがなくなりましたが。

ぼくの心に感じたコトバ(212)

 

<正社員派遣社員が指導する>

  いつのまにやら(新聞投稿川柳)

 

経験豊かな講師が正採用の未熟な先生を指導することは

実力からしておかしくはないでしょう。

再任用の校長・教員が新任・後輩教師を指導する

学校は多くあります。

この川柳の作者は何を言いたいのでしょうか。


ぼくの心に感じたコトバ(213)

<あんたら頭で考えとる。
そやからあかんにゃ。>
  松井利夫(陶芸家)

松井は「手で考えよ」と言う。
ぼくたち教師は「自分のコトバで」と言う。
自分の体験や経験を通さないコトバは軽い。
子どもたちに説教するまえに、
自分はどうなのか、振り返って言うようにしたい。

ぼくの心に感じたコトバ(214)

<ドラえもんが生物と認められない理由を書け>
ある私立中学の入試問題

ぼくが担任していた子どもたちに尋ねてみたかった。
どんな答えが返ってきただろうか。
回答例は
「成長したり、子孫を残すことができないから」
(文法的にはまずい例です。
「~たり」ときたら「残したり・・」と続かないと)
たぶん、もっと多様な答えが返ってきただろうと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(215)

<「目の前にいるのが誰であっても
 ぼくの話すことは変わらない」
 ということは、
 相手は誰でもいい、というメッセージ・・>
内田樹『世界「最終」戦争論』

この本は、対談なので、
相手によって「話すこと」は変わるでしょう。
でも、
「相手によって話すことは変わらない」ことも
大事なことです。最近の政府の対応をみていると、
特に、そう思います。
ぼくは、相手の子どもたちによって、
話すことは変わります。当然のことですが。

ぼくの心に感じたコトバ(216)

<注意する、叱る、励ます、
 垂直に降らせる言葉だけ増えてゆく。>
千葉聡(教師)

ぼくは「水平なコトバ」がけを
心がけてきましたが、
子どもたちはどう感じていたのでしょうか。
クラス会などで、尋ねてみたいです。

ぼくの心に感じたコトバ(217)

<「ヤバイです」いいの悪いのどっちなの>
いのくま(投稿)

若者がよく使うコトバですね。
文脈を勘案しても判断に困る事があります。
投稿者の意見に同感します。
ほかにも「かわいい」とよく言っている。
ときどき、
何が「かわいい」のか、判断しかねる場面があります。

ぼくの心に感じたコトバ(218)

<「世界一美しい場所」とはどこか。
 それは人によってちがう。>
佐藤弘夫(大学院教授)

ぼくにとって、
「世界一美しい場所」とはどこだろう。
現実の世界なのか。
想像の世界なのか。
本気で考えてみたい。
まず、「美しい」をどう考えるか。
「場所」を空間と考えるかどうか。
やっかいなことを抱え込んでしまったようだ。

ぼくの心に感じたコトバ(219)

<「先生」の敬称は、
誰かに無理を押しつけるために
あるわけではない。>
天声人語(2018.1.24)

学校の先生が、無理を言う保護者に
言ってみたいセリフです。
ぼくが若いころは
「モンスターペアレント」という
コトバはありませんでした。

ぼくの心に感じたコトバ(220)

<書籍なき家は、
 主なき家のごとし。>
   キケロ

ぼくが新任教師のとき、
クラスの子どもたちに
「家に、本何冊ありますか?」
と尋ねたことがある。
一冊もない子がいて、
まずいことを尋ねたな、と思ったが、
あとのまつり。
社会について無知だった
(本はどこの家にもある、と思っていた)
ことを思い出しました。
今は気をつけています。

ぼくの心に感じたコトバ(221)

<「ボクのおとうさんは、
桃太郎というやつに
殺されました」>
岡山県公立中学の道徳授業

このような発想を、ぼくはしたことがなかった。
「多様な価値観、立場を考えに入れて」と
日ごろから子どもたちに話してきたのでしたが。
(民話について話すときには、
その価値観を話題にすることはありました。)
「道徳の授業」をしたことがなかったからかもしれません。

