大阪児童言語研究会 |
大阪児言研について<はじめに>大阪児言研のホームページが設けられたのを機会に,この場をかりて,ぼちぼちと,少しずつ,大阪児言研にかかわることを,語っていこうと思います。全体の構想があるわけではないので,どんな内容になるかは,書き進める本人にもわかりません。その旨,はじめにお断りしておきます。読んでいて,わからないことが出てきたら,質問してください。つまらないと思われたら,その旨,ご意見をください。できるだけ,読者(会員)の意向にそって,述べるよう心がけます。 <今の大阪児言研について> 大阪児言研発足当時のことを語るまえに、現在の大阪児言研について、簡単に説明します。
<Q&A> Q, 児言研の会員ではないのですが、例会には、気軽に参加できますか? A, 大阪児言研のホームページを見て、一読総合法に関心をもってくださって、うれしいです。 例会について、もう少し具体的に説明します。 今年度(2011)は,部会が小学校低学年、中学年、高学年の3部会にわかれていますが、部屋は同じです。 部員は、その年度の担当学年の部会に参加します。(担当学年でなくてもかまいません。) 部会の活動内容は、それぞれの部員が決めるので、部会によって異なります。 教材を何にするか、その教材の分析をするか、授業のあり方を話し合うか、などです。 この教材を研究素材にしてほしいと希望すれば、話題になります。 若い人からベテランまでいますから、どんな話題でも自由に交流できますし、一緒に考えてもくれます。 理論研究は、同じ部屋で、全員参加でおこないます。理論研究がない場合もあります。 例会日は「活動予定」を見てください。 会員でない人は、会場費として 300円そのつどいただきます。 気軽に参加されて、続けて一緒にやろうと思われたら、会員になってください。 <大阪児言研(大阪サークル)結成までのこと> わたしたちが大阪サークル(当時の名前)を結成したのは,1967年3月のことですが,まずそこにいたるまでのことを振り返ってみます。きっかけは,その年の1月,日教組の教育研究全国集会(第16次,三重県伊勢市)に参加していた故・林田哲治さん,林田鈴枝さんと新開が,児言研中央常任委員の小松善之助さんの仲介で,顔を会わしたことことにあります。(3人はそれぞれに児言研の理論と実践に学んでいて,小松さんとは交流があり,たまたま,4人が教研に参加していたのでした。)わたしたちは,大阪にも児言研の集まりを組織することで意見が一致し,帰阪後3人はすぐに行動を開始しました。 <児言研の壁新聞がお手許にとどいていることと思います。中央からの呼びかけもあり,この際,ばらばらになっている私たち大阪の力を,一つに集めようではありませんか。(略)>という呼びかけをして(事務局は林田哲治さんが勤務する東大阪市立楠根小学校に置く),最初の準備会を2月15日に浪速荘(現,アウィーナ大阪)でもちました。参加したのは17人でした。会の規約や運営方法を決めるところまでは進まなかったのですが,「ともかく実践を交流しながら話し合っていこう」ということで,第1回の例会を3月1日(水)に浪速荘でもつことにしました。 第1回例会の「お知らせ」には,こんな文章を載せています。 <児言研では,「食堂意識」と「教祖待ち意識」をなくそう,という合言葉があります。出席さえすれば何か腹につめて帰れるだろうとか,だれかが自分たちをリードしてくれるだろうというような,主体性のない参加の仕方をきらうからです。私たちのサークルも,全員がかならず問題意識をもって参加し(初めての人は疑問点ばかりをもってということもあるでしょう),一人ひとりが積極的に発言する会に育ってほしいとねがっています。> 第1回の例会(3月1日)のあと、参加者から「今日の感想を書くこと」が提案され、意気込みを持続するためにも、みんなで了解しました。参加者(ほぼ半数の8人)から届いた感想文から、抜粋したものを載せます。 (S) 「基本的な事項についての共通理解がないと、論がかみあわないなと痛感した。(略)、出席者は、理論的なことがらについて勉強してくる義務があると思う。時間は、(略)、有効に使いたいし、そうすることが参加者に対する親切ではないだろうか。(略)。実践の基礎によこたわる理論こそ、もっと問題にすべきではないだろうか。」第1回の例会に参加した人たちの想いの一端を推察していただけたでしょうか。例会の内容をどうするかは、なかなか難しい問題です。具体的なことだと意見が出しやすいだろうと事務局では考えて、実践報告を例会に出したわけですが、そのことに関連した意見が感想のなかにありました。4月は、実践報告をした第2回例会に加えて、小松善之助さん(大阪児言研結成の仲介者)に「一読総合法の理論と実践」というテーマで講義をしてもらいました。その資料の中に、こんな文章が載っていました。 「喧嘩のススメ」(川喜田二郎「チームワーク」より) 責任のありかがぼやけている場合には、たとえ上役に対してであろうと、面を冒して質さねばならない。(このような文章を資料に載せている児言研を、わたしはますます気に入りました。) この年の8月、夏季(期)学習会をもちました。会場は、東大阪市民会館。 9:30~17:00の丸一日のハードスケジュールで、テーマは4点。理論研究に重点を置きました。 「読みの心理について」(四條畷市)(四條畷市)()内の市は発表者と司会者の在籍学校です。当時は河内のメンバーが多かったのです。 当日はどの分野も討議不十分のまま時間切れとなり、言い残したことや聞きもらしたことを書いて、事務局まで送ってもらうことになりました。今後の指針の参考にするためです。 9月の第7回例会は、中学校の会員が先生になり、中学校教材で、参加者が生徒になって、模擬授業を実施しました。また、この月から、理論研究会も毎月もつことにしました。(例会が月2回になったのです。) 例会としての第1回理論研究会のテキストは児童言語研究会著『国語教育の基礎理論(その1)』です。テーマは「言語・コトバの働きをどう考えるか」です。