大阪児童言語研究会 |
ぼくの心に感じたコトバ(1~100)<はじめに> ホームページに新しい欄を創ってもらいました。 これまでの項目については、あまりぼく個人の主観的なことは述べないで、できるだけ客観的に書くよう心がけてきました。それで今度は、欄の表題でもわかるように、ぼく個人の主観まるだしのことも書いてみようと思ったのです。 (感想を寄せてもらえればうれしいです。) ぼくの心に感じたコトバ(1) <『子どもの権利条約』第28条「教育への権利」(a)初等教育を義務的なものとし、 すべての者に対して無償のものとする。> ぼくが勤務した二つめの学校(北丘小学校)でのことです。1970年に『にんげん』が学校現場に届き、解放教育を模索する過程で、「就職猶予・免除」の名で教育権が奪われている子どもたちがぼくたちの視野に入ってきたのです。そんなとき、千里地区に、 1973年度に「特殊学級」(当時の呼び名)が新設されると伝わってきて、ぼくたちは夏季休業中の8月30日に教員で会議をもちました。<障がい児教育>を全体のテーマにして議論したのは初めてでした。北丘校区内で「就職猶予・免除」されている子どもが8名もいたのです。その後何回会合をもったか忘れました。 10月、「特設学級新設に関する見解」が教職員の統一見解としてまとまとまりました。(以下、項目のみを示す) 1、障害児教育についての基本的な理念 2、障害児教育の原則 3、障害児学級の特設が望まれる 4、具体的な運営案は、後日検討する 5、現在普通学級内の障害児の教育について 6、保護者や専門家との話し合いをもつ 職場外へ取り組みは、家庭訪問、教育委員会交渉、PTAへの働きかけ、千里地区4小学校教員の会合、4小学校校長との話し合い、などなど、よくがんばったと思います。 そして、なぜか、本校に特設学級が新設されたのでした。 (ぼくたちの取り組みが進んでいたからか?) 4月、1年生として入学してきたQ(「多動性情緒障害」との病名)との格闘(?!)の実態は省きますが、ぼくたち教職員の認識がいかに観念的であり、甘かったかを、 いやというほど感じさせられたのでした。 ぼくの心に感じたコトバ(2) <あの段階(内ゲバ)にくると、逃げるだけの器量をもたないといけない。命令されて仲間をリンチで殺すくらいなら、逃げるんだ。 人間にはそんなこと(大義というような抽象的なこと)を判断する能力はない。誰となら、一緒に行動していいか。それをよく見るべきだ。> 鶴見俊輔(『戦争が遺したもの』) ぼくは「逃げる」ことが苦手です。もちろん、相手を殺すというようなことは考えないし、行動もしないけれど、相手を論破しようとする傾向は強い、と自覚しています。 「逃げる器量」というコトバは痛いです。おまえの器量は小さい、と言われているからです。 また、「大義」より「人」を見よ、というコトバは、この年齢になって少しは理解できます ぼくの心に感じたコトバ(3) <大切なものは、明確な教義にあるんじゃない。 大切なものは、あいまいな ぼんやりしたものだ。 人間を動かすのは明確なものじゃなくて、ぼんやりした信念なんだ。 ぼんやりしているけれど、確かなものなんだ。> 鶴見俊輔『戦争が遺したもの』 若い頃のぼくにとっては、「明確なもの」と「確かなもの」とは同じものでした。それを求めて、本を読みあさりました。自分の行動は、他人から指示されてではなく、自分の判断で行いたい。自分の判断で実行したい。この思いは強いものでした。そのために、判断基準になるものを手に入れたい、と考えていたのです。 「人間を動かすものは、信念なのだ」ということは、わかります。「ぼんやりした信念」というのもわかります。それが「確かなものだ」というのもわかります。しかし、「明確な信念」ということもあるのではないのでしょうか。そこのところが、まだよくわかりません。 ぼくの心に感じたコトバ(4) <わたしたちがそれを頼りに生きている真理の圧倒的多数は、 検証されていない真理からなる> ウィリアム・ジェイムズ 前回(3)で取り上げたことと同じようなことを、ウィリアム・ジェイムズも 述べています。彼は「真理」というコトバを使っていますが、それを、「検証」 という科学的手続きを行使しようとせずに、わたしは、頼りにしているのです。 「検証」できないことを知っているからでしょうか(!?)。 そこが人間の大切な要素の、ふしぎな一面かもしれません。 ぼくの心に感じたコトバ(5) <「なぜあなたはそうした問題に関心をもったか」と聞かれると、「自分でもよくわかりません」と返答している。これは私の正直な感情である。 そもそも、自分を突き動かしている動機が何であるかなど、当人自身にわかるはずがない。ましてや、自分にとっての「決定的な経験」など語る言葉をもたず、沈黙するしかない。 数多くの戦後知識人たちの思想を読んだあげく、人間は結局のところ、自分の動機を自分で理解するなど不可能なのだ、という結論に達した。