ぼくの心に感じたコトバ(222)

<「足さない、引かない」>
   医療通訳者

「以前は、患者の代理人として、
 通訳していた。
今は、中立の立場を守るのがプロと考え、
理解できないときは、わからないと
はっきり言い、あいまいにしない」
とも述べています。
わたしは、子どもの想いをおしはかり、
「通訳」してきました。
「理解する」って、むずかしいですね。

ぼくの心に感じたコトバ(223)

<先生もまんがを描くべきです。
 まんがを描くことによって
 人を観察する目が養われていくんです。>
     手塚治虫

手塚はこうも言っています。
「一クラス40人の顔を見ただけで、
 一瞬のうちに一人ひとりの健康状態から
 心理状態までわかるんです。・・・
 一人ひとりの人間がわかってくるんです」
う~ん、
ぼくは子どもと会話することで推察してきました。
まんがを描かなかったからかなあ・・・

ぼくの心に感じたコトバ(224)

<「大丈夫ですか?」>

大人がよく使っている場面を目にする。
以前、若者たちがよく使う「やばい」をとりあげたが、
このコトバもあいまいですね。
辞書には、
「まちがいなく」「たしかに」という意味が
載っていますが、用法が少しちがいます。
大人なのですから、
もう少しキチンと使いたいものです。

ぼくの心に感じたコトバ(225)

<語彙力こそが教養である。>
    斉藤孝

「語彙が豊かになれば、
 見える世界が変わる」
とも、斉藤は述べています。
「教養」とは何か、は置いておいて、
「語彙が豊かになれば、
 見える世界が変わる」
ということについては
ぼくも同じ意見です。

ぼくの心に感じたコトバ(226)

<人づきあい:
 義理と礼を欠くのは高齢者の特権>
『人生100年時代の生き方、働き方』

ぼくは傘寿になる年の年賀状に、
「今後、年賀のごあいさつは失礼いたします。
 年齢に免じてこの無礼をお許しください」
と書きました。
今、このコトバを読んで、
「特権」として認められるのか、
と思いました。

ぼくの心に感じたコトバ(227)

<他者と一緒に学んだ方が、
考えも広がり、深まる。>
「アクティブラーニング」の解説

ぼくも同じ考えです。
学級集団つくり、
学習集団つくりで、
子どもたちに話してきました。

ぼくの心に感じたコトバ(228)

<「あの人も、読んでいるらしい。」>
新聞の本の広告

思わせぶりなコトバ。
「あの人」は読む人によってちがう。
広告ならいいけれど、
子どもたちには「要注意!」です。

ぼくの心に感じたコトバ(229)

<「生きる」とは、
 生物的に生きているだけでなく、
 他者との関係性があって生きている。>
「週刊読書人」の記事より

一人で生きているように思っている人がいますが、
見えないところで他者と関係している、と
ぼくは考えています。

ぼくの心に感じたコトバ(230)

<「経験するとおそらく
 何か捉え方が変わる」>
  是枝裕和映画監督
  (『万引き家族』)

ぼくが書いた
「その年齢(とし)にならないと
 わからないことがある」と
同じ考えのように思います。
(「経験する」≒「その年歳になる」)

ぼくの心に感じたコトバ(231)

<うそは常備薬、真実は劇薬。>
河合隼雄

うーん、すごいコトバ!!
リアルですね、と聞き流せないです。

ぼくの心に感じたコトバ(232)

<話し方より、伝える内容が大事>
  吉田春乃(経団連・副議長)

英語について述べたコトバです。
ぼくも賛成です。
文科省は、
小学校で英語に慣れることを提言していますが、
そんなことに時間をかけるより、
何を話すか、内容に主眼をおくべきでしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(233)

<原稿は消しゴムで書きます。>
佐藤さとる(児童文学作家)