(この『国語教育の基礎理論』は自費出版で、(その6)まで出た後合本して、1975年一光社から出版されました。) また、このときから、例会案内とは別に、事務局通信を出すようになります。例会に参加できなかった会員のために、「例会の報告と補足」を内容としたものです。今振り返ってみると、事務局の担当者は本当に頑張っていたなと思います。理論研究会はこのあとも続けて『国語教育の基礎理論』をテキストに、児言研が積み重ねてきた理論を学び取ることに力を注ぎました。 その頃の理論研究会で、話題になっていたコトバのいくつかを挙げると、 「第二信号系」「コトバの網」「内言」「形象」「表象化」「主体読み」「客観読み」「表現よみ」「データ分析」人の名前では(会員以外)、 ヴィゴツキー、ウシンスキー、サルトル、シャルダコフ、スミルノフ、ルビンシュティン、レオンチェフ、「言葉の働き」についてはもちろん、「文学の読み」についても学習していたことがわかります。ソヴィエトの研究者から学んでいたことも歴然としています。 <1969年は、大阪児言研にとって大きな動きのあった年になりました> 3月に、第1回の合宿を2日にわたってもちました。東京から菱沼太郎さんに来てもらっています。菱沼さんは「文学の読み」についての中心的存在の一人で、各部会の文学の読みの授業報告について、具体的に意見を聞かせてもらいました。 5月の例会には、大久保忠利さんを講師に迎え、「国語教育と言語に関する諸問題」というテーマで、質疑も含め、理論的なことを学習しました。 6月例会のあとには、中高部会が、佐多稲子作「水」を教材に取り上げるのを機会に、佐多稲子さんと「作品を語る会」をもつことができました。 文法部会ができたのもこの年で、サークルで正式にきめたのは9月です。それまでは、関心ある人が寄って文法についての学習をしていたのですが、これ以後は、各部会から必ず数人が参加することにしました。 しかし、一番大きな動きのあったのは、「児言研夏季アカデミー関西集会」を大阪でひらきたいとの提案が、児言研本部から年度初めにもたらされたことです。大阪サークル内部では、まだ無理という意見もあったのですが、実力をつけるための機会にということで、事務局を引き受けることにしました。そして、8月23日・24日に、第1回児言研関西集会が、東大阪市民会館で開催されました。分科会の柱は「文学作品の実践」「文法教育の理論と実践」「説明文の読みの理論と実践」で、説明文教材の実践以外は、大阪サークルのメンバーが報告しました。司会・助言は全国の会員に助けてもらいました。資料の冊子はメンバーの手作りでした。大阪児言研(1970年に改称)だけで集会が持てるようになったのは、第4回集会(1974年)からです。ちなみに、分科会の柱の名前を見てわかるように、「説明文」と「文法」には「理論」という語がついています。この分野の実践には、児言研が独自の理論を提案してきていたのです。 この年から、私たちの活動は、関西集会を軸にするようになります。関西集会(隔年開催)を行わない年には、講座をもつようにしました。集会に参加してくれた人たちへの責任と参加者の要望に応えるためです。関西集会を機に、一読総合法の実践は府下の多くの学校で取り組まれるようになりました。第8回(‘82年)~第12回(’90年)は3日間の集会を実施できるようになり、参加者が600人を超える年もあったのです。 その後、研究組織も改め、担当学年別から分野別にし、文法(言語)・説明文・文学、理論としました。 <機関紙「大阪児言研」を出すようになる> 例会の案内とは別に、「例会の報告と補足」を内容とした事務局通信を出すようにしたことは先に述べましたが、1971年4月からは、機関紙「大阪児言研」として出すようになりました。そして、機関紙の名前の下に、その時々の教育・国語教育界の現状を反映した(と編集者が感じた)スローガンを載せました。 第1号は、〔科学的な言語観に立った国語教育を! 解釈学批判の上に立った国語教育・文学教育を!〕というような、今ふりかえるととてもイサマシイことばを載せていました。 また、内容も、「例会の報告と補足」だけではなく、例会案内や参考文献なども載せるようになります。 当時の活動を‘72年度後期活動方針から抜き書きすると、 例会のテーマ:表象形成をどう考え、どう実践したか。となっていて、毎週のように活動していました。みんな若かったですね、学校も今より余裕がありました。 ちなみに、機関紙はB5判2段組で、通常4~6ページ、時に8ページ、もちろん、手書きです。活字になったのは1987年度から。担当者が代わって、「児言研ニュース」となりました。その後、担当者によって「大阪児言研事務局通信」になったりして、現在は、ネットで、「大阪児言研事務局通信」として出ています。 <わたしたちの出版物> わたしたちの実践・研究の成果をまとめて、冊子・書物にしたものを次に挙げます。 『大阪児言研・研究集録(第1集)』(自費出版、1971年)これ以外に、関西集会の資料として冊子にしたものを隔年に出しているし、児言研の機関誌『国語の授業』に、個々のメンバーの実践・研究の成果を投稿しています。 <大阪児言研は、教科書教材以外の作品も「教材化」してきました> わたしたちは、「人間の解放」を描いた作品を大事にするという基本的な認識を共有しています。(これはテーマ主義の作品を大事にする、ということではありません。「人間の解放」とは、人間についての認識を深め、現実に対する見方を鋭くするその「視座」のことです。)この観点から、教科書教材以外の作品も「教材」として実践してきました。これまでに「教材化」してきた作品を列挙してみます(抜け落ちたものもあるかもしれない)。40年以上の実践の積み重ねですので、けっこうたくさんあります。 (わたしたちが「教材化」した後、教科書に載った作品も含む)(民話の「再話」は「再創造」を含む)
<児言研関西で報告した教材>は以下のような文章・作品でした。 第1回(1969年)~第15回(1996年) Ⅰ、説明的文章