> 小熊英二『<民主>と<愛国>』 前回(4)、前々回(3)と似たようなことを、小熊英二も述べている。 そういうものなんですね。 ぼくが、今も「日本語の教育」にこだわっていろいろ調べているのは、なぜか。 かつて、そのことに関わって、こんなことを書いたことがあります。 「思春期といわれる年代には、<自分とは何か>という疑問をもつ。ぼくも高校生のとき、同じ疑問をもち、多くの本を読みあさった結果、<人間の人間たるゆえんは、ことばを獲得したことである>との結論に至った。疑問に対する答えとは違っていたが、それで納得した」と。 ぼくの心に感じたコトバ(6) <子どもは、最初はコトバを比喩的にとらえ、主に右脳で処理している。 習熟して機械的に処理できるようになると、左脳で処理するようになる。 新奇な表現は、右脳経由で左脳で処理されるようになっていく。> (認知科学の解説書から引用) そうなんですね。論理的な説明的文章より文学的な表現のほうが理解しやすい、という、授業での子どもの現実は、この説明でとりあえずは了解できます。 それだけではない、子どもの生活という側面がある、とは思っていますが。 ぼくの心に感じたコトバ(7) <われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいて いる概念体系の本質は、根本的にメタファー(隠喩)によってなり たっているのである。> G・レイコフ、M・ジョンソン『レトリックと人生』 前回(6)、「コトバを比喩的にとらえ」と書いていて、思い出したので、関連することを取り上げました。 「メタファー」といえば、詩・文学の世界の技巧のことを思い浮かべるの 常識でしょう。ぼくもそうでした。(「メタファー」の本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験すること)。 説明的文章を分析するとき、その文章の中に比喩的表現があると、たとえられ る「他の事柄」のどこに着目するかで、理解が異なってきます。つまり、論理性 があいまいになる、誤解をまねくということが起こりえます。文学的作品の場 合は、読み手の解釈にゆだねられることが前提で文章化されていますが、説明 的文章の場合は、できるだけ文章の論理にそって理解してもらいたいわけです。 ところで、「普段、ものを考えたり行動したりする」場合、文学的作品や説明 的文章のように、文章化されているわけではなく、その場の状況・社会的文脈に 依拠しているので、少しちがうかもしれませんが、引用した文章を読んで、うー んと思いました。前回(6)は、子どもの理解についてでしたが、おとなでも 似たようなことなのかなと。メタファーは、文脈だけでなく、受け手・思考主体 の生活環境・内面生活に依拠することが大きいですから。 ぼくの心に感じたコトバ(8) <メタファーが私たちの言語・認識・行動に共通する大切な思考手段であること。(略)。どのようなメタファーを無意識に用いているかを調べることによって、「人間とは何か」という大きな問いに、部分的な小さな解答が出せれば・・・。> 瀬戸賢一著『メタファー思考――意味と認識のしくみ』 前回(7)、<メタファーが日常の認識・思考・行動に関わっている>というコトバを取り上げました。今回も同様のことが述べられている本を取り上げました。瀬戸は、「メタファーとは『見立て』と考えると分かりやすい。「を見る」に対する「と見る」ものの見方のことだ。AをBと見るとき、Bにメタファーが生まれる。」と説明しています。それにしても、「人間とは何か」に小さな解答が出せるとは、大きく構えたものですね。 では、この本の目次を例示してみましょう。 視覚のメタファー о「見る」のメタファー о「分かる」とは何か о光と闇 空間のメタファー о位置と運動 о人生は旅 о「道」のメタファー メタファーと現代社会 оメタファーと心理 оメタファーと経済 оメタファーと科学 瀬戸の「人間とは何か」の切り口(これもメタファーです)が推測できます。 ぼくの心に感じたコトバ(9) <「関係性欲求」を持つことが人間の本質であり、他者からの評価や肯定が私たちを動かす原動力である。> 藤井直敬『つながる脳』 藤井は、<人間は他者との「関係性」が決定的な意味をもつ存在である。> とも述べています。他者との「関係性」をつかさどっているのが「社会脳」 (「つながる脳」)といわれる部位・機能です。この「社会脳」が共感や教育などを可能にするのです。チンパンジーはどんな動物よりもヒトに近い能力を示しますが、この「自己と他者を認識する脳」(「社会脳」)を欠いているので、人間に進化できなかったのです。 ぼくが「関係性」ということをいろんな機会に強調しているのは、脳科学によってこのように証拠づけられているのです。 (実は上記のようなことを知ったのは最近で、これまで「関係性」ということを強調してきたのは、別の事実からですが、そのことはまた別の機会に話します。) ぼくの心に感じたコトバ(