推敲を重ねることを
こんなコトバで説明したそうですが。
ぼくもかつては同じでした。
今はパソコンで書くので、
消しゴムは使いませんが。
便利になってありがたいです。

ぼくの心に感じたコトバ(234)

<「ウソつきは泥棒の始まり」と言って
 叱るのは×。>
『AERA』(2018.6)

筆者は
「子どものウソは『SOS』」
 とも述べています。
ぼくも気をつけたいと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(235)

<自分の根っこを見つけて 水やり続けるや。>
  一緒に花壇の世話をした用務員さん


ぼくの根っこは何かな?
いまだに それがわからない。

ぼくの心に感じたコトバ(236)

<チームが勝ち続けるには変化が必要だ。>
ジダン(サッカークラブ監督)

世界大会3連覇後、
こう言って身をいたそうです。
「変化」の意味をどう考えるか、
学級集団はある意味で常に変化しています。
意識的に「変化」する方法を採り入れるのか、
集団のメンバーにまかせるのか。
ぼくはメンバーに考えさせる方法を採り入れてきました。

ぼくの心に感じたコトバ(237)

<安いのでたくさん買って腐らせる>
あさりめし(68)。脳トレ川柳

ぼくもネットで買いすぎて、
(ネットでの買い物は要注意です。)
連れ合いに叱られています。
腐らせないように、
毎日同じものを食べています。

ぼくの心に感じたコトバ(238)

<「格差社会」が新語・流行語大賞
 トップテン入り> (2006年)

「格差社会」というコトバは10年以上前に
社会に受け入れられていたのですね。
今は、「非正規雇用」ということが認められ、
ますます格差が拡大しています。
年金生活していることが
なんとなく気が引けて・・・・

ぼくの心に感じたコトバ(239)

<大胆なる仮説・珍説・枝葉末節>
(本の広告文)

こういう言い方が
最近増えたような気がします。
実直、マジメな言い方が避けられる社会は、
ちょっとまずいのでは・・・

ぼくの心に感じたコトバ(240)

<第二次世界大戦後、
 日本の兵士に殺された人は、
 世界に一人もいない。>
 ダグラス・ラミス(1992)

この事実はぼくたちの誇りにしたいです。

ぼくの心に感じたコトバ(241)

<古稀古稀と
 体のあちこち悲鳴上げ>
 今井文子(投稿川柳)

今井さんは家内の友人です。
ぼくは古稀を10年前にすぎましたが、
ますますコキコキするようになりました。

ぼくの心に感じたコトバ(242)

<散歩する歩幅が老いのバロメーター>
世津子(83歳):投稿川柳

よくわかります。
ぼくも歩幅が狭くなり、速さも遅くなり、
若い人に追い抜かされています。

ぼくの心に感じたコトバ(243)

<私自身も、日本社会では
 在日日本人であり、
 それ以外の規定はすこしもない。>
司馬遼太郎

言われてみればそのとおりです。
ぼくも在日日本人以外ではない。
「在日」というと、
どうして外国人を連想してしまうのだろうか。

ぼくの心に感じたコトバ(244)

<今のこと忘れても
 過去覚えてる。>
比留川みや(79歳):投稿川柳

ぼくもこの傾向があります。
が、
昔のことを思い出せなくて
姉に確かめたりしています。
では、最近のことは覚えているのか。
これもあやしくて、
連れ合いに確かめることがふえました。

ぼくの心に感じたコトバ(245)

<一人は万人のため、
 万人は一人のため。>
これはファシズムのスローガンです。
佐藤優『現代の地政学』

このコトバは、古くから多くの社会で
使われています。
生活協同組合のスローガンにもなっています。
どう理解するかで、
その人の思想・立ち位置がきまるようです。
う~ん、
ぼくはどっちか・・・

ぼくの心に感じたコトバ(246)

<真理は文字や言語で
 他人に伝えることはできない。
 直接の体験からしか得られないものだ。>
荘子(そうじ)