このように列記してみると、70~80年代、説明的文章の教材の多くは、教科書編集者が書いていたことがわかります。 もう一つ、大阪児言研では、市販の本から教材化していたこともわかります。 このことは相互に関連したことです。文章責任が明らかでない教材は、「批判的味読」を読みの基本姿勢にしてきたわたしたちとしては、歓迎できません。教科書批判の一つとして、筆者が明らかな文章を載せるよう、ずっと要請してきました。その結果、現在の説明的文章は、ほとんど筆者が明らかなものになっています。(ちなみに、文学作品でさえ、省略されたり、改変されたりしたものが、当時の教科書には載っていたのです。もちろん、原作どおり載せるよう、教科書会社に要請しました。) 私事を言うと、「コウテイペンギン」を教材化した当時、「ペンギンはなんきょくにすんでいます」というような説明文が教科書に載っていて、驚いたものです。40年ほど前は、コウテイペンギンの生態はまだあまり明らかになっていなくて、天王寺動物園に尋ねに行ったことを思い出します。 以上、発足当時に焦点をしぼった大阪児言研の活動状態でした。 <大阪児言研の日常的な活動から(1972年:第3回関西集会以降)> 研究会のかつての活動実態やどんなことを大事にしてきたかを、中堅の会員や若い会員にも知ってもらいたいので、ぼちぼち書きついでいきます。 ‘72年のある月は、6月17日の例会(教材研究)のほかに、授業研究もやっていて、6月30日(高学年:説明文)、7月3日(中学年:文学)、7月4日(低学年:文学)、高学年:文学は7月第2週。文法の授業研究もありました。もちろん、指導案はみんな書いています。こんな時期もあったのです(!)。当時の記録を見ながら、我ながら「よくがんばっていたな」と思いました。(この実践・研究体制は、2007年度以後と同じです。) (なお、‘72年当時、中学・高校部会の名簿には31人の名前があります。現在は、残念ですが、中学・高校部会はありません。) 〔‘72年の理論部会の資料から〕 <表象形成の指導をどう考えるか(文学作品の場合)> Ⅰ、表象形成と認識・思考とのかかわり(シャルダコフ『学童の思考』より) 〔注〕B4版2枚あるので、その中から抜粋する。
Ⅱ、「読みの基本作業」と表象形成 1,題名読み 2,表象化 3,概念化 4,感想・意見出し 5,関係づけ 6,予想 7,まとめ 8,表現読み Ⅲ、表象形成の指導の手順 1,準備段階 2,話を聞いて表象化したことを話させる(動作化もふくむ) 3,読んで表象化したことをコトバで表現させる(語句・文に注意) Ⅳ,表象形成の指導の内容 1,情景・人物像をくわしくする 2,人物の心理をくわしくする(入りこみ法、くわしい話しかえ) 3,人物の発言や行動から心理を読みとる 4,その他、感覚器官にうったえるものを感じ取る(味覚・聴覚・運動感覚・触覚など) <想像について>(スミルノフ『ソビエト心理学』) 「想像」とは?
「想像の形態、種類」 A,①無意的想像:もっとも簡単で原始的。形象や観念が、とくべつの企図なしに生ずる場合。 ②有意的想像:一定のものを作り出そうとする企図の結果として発生する場合。 B,①再生的(再現的)想像:当人にとっては新しいあるものを、言語的記述ないしは条件的表現(図面、図式など)にもとづいて表象する。 ②創造的想像:新しい形象を、それに関する既成の記述や条件的描写(図面、図式など)をよりどころとすることなしに作り出す。 C,創造的想像:なんらの労働(観察、研究、創造過程における主作業)なしに、その創作を可能にするインスピレーションの結果と考えるのはまちがいである。インスピレーションは多大の労働の結果である。 観察が積み重ねられ、作品の構想が明瞭にされ、作家・画家がその構想の実現に心をひきつけられているときにのみ、現れる。
〔’73年の部会・学習会の資料・記録から〕 <表象形成の指導をどう考えるか>(プリント)(高学年:大阪市グループ) 現実をただ分析的に、概念的にとらえるだけではなく、生き生きと具体的に感情・雰囲気もすべて含めた現実像として認識する(文学的認識)。そして、そのようにしてとらえた対象をことばによって具体化(表現)していく。だから、<文学の読み>では、文中のことばを生き生きした具体的な像にもどす操作(表象形成)がたいへん重要になってくる。 また、現在の伝達法が視覚映像によっておこなわれることが多くなり、自己の表象形成の成長を阻害しているのではないだろうか。このことから考えても、表象形成の指導が重要である。 1,しくみ ①表象形成はさまざまな関係づけを通して行われる。
2,指導→話しかえ
3,内容
4,指導の段階 <低学年>
<中学年>
<高学年>
<この資料と説明をもとに話し合われたこと>(ごく簡単に)
〔理論研究ニュース〕(1973.4.10) <今年度の研究方針> 理論研究部では、昨年度にひきつづき<文学>についての研究をしていく予定です。 ―この研究テーマを選んだ背景には― すでに科学的な言語観、読みの心理過程に即した<一読総合法>という読みの指導における有効な武器を手にしているわれわれも、読みという行為が読むべき対象の特性によっても規定される側面を考えた時、たとえば<文学を文学として読ませるとは><文学をなぜ読ませるのか>といった問を前にすると、今なお明らかでないことが多くあるのではないか。それらを明らかにするためには、一度文学の特性について取り組んでみることが必要ではないか。諸々の文学教育論、文学の読みの理論が提出されているなかで、それらの考えを参考にしつつ、われわれ自身が文学の根本に立ち入ってあがいてみる必要があるのではないか、といった問題意識がありました。 とはいえ、われわれの現在の力量からすれば、これはあまりにも大きなテーマであり、一体何を課題にして、どのような観点から、どのように切り込んでいけばいいのか、正直なところ暗中模索でとりかからざるをえませんでした。そういう状態で今までにしたことは、児言研とその言語観を同じくし、民族の課題に応えることをスローガンに「総合読み」を手立てとして文体づくりを目指している文学教育研究者集団の中心メンバーである熊谷孝の『文体づくりの国語教育』輪読、つづいて、文体といったことに焦点をあてた江藤淳の『作家は行動する』輪読の二つですが、この作業では、結局われわれの基本認識の再確認ができたにとどまりました。 そこで、今年は新たに出発しなおすつもりで、あらまし次のような見通しをたててみました。 ①まず<現実―作家―作品―読者―現実>という関係の全体的構造についての一定の認識をもつ。さらに、活動上の具体的な留意点として、 ①毎回報告者を設定する。報告者は簡単でいいからレジュメを用意する。 <例会案内と当日の資料>(1977年5月例会) 今月のテーマは「教材分析」です。 授業が成功するかどうかの分かれ目は、教師の教材分析の確かさにある、と言われています。 その「確かな教材分析」とはどんなことか。どんな手順で、どんな方法で、どんなことに留意して おこなえばよいか、などについて、教材に即して考えたいと思います。 なお、「九人のきょうだい」の実践は、『解放教育と文学の読み』にあります。入手できる人は あらかじめ読んでおいてください。 <資料> 文学作品の分析と教材化前提:眼の前に子どもがいる。◎教師の生きる姿勢・思想→子どもに向きあう姿勢・理想→(言語観、文学観、国語教育観)→作品選択 Ⅰ、作品分析と教材化 ①作家研究 ②作品群研究
1,作品分析…明示するため文章化する。 A 巨視的に…「主題」、人物像、作品構造、作者の思想 B 微視的に…語句・文・場面の表現価の分析 ◎教材化の方向…このような認識・思考・感性を(ことばを媒介して)培うために、こう教材化する <観点の例> ①、作品の本質において、子どもに興味や親しみを持たせうるか(おもしろさ) 2,単元の指導目標を明確にする
①作品世界を読みとるためのことがら(内容目標)3,立ち止まり範囲の決定(予定)と時間配当 Ⅱ、1時間の指導計画 1,その時間の指導計画を明確にする。(単元目標との関連をふまえる)
<関連> ◎、教材へのその切り込み=子どもへのその問いかけは、学習集団を成立させる問いかけに発展していく契機を含むか。 ①,教材のどの側面にかかわる問いかけか
①教材のどこ・何が、子どもに親しみや興味をもたせる要因になるか。◎、学習活動を組織するために ①子どもが疑問をもったり、誤解したり、理解に困難を感じたりするであろう点はどこか。 <竹内芳郎著『言語・その解体と創造』より>(「機関紙:大阪児言研(1979.9)」より抜粋) 1,言語とメタ言語 ①、言語は…構造的に階層化されたものである…。 私見によれば、その階層の第一次層(基底方言)が<日常言語>であり、第二次層(広義のメタ言語)が <文学言語>ならびに(狭義の)<メタ言語>または<論理言語>であり、後者はさらに<科学言語>と <哲学言語>に大別される。(略) 〔注〕 「文学言語」は「日常言語」を含意化したもの。 「論理言語」は「日常言語」を明示化したもの。 「科学言語」は含意性から明示性を純化したもの。 「哲学言語」は含意性そのものを明示化したもの。 ②、日常言語、文学言語、メタ言語を峻別したからといって、具体的にはそれらが混在してあらわれることはいくらでもあり得るということ。(略) まず、階層上の相違をあきらかにするに先立って、機能上の相違をあきらかにしておこう。呼称はまちまちであるにせよ、どんな在り方をとる言語にも<明示性>と<含意性>との二つの機能があることは、多くの 言語学者の認めるところである。(たとえば、表示作用と含蓄作用、指示的機能と喚情的機能、…、通達的内包と感化的内包、概念的価値と表出的価値…などなど。) 要するに、コトバというものは、かならず己ならぬ何ものか―それが実在する対象か観念かはここでは問わない―を指示すると同時に、また多少ともかならずそれ自身の有体性(記号としての物質性)において或る表情をもつものであって、両作用が合わさってコトバは私たちにはたらきかけてくる。そこで、前者に注目して コトバの機能を考えれば、それが<明示性>なのであり、後者に注目してコトバの機能を考えれば、それが <含意性>なのである。それぞで、対象指示性と自己表出性と言い換えてもさしつかえないけれども、ただ 注意すべきは、「ここに机がある」は前者にぞくするコトバで「ああ悲しい」は後者にぞくするコトバだと、 誤解しないことである。(略)…、私たちは、コトバの明示機能をつうじてそのコトバの指示内容へと注意を向け、コトバの含意機能をつうじてそのコトバ自体の内在的表情を感受するのである。ところで、この両機能は、後述するどんな次元のコトバにも程度の差はあれ付着しているものであって、たとえば、含意性は単に 日常言語や文学言語で重要な働きをするだけでなく、もっとも抽象的な論理言語にも随伴し、論理の貫徹を 支援または阻害、さらには欺瞞するものだし、逆に、明示性も単に論理言語で支配的になるだけではなく、 詩的言語においてさえも、それが音楽や叫び声だはなくコトバであるかぎりは、含意性に大きく抱かれながらもやはり機能を停止するわけにはいかない。(略)。むしろ、両機能の働き方自体の質的相異に着目することで、はじめて日常言語、文学言語、論理言語それぞれの次元の違いがあきらかとなるのである。 …(略)…。<日常言語>に特徴的なことは、そこではコトバがすっかり言語場のなかに吸収されてしまっていて、けっきょくはそこから自立しえず、単に現実的実践の消化的契機としてのみあらわれる、ということであろう。…(略)…、いま、日常言語のなかでもっとも日常言語的な特徴を示す<挨拶語>、たとえば「お早う」という発話を例にとって考察しよう。このコトバにもやはり明示性はあるはずであって、おそらく、「朝早くからご苦労さんなことです」といったぐらいの意味であり、これはただちにオグデン=リチャーズ式に真偽の判定にかけることができる。たとえば、AがBにむかってこう言ったとすれば、このコトバの指示するところがはたしてBのその時のようすに適合しているかどうか、検証してみればよい。