ここで言われていることはなんとなくわかります。
科学で客観的に認められていることは、
「真理」とは言わないのだろうか。
「事実」と「真実」とは異なる概念ではあるが・・

ぼくの心に感じたコトバ(247)

<本を読むのは、何よりもまず
 人間であり続けるためです。>
シリア内戦に参加している若者

平和な日本の若者に
このコトバを贈りたいです。
そして、
自分にたいしても。

ぼくの心に感じたコトバ(248)

<将来のことは、
 大人になるまで生きていたら考えるよ。>
パレスチナ・ガザの10歳の子

日本のジャーナリストの質問に応えたコトバです。
いつ死ぬかもしれないと子どもが思っている
厳しい状況が感じられます。
日本の子どもたち、「平和ボケ」しないでね。

ぼくの心に感じたコトバ(249)

<歩道は恐ろしい。だから車道を通る。>
電動車いすを使っている人

このコトバを、知人から聞いた斉藤慶三さんは、
豊中市全域の歩道調査を始めました。
歩道マップ完成まで11年かかったそうです。
行政は指摘をもとに、対策に取り組みました。
斉藤さんの行動には頭が下がります。
これは2003年のことですが、
ぼくは、このコトバを思い出しながら、
歩道を歩いています。

ぼくの心に感じたコトバ(250)

<わずか「タ」と「チ」の違いで
 何十年も年をとる>
三木成夫

答えは
「よちよち」から「よたよた」へ、です。
さらに、
「よたよた」⇒「よろよろ」⇒「よぼよぼ」
一字ちがいで「?」年、齢をとります。
ぼくははたして「よたよた」より若いかな・・・

ぼくの心に感じたコトバ(251)

<自分のもののようで
 自分のものではない体。>
伊藤亜紗:『どもる体』

「からだに聴け」というコトバが
あります。
ぼくの意志と関係なく
からだは正直ですね。

ぼくの心に感じたコトバ(252)

<「文化」は
 「教育」では身につかない。>
福田恒存

福田はこうも言っています、
「文化は受け渡しが難しい」。
体験しなければ身につかないでしょうね。
ぼくは
「学級の文化」つくりを意識してきました。
集団によって異なります。
「教育」ではないですね。

ぼくの心に感じたコトバ(253)

<紙だから伝わる想いがある。>
製紙会社

ぼくはパソコン・携帯電話など
電気機器での文章を読むのが苦手です。
紙に書かれた文章だとキチンと読めます。
だから、
ペンネームを「旧人類」としています。

ぼくの心に感じたコトバ(254)

<人は生きている限り
 変わり続けるのです。>
 瀬戸内寂聴(96歳)

ぼくも82歳の今まで
変わり続けてきました。
若いときの自分を思い出すとき
変わったなーと感慨あらたです。

ぼくの心に感じたコトバ(255)

<きちんと向き合わないの、疲れるから。
 少しずれた方に目をやるの。>
樹木希林

確かに、きちんと向き合うと疲れます。
でも、
目をずらすのは悪いような気がして、
ぼくは、
あらぬ方を見て話すことが苦手です。

ぼくの心に感じたコトバ(256)

<貧困を生み出す豊かさ>
   姜尚中

日本の現状を批判しているコトバです。
子どもの「貧困」はひどいです。
(経済的な面だけでなく)
安倍総理のコトバの軽さ!!!

ぼくの心に感じたコトバ(257)

<自己の信ずるオピニオン・・を
 「私情」として殺して
 周囲に従う・・ことを
 モラルとするような精神こそが
 問題なのである。>
 丸山真男『現代政治の思想と行動』

ぼくも丸山の意見に賛成です。
日本人的でないと非難されますが。

ぼくの心に感じたコトバ(258)

<老年に敬礼、老翁に合掌>
(奈良時代、神仏共存がはじまる)

ヒトは死んでカミになり、
同時に、ホトケになった。
その時代の心を現代語にした。
山折哲雄(宗教学者)

街を歩くと高齢者とよく出会います。
ぼくも「高齢者」になりました。
このコトバのような社会になってほしいです。

ぼくの心に感じたコトバ(259)

<『怠ける権利!』 小谷 敏著>

何かの「ため」にすることを拒む。
「しないではいられないこと」を
 し続ける。(水木しげる)
遊びの自由を侵食する日本社会に
なっていないか。要注意!!!