だが、もちろん、誰もそんなことをしようとはせず、…(略)…、コトバが挨拶語として発せられたかぎりでは、コトバの明示的意味は、挨拶したという事実そのもののなかに完全に吸収されてしまっている。ここでは、挨拶したかしなかったかという事実の方がはるかに有意味的であり、また、発話にさいしてのAの態度(Bにたいする)こそが有意味的なのである。…(略)…、「地球は太陽のまわりを廻る」という科学的発言すらも、日常言語として発せられた場合には、その明示的意味が裸のまま問題にされるのではなく、そんな発言を…誰がおこなったのか、 どんな魂胆でおこなったのか等々―そんなことばかりが詮索されるのが、日常性における言語の宿命なのだ。 …(略)…、日常言語は徹底して<自己表出>的言語なので、ここではコトバの指示性は、完全に表現性のなかに包摂されてしまっている。…(略)…、日常言語で大切なのは、発言内容の正否であるよりも発言全体の相手にたいする効果であり、…(略)…。 (このような文体で、上記の〔注〕で示された各種言語について、説明・見解が記述される。) <話し合いの組織――助言・発問のあり方>(1979年9月例会の資料から) 提案者:林田哲治 1,授業の中での教師の発言 ①、指示 :作業などの指示 ②、質問 :確認・評価のため ③、発問 :対象を分析・総合させるもの 子どもの思考にゆさぶりをかけるもの ④、反問 :発言の根拠や理由を問う(主として個人) ⑤、助言 :ヒントや方向を示すもの ⑥、補説 :補足説明や解説など 2,発問(広義)の2つのタイプ ①、教材解釈・授業の構想から(準備された発問) ?教材分析・指導目標の正しさ ?1時間の指導目標・授業構想の正しさ ?子どもの意欲・能力・認識を見通す力 ②、話し合うなかで必要になってきた発問 ?どれだけ教材が自分のものになっているか ?どれだけ子どもの思考・理解度・生活背景をつかんでいるか ?自己反省・自覚的経験の蓄積 3,授業記録の分析① 「大きなかぶ」(高橋和子の例、省略) 発問の適否 → 学習活動の選択 → 指導目標 → 教材の特質 → その分野の指導のねらい…… 4,授業記録の分析② 「発言のうながしと受け止め」(荒木 茂の例、省略) 「わかる」ということ――本音(実感・生の認識や思考・反発・疑問など)が出ているか ――「できる子」「できない子」が固定していないか ――みんなが参加しているか <参考> (1)、発問の原則(小川正、赤井鋭夫の雑誌論文より。林田が要約) ①、子どもの個性的な読み取りの尊重 ②、教える立場からでなく、聞きとる立場から ③、子どもに自己の読みとりの立場を自覚させる ④、読みとりのずれを問題にする (2)、話し合いの3つの型 ①、分析総合型 ②、屈折深化型 ③、矛盾統一型 5,授業記録の分析③ 「しばてん」(林田哲治の例、省略) 6,話し合いでの教師の役割(子どもにも、この力をつけていく) ①、発言をみんなのものにする(繰り返す・再度言わせる・根拠や理由を言わせる……) ②、発言の引き出し(深める・多様な考えを出させる・しゃべらせる……) ③、意見の整理(対立点・共通点・微妙な違いなどのまとめや比較) ④、方向づけ・助言(表現にもどす・話題の限定や転換……) ⑤、思考を深める(切り返し・ゆさぶり……) ⑥、補説・評価(説明・補助的発言・ほめる・注意する……) <1980年度、活動方針と運営について> 1,活動方針 (1)子どもの心とふれあいながら、力をつける授業を組織できる力倆をつける。 (2)各部会は授業研究を積極的に行い、実践力を身につける。 (3)研究成果を分野ごとにまとめて出版する。 2,活動内容 (1)部会活動(毎月1回を原則とする) ?会員はどこかの部会に所属し、その部会の活動に主体的に参加する。 ただし、他の部会にも自由に出席できる。 言語部会 第1土曜 。説明文部会 第2土曜 。 (2)例会……1学期に1回開催(言語・説明文・文学) (3)会員学習会(年2回) 冬休み……「表現よみ」を中心に 春休み……「作文」を中心に (4)地域活動 できるだけ各市単位で、自主的に行う。(講師が必要なときは、事務局に要請する。講師料不要) (5)出版活動 ?中・高学年文法 ?説明文の読み ?文学の読み (6)合宿研究会 来年夏、2泊3日の合宿研究会をもつ(入門講座はもたない)。 3,会の組織 総会――運営委員会――部会代表者会――事務局・研究部・各部会・機関誌 4,役割 (個人名省略) 5,共同研究について 共通教材をもとに、全国の児言研が共同で研究をすすめる新しいシステムです。 会員ならだれでも参加できます。くわしくは後日。 現在の活動とはかなり異なることがわかります。 春の合宿(1泊2日)では、理論研究として「作文」をテーマに3団体の研究を取り上げています。 ①「日本作文の会」については、<その歴史と主張>と題して、B4更紙9枚の資料が提出されている。 ② 児童言語研究会が提案している作文指導の内容と方法 ③「綴り方と版画の会」については、該当の会員から報告をしてもらっている。 地域活動としては、 「国語教育実践講座―子どもの心とひびきあう授業をめざして」主催 東大阪児言研 後援 大阪児言研 という呼びかけで、4回の講座をもっています。(報告者は東大阪、堺、府立高校、豊中、門真。氏名省略) 第1回 A:子どもと教材と授業――子どもの心とひびきあう授業創造の道筋 B:みんなで高めあう文学の授業――「おらたちにゃ口はねえだに」「路地うらの虹」ほか 第2回 A:文学作品の読み方、教材化の仕方――「島ひきおに」「おらたちにゃ口はねえだに」ほか B:感性にくいこむ文学の授業――「三ねんねたろう」「島ひきおに」ほか 第3回 A:子どもたちが法則を発見する文法の授業――児言研文法の考え方、教え方 B:みんなで考えを出しあう文学の授業――「だれのパンか」「おこりじぞう」ほか 第4回 A:説明文の授業で何を大切にするか――「かたつむり」ほか B:楽しく力のつく説明文の授業――「かたつむり」ほか <第19回夏季アカデミーの市川玲子さんの提案に学ぶ> (要点のみをプリントして、説明文部会に提出された。1982.9.12) 「説明の展開のしかたを読みとろう」 <はじめに> 説明文の授業がつまらないという子どもでも、虫・魚・動物・恐竜など、「科学的よみもの」と言われる本はよく読んでいる。そのとき、子どもは、説明されている生物に興味を持って読んでいるのだ。 ところが、指導要領ではこの点が軽視されて、要点・段落のまとめをすればいいことになっている。だから、具体的なものへの興味で読んでいる子どもたちは、説明文の読みがきらいになる。 説明文の授業は、「読み」が楽しくなるようにすることが大切で、そのなかで、ことばがきちんとおさえられていなければならない。また、子どもの認識を大切にする(経験・知識と対応させながら読む)ことも大事である。この二つのことをおさえて、説明文の教材化(教材分析)のあり方を提案する。 Ⅰ、教材化の視点 1,題名と冒頭の部分を検討する。 ⊚題材の提示。説明の動機づけをしている。 ⊚書き手が読み手に対して、何について、どういう視点から説明しているかを示す部分である。 (例1) 「魚の感覚」(5年) 金魚ばちの中で、金魚が無心におよいでいます。 そこへ、金魚のえさとして赤えびの一きれをなげてやると、水底にいた金魚まで、 それをみつけて集まってきます。 〔描写的説明〕 金魚は、赤えびの赤い色に目をひかれたのでしょうか。それとも、投げこんだときのかすかな音を聞きつけたのでしょうか。それとも、えびのにおいをかぎ分けたのでしょうか。 〔色か、音か、においか、具体的な視点の提示〕 いったい、魚には色がわかるのでしょうか。 〔説明の方向を示す〕 (例2) 「花をみつける手がかりに」(4年) もんしろちょうは、日本じゅうどこにでもいるありふれたちょうです。みなさんも知っているように、もんしろちょうは花に止まってそのみつをすいます。 〔子どもたちの経験を呼び起こしている部分〕 いったい、もんしろちょうは、何を手がかりにして花を見つけるのでしょう。 〔大きな説明の方向を示す〕 花の色でしょうか。形でしょうか。それとも、においでしょうか。 〔色、形、におい。具体的な視点の提示。〕 2,冒頭の文にあうように文章展開がなされているか、検討する。。 (失敗例) 「いえのやくめ」(1年) いえは、人がすむところです。いえはどんなやくめをしているのでしょう。 子どもたちは、家の役目として、①寝るために必要 ②大事な物をしまう ③雨が降ったときぬれないようにする、などなどを考えた。ところが、この説明文の展開は、このあと、屋根、壁、出入口、窓、床、台所など、家を構成する部分の説明になっている。まとめも、「にんげんがくふうしながらくらしている。」となっていて、結末が冒頭とあわない。ほかの文章と差し替えればよかった、と反省した。 3,読み手である子どもにわかりやすい展開になっているか、検討する。 (例) 「しっぽのやくめ」(1年) きつねは きゅうにむきをかえるとき、しっぽを つよくふります。 きつねのしっぽは、ふねのかじのようなやくめを しているのです。 きつねのしっぽは、方向転換するだけでなく、体のバランスをとるという役目が大きい。それに対して、船の舵は、水があたって方向転換をする。はたらきの面で例えるのはおかしい。 それに、「~のような」と使う場合、例えるものが読み手の子どもたちによくわかっていることが必要なのに、船の舵は1年生にはわかりにくいと思う。 4,最後の部分を検討する。 ⊚冒頭と呼応しているか。 ⊚説明の最後は一般化されている。説明の範囲で一般化されているか。 ⊚読み手が興味・関心をもった場合、発展的な方向を示して結ばれているか。 「きょうりゅうの話」(4年) ほろびたわけは、気候の変化に適応できなかったこと。ほろびたわけを知ることは、人類にとってとても大切である。 (まずい例) 〔注〕 Ⅱ、以下省略。 <「ある1年生の使用語彙―作文から」> 言語部会に出された資料より(1985.8.1) 1、名づけ(名詞) てつだい、たまねぎ、先生、川、皮、ほうちょう、しる(汁)、ぼく、なべ、じゃがいも、は、ランドセル、じどうかい、もくひょう、せいしょ、うじ、けいはん、かご、ぎゅうにゅう、べんきょう、しょうゆ、にんじん、おもち、こいも、こんにゃく、レジ、テレビ、ふろく、ふくろ、しょうぎ、1年生、うんち、おふろ、パン、にわとり、ぶた、字、かきかた、プリント、おうち、あそび、みせ、しゅくだい、かん字、さんすう、こくご、なわとび、エックスとび、おかあさん、えんばん、がいこつ、ねん土、くつ、木、いえ、よこ、たいいく、がっこう、ズボン、たまいれ、てん、あかぐみ、かち、ドッジボール、まるつけ、あせ、パンツ、ふゆやすみ、いなか、セメント、ともだち、おんな、たこあげ、いと、くるま、れんだこ、そら、みち、やま、ほどうきょう、そと、てんじょううら、にんじゃごっこ、ゲームウオッチ、ひとり、どうぶつえん、さる、さるがしま、うさぎ、ゆきなげっこ、うちゅう人、ET,目、くび、あたま、あし、おなか、手、はな、口、三角、マーケット、ちゅうしゃじょう、よりみち、おしり、ハムスター、うち、おりがみ、かえる、ひこうき、と、おじさん、かぶ、おんがく、スカートめくり、おに、けんそくかい、日よう日、きさいち、カレー、ござ、ようちえん、おいもほり、ゆめ、ボール、人、なつ、あき、おばあさん、まご、いぬ、ねこ、ねずみ、こうちょうせんせい、おやすみ、きんろうかんしゃの日、こえ、たね、たねあかし、二人、1かい、五十円、三時、ちょうれい、ゆき、たいいくかん、ほけんいいんかい、はみがきくらべ、さいしょ、ただいま、ちょうだい、だめ、だれ、あのね、わけ、きょう、なんかいも、だれ、はじめ、11月、5時、ゆうがた、かんちん、ありがとう、おわり、とき、まえ、中、一ばん、あした、しいくいいんかい、はなし、おや、こや、なかよし、四本、サンバ、えいが、おにだいこ、先生たち、まいにち、え、こと、ほし、かど、ほんと、おじいちゃん、 