ぼくの心に感じたコトバ(260)

<飲食店の駐車場に
「いねむり中」の看板。>
  神谷美和子:投稿

山道をドライブしている時に
出会ったとのこと。
「休憩中らしい」との注釈。
のんびりしていて、
いいなぁと思いました。

ぼくの心に感じたコトバ(261)

<発問するのは、
「この問い以外のことは考えるな。
 他のことに気づいてはいけない」
という指示を与えている
「かくれたカリキュラムである。>
 宇佐美寛『国語教育を救え』(2018)

う~ん、
「発問」が、
どのような授業・文脈の中でされたのか、
を抜きにこう断定されると少し引っかかります。

ぼくの心に感じたコトバ(262)

<若い世代にとっては、
「コミュニケーション」と
「(仲間からの)承認」こそが、
幸福感の条件として最重要となる。>
 斎藤環『フェイクの時代に隠されていること』
(2018年刊行)

ぼくにとって、「幸福感の条件」って何かなあ、 
家族との関係はゆずれないですね。 

ぼくの心に感じたコトバ(263)

<「正しいことを言ってはいけない」>
フィンランドの精神疾患療法

「説得してはいけない」
とも言われています。
専門家が二人以上いて、話し合っている場面を
患者が見ている・聞いている(オープン・ダイアローグ)。
患者本人が感じる・認識することに任せる。
教育にも通じるものがあります。
先生は児童・生徒を「説得してはいけない」。
先生は児童・生徒自身に認識を任せるのです。

ぼくの心に感じたコトバ(264)

<続けるという行為は、
 新しいことに取り組むより
 エネルギーがいる。>
「阪神淡路大震災にとりくむ人」
(2017年)

ぼくにもこのことはわかります。
ぼくも「続けている」ことがあるので。

ぼくの心に感じたコトバ(265)

<時すでに「今に見てろ」が言えぬ年>
高木 喬(78歳)

ぼくもその年齢(とし)になっています。
けれど、新しいことに挑戦しようと思っています。

ぼくの心に感じたコトバ(266)

<気に入らなければ自ら変えよ。
 さもなくば従え。>
アルフレッド・アドラー

ぼくはこれを実行してきました。
それで、
周りからいろいろ言われた経験があります。
(「新開さんは強いからできる・・・」)

ぼくの心に感じたコトバ(267)

<歴史学研究は常に更新されていく>
呉座勇一

ぼくの自己認識も常に
更新されてきました。

ぼくの心に感じたコトバ(268)

<「今年の言葉」として
 「ポスト真実」を選んだ。>
オックスフォード英語辞書(2016)

「客観的な事実より、感情や個人の信条に
 働きかけることが、世論を形成するうえで
 より影響力を持つような状況のこと」
 と定義している。
日本も同じような社会状況にある、と
ぼくには感じられます。

ぼくの心に感じたコトバ(269)

<事実を信じる人と、
 それを信じない人との間に
 溝ができている。(分断社会)>
  日比嘉高(大学教員)

「事実」とは何か?
これがそう単純ではないですね。
ですから、
信じるか?と言われても・・・

「オルタナティブ・ファクト」
(もう一つの事実)
というコトバを、
ホワイトハウスの報道官が言う時代
ですから。

ぼくの心に感じたコトバ(270)

<生きるとは、たたかうこと。
 たたかうとは、つづけること。>
むの たけじ

ぼくも「たたかいつづけ」ていますが、
肝心なことは
「何に向かって」
「何を求めて」でしょう。

ぼくの心に感じたコトバ(271)