2,動き(動詞) きる、つかれる、なる、むく、とぶ、いれる、たべる、おわる、みがく、わかる、とる、いく、ついていく、もつ、はしる、ある、かう、ない、つく、もれる、もえる、のる、あがる、こわす、まわる、くれる、がんばる、やすむ、かえる、ぬぐ、いそぐ、のぼる、おいかける、くる、あたる、さわる、なおす、おさえる、でる、ぬく、はねる、いる、とばす、ぶつかる、あてる、わらける、みる、ひく、あそぶ、もらう、ひっぱる、いう、きく、ふる、かく、のせる、ひっこす、くらべる、できる、おどろく、おどる、~する、~しない、~したい、~られる、~してる、 3,状態・性質(形容詞) おいしい、おもい、らく、ずるい、あかい、おもしろい、うれしい、いっぱい、すき、すぐ、がたがた、ぐるぐる、ずるずる、キイー、ぐなぐな、まっすぐ、ちかい、かわいい、大きい、ながい、でかい、みじかい、あたらしい、こわい、うるさい、小さい、いっしょ、ひじょうに、いたい、しずかに、いい、よい、ちゅうくらい、ゆっくり、ぼんやり、すっきり、がまん、どんな、なんで、 〔注〕 この資料は、言語部会がすすめている語彙指導の基本的なデータの一つです。 言語部会は、 「人間認識」:あそび、なかま、いのち、要求 「自然認識」:人体、植物、動物、自然 「社会認識」:手、しごと、家、くらし 「論理・思考」:時・方向、色・形・感触、量、認識・思考 という分類枠組みを設け、それぞれの枠組みを、「名づけ」「動き」「状態・性質」(「論理・思考」だけ、「関係」の視点を追加)という視点で、分類した表を作成していました。 <1986年度の理論研究部会の活動>(「大阪児言研ニュース」から) ◎ 部会のメンバー:8人(登録していなくても、参加は自由) ◎ 部会の日時:原則として第4水曜日(18:30~21:00) ◎ 内容は、◉語彙に関する研究、◉発問についての研究、◉学習理論の研究、 ◉宮沢賢治の作品を読む、◉谷川俊太郎の詩を読む。 話し合った結果、宮沢賢治の児童文学(?)を読むことから始めることになりました。 賢治の作品はよくわからないから(?)、なんでわからないか、なんで自分には読め ないのか、ということも含めて、自由に、すきかってに、作品・表現について自分 の「読み」を交流しましょう。どうぞ、たくさんの人が参加してください。「文学の 表現」について、いろいろ考えましょう。(りろんけんのごあんない) 第1回:「なめとこ山の熊」を読む。高校生の読みを例に取り上げながら。「分析表」を 作成。 第2~3回:「狼森と笊森、盗森」を読む。同じ賢治の作品でも、前回とりあげた 「なめとこ山の熊」とちがい、この作品には、主人公らしいものは出てきません。しかし、狼森の狼にしても、笊森の大男にしても、盗森の黒い男にしても、なんとなくユーモラスに描かれていて、不思議な魅力のある作品だ、という意見になりました。 第4回:「セロ弾きのゴーシュ」を読む。はじめの部分と猫の登場の場面とかっこうの 登場の場面までをしました。 ゴーシュというのは、ゆがんで不器用なという意味のフランス語だそうです。 作品の中のゴーシュ像はどうかというと、楽長にいつもいじめられながらもいっしょうけんめいセロを弾いているまじめなゴーシュ、夜も寝ないでごうごうごうごう弾き続けるエネルギッシュなゴーシュ。そこへ、生意気な猫が登場する。 その猫に対しては、今までの怒りをすべてぶつけるように、乱暴に応対してしまう。次に出てくるかっこうに対しても、怒りを爆発させてしまう。生真面目すぎて、対応がうまくいかない様子が描かれている。 最後まで読まないとわからないが、猫は、ゴーシュに対して感情を教えに出てきた、かっこうは、音階の微妙なちがいをわからせるために出てきた、と読めるのではないかという話になりました。次回は最後まで読みます。 第5回:「セロ弾きのゴーシュ」を読む。狸の子が出てくる場面では、ゴーシュは少しやさしくなっています。その次の、野ねずみの子どもの出てくる場面では、病気を治してやっています。 ねこ:感情、 かっこう:音程、 狸の子:リズム を教えてもらう。 野ねずみ:自信をつけさせた。 (自分の知らない所で、自分の音楽が役立っているということがわかった。) 登場する動物たちが、ゴーシュに音楽を教えてもらいに来ますが、反対にゴーシュが教えてもらったことになり、音楽会でアンコールをもらうほど立派にセロが弾けるようになります。その晩遅く、自分のうちに帰ってきたゴーシュは窓を開けて、 カッコウが飛んでいった空を見上げて、カッコウにあやまります。 なぜ、カッコウだろうかという話になりましたが、結論はでていません。時間切れでテーマについても、話し合いができませんでした。 この間、宮沢賢治の作品を三つ読んできました。「なめとこ山の熊」「狼森と笊森、盗森」「セロ弾きのゴーシュ」です。三作とも文体は違いますが、擬態語や擬音語が随所に出てきて、なんともいえず魅力的な作品です。それで、夏の会員学習会に、少し整理して出すことになりましたので、楽しみにしていてください。 <文学部会の通信が発行される>(2000.1.21) 第1号「文学の授業を楽しもう通信」から。 2000年は「子ども読書年」と言われていますが、みなさんのクラスや学校では、どんな取り組みを考えておられますか。わたしたちは、国語の授業を楽しくすることがまず大切だと考えています。子どもたちと文学作品との出会いを、「一読総合法」という授業の進め方で、もっとすばらしいものにしたいと考えています。「一読総合法の読み」は、いま課題となっている「学び方を学ぶ」ことに通じると確信しています。 文学部会は、次の3つの場所で集まっています。(連絡先は省略) ①毎月、基本的に第3土曜日、2時30分から。大阪府教育会館(高津ガーデン)(例会) ②毎月、基本的に第2日曜日、2時から。和泉市立幸小学校。(大和川から南の人が多い) ③不定期ですが、夕方6時から。近鉄小阪駅前喫茶「湖月」2階。(東大阪の人が中心) どの会へでも結構ですので、ご参加を。ただ、取り上げる教材は違います。通信を参照。 〔注〕 これまでは、部会の活動内容は「大阪児言研(事務局)通信」に載っていました。 府下の地域児言研の通信はそれぞれに発行されていましたが、部会が独自に自分たちの「部会通信」を発行したのは、これが初めてだと思います(あまり自信はないですが)。 また、月に3回も、3箇所で、部会をもっていた部は、ほかにはなかったと思います。 <「文学を楽しもう通信」第3号(2000.3.1)から> 2年D組は、マイペースの子どもたちの集まり。関わりあうことのなかなかできない子どもたちの中でも象徴的なのがHくん。学習に興味がもてず走り回り、止めようとすると暴れて、発する言葉は「殺す」「死ね」、興味のある授業は「ハイ、ハイ、ハイ」の連続で、当てなければまた荒れる。そんなクラスで、隔日に作文を書かせ、1枚文集を週に1回発行。楽しみにする子も増えて、『オオカミクン』の授業に入る。一枚ずつ配られるのと、自由な「書き込み」が気に入って、「おじさん、えっと、しんじゃだめ、ううん、えっと、ぼくひとりになっちまうよ」とHくん。それをきっかけに、Hくんは自分の気持ちを言葉で出せるようになった。(すごい!) 2学期の終わり、『海をかえして』の感想では、「ムツゴロウは死んだんちゃうかな。人間はわるいこともして いいこともする。でも人間(自分)のことがきらいになりました。あんなものつくらなかったらよかったのに。ああ人間ムカツク。」 劇にして大人に見せようと、Hくんは死ぬムツゴロウの役。「死ぬってしんどいなあ。いらんやろなあ。死んだら動かれへん。いらんなあ。みんな絶対に死にたくないなあ」と、じっとしていた。 (一読総合法の授業が好きになり、友達を受け入れることができるようになって、よかったね、Hくん。) 「総合学習」がモテモテですが、こうした自分から読みすすめること、お互いの思いや意見が関わりあうことのできる基礎的な学力があってのこと、と思います。どの子にも、学ぶ喜びを感じさせつつ、基本的な学力保障をベースにしてこその「総合学習」でしょう。 <ソヴィエトの文献から学んだことの一例> 以前に、大阪児言研を立ち上げた初期の頃、理論研究会で話題になったコトバや人名を挙げましたが、具体例として、その時期に資料として出されたプリントから抜粋します。 5,理解(現実の事物や現象の本質的な解明) 「理解」が、状況によって、どのように現れるか。 ①、一般化(認知と一体)。②、構成・構造とその働き。③、原因―結果、起源。 ④、論理的根拠。⑤、行動の動機、意味、意義。⑥、コトバの理解。 ◎理解は、過去の経験において獲得された知識に基づくことによってのみ達成される。 理解・習得は、その人の個人的経験を構成する一環となる(コトバの網に位置づく) ときにおいてのみ可能となる。 ◎理解は、既存の結合の現実化であるとともに、新しい結合の連結、新しい連合の形式。 ◎理解は、コトバのなかにあらわれる。コトバと直観的形象。 ⊚自分のコトバで話す。 ⊚自主的に事実例をあげる。 □なぜ、この方法で解かねばならないのか、を理解しているか? なぜ、違う書き方をしてはいけないのか、を説明できるか? (「できる」けれども、「わかっていない」状態。) 6,思考問題の解決 すべての問題解決は、解答が求められる問の提起から始まる。 (問の重要性)。(欲求の充足をさまたげる障害を除去することが必要) ◎問の提起は、既存の知識に大きく左右される。 ⊚ 問は、明確に定式化されて提起されること。 ⊚ 問は、できるだけ具体的であること。 ⊚ 問題解決の全期間、常に「頭の中に」その問を保持すること―途中で問がかわる。 ◎問の分析:中間項を明らかにする。 問題解決の原理・図式、基本的手段・方法を「洞察」する ↑ ↑ ↑ ⊚類似した過去の原理・方法 ⊚豊かな経験・記憶 ⊚知識の再整理―新しい結合 ⊚試行錯誤―方法の誤りがどこにあったのか ⊚コトバによる定式化(一般的原理として) →原理をさまざまな例に適用する。⇔ 例の固定化 ⊚仮説→仮説の検証(知的実験・思考実験=「頭の中に」表象することで、分析⇄総合)→新しい仮説 ★1,完全なコトバを使って語ること(言語表現形式の変化が重要な役割をはたす。表現の具体化) ★2,直観的形象(感性の支持) ↑ 〔★1+★2〕=第一信号系と第二信号系との緊密な相互作用 7,知能の特質 ◎、教授=学習過程においては、知能の個人差を考慮することがきわめて重要である。 児童・生徒への「個別的接近」と結びついた時のみ、一般的教育法は有効となる。 学習者の創意性や自主性、実践能力が形成される。 <知能の基本的特質> ①柔軟性:紋切り型・行動の固定化を克服する。 表象の切りかえ。 知的操作の移行の速さ。 ⊚柔軟性の弱さは、思考過程の正しい組織化によってつぐなわれる。 (水道方式など、「とりこぼし」をつくらない方策の創造) ②自主性:できあいの解決法によりかからない、新しい方法の探求。 ②’批判性と結合している―自己批判、他人の思想を正しく評価する。 生活経験・多様な知識に依存している (「知は力なり」)。 ①②②’は、創造的、革新的活動にとって不可欠の前提である。 知能の特質を明らかにするには、 思考活動の<(ア)直観的・形象的要素系 ←→ (イ)抽象的・言語的要素>を分析することが重要である。 ③知能の広さ~⑥思考の敏速性は省略します。 以上は、スミルノフ主監『ソビエトの教科書 心理学』を参照した報告です。 8,子どもにおける思考の発達 ここは、ヴィゴツキー著『思考と言語』、シャルダコフ著『学童の思考』を参照した報告ですが、省略します。子どもの発達心理学については、皆さんよくご存知でしょうから。 最近は、このような内容について取り立てて話題にすることはほとんどなくなりましたが、指導案を作成するときや授業を分析する際に、ヒントになることがあると思うので とりあげました。 |
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<文責:新開惟展> |