<「言語」を
 日常生活における使用という観点から
 とらえること。>
小浜逸郎

小浜は『日本語は哲学する言語である』で、
<言語主体の不在、生活主体の不在、
それは「死んだ客観主義」である。>
と述べています。
ぼくも、コトバについて
「日常生活における使用」という観点を
重視したいと思います。

ぼくの心に感じたコトバ(272)

<「保守」とは
 良き習慣と伝統を守りながら、
 時代の変化に合わせて
 少しずつ改革していく態度のこと。>
  小林よしのり(漫画家)

ぼくはいつからか「保守」になっていました。
若いときは「革新」だったのですが。

ぼくの心に感じたコトバ(273)

<美しい日本語が響くクラスに。
教室の中で教師は最も影響力のある
「言語環境」です。
教師が正しいきれいな日本語を
話すように心がけましょう。>
児言研会員ニュース

現役のときには、
このことを強く意識していましたが、
どこまで実現できたか・・・

ぼくの心に感じたコトバ(274)

<「快」か「不快」かで判断しない。
 「敵」か「味方」かで判断しない。
 歴史的にも認識をする。
 因果論的な認識をする。>
小森陽一『心脳コントロール社会』

直観に頼ることは要注意!
でも、直観は大事にします。
少し以前から、歴史を学び直しています。
論理は昔から大切にしてきました。

ぼくの心に感じたコトバ(275)

<妻に聞く前に一度は捜すふり>
角田ヤスベー(72歳)

ぼくは真剣に探しているのですが、
見つからないときは、家内に頼みます。
家内はすぐ見つけて、
「どこ見てるの!!」とよく言われます。

ぼくの心に感じたコトバ(276)

<どうせなら面白がっていきなくちゃ>
小西克明(投稿川柳)

ぼくも少し以前から、
この境地で生活しています。
ただし、今の政治には怒っていますが。

ぼくの心に感じたコトバ(277)

<恩返ししたい人が5人います。
 1番目は、いまの担任の先生です。(以下、略)
 2番目は、空手の先生です。(略)
 3番目は、いつもそばにいてくれる友だちです。(略)
 4番目は両親です。(略)>
辻 蓮生(12歳)

恩返ししたい担任には会いませんでした。
親友は高校生の時できました。
親は身近すぎて、対象化して考え始めたのは、
少し年齢(とし)をとってからでした。
優しい両親だったと、今改めて感じます。

ぼくの心に感じたコトバ(278)

<ニュース見る度不機嫌になる夫>
高綱美子(投稿川柳)

この川柳は妻が書いたのかと思いました。
少し以前から、ぼくもこの夫と同じです。

ぼくの心に感じたコトバ(279)

<能力は個人の私有物ではなく
 周囲との共用物だ。>
 与那覇 潤(近現代史専攻)

他者との関係のありようによって、
おもはぬ能力を発揮した経験があります。

ぼくの心に感じたコトバ(280)

<私たちが「正しくある」ことで
 踏みにじってしまうものが存在する。>
岸 政彦(社会学者)『はじめての沖縄』

「正しい」もの・ことを述べる時、
気をつけねばならない。
自戒の弁です。
もう若くはないのですから。

ぼくの心に感じたコトバ(281)

<「思ったことを率直に言うことが
 相手に対して誠実である」というのは
 間違った認識である。>
『余計な一言』(斎藤孝著)についての
柴田忠男の書評

う~ん・・・
ぼくは間違っていたのだろうか?
若いときは。
今は相手の反応をみて話すように
こころがけています。

ぼくの心に感じたコトバ(282)

<ずっと子どもでいるのと
 大人でいるのと、どっちがいい?>
小説の人物の会話

その返事は「大人」。理由は
「子どもより自由で、楽しいから」
ぼくも同じです。
責任をとらなければいけないけれど・・・
最近は、
ストレスに負けて犯罪を犯した大人が
新聞によく載りますが。




 
大阪児言研
 <文責:新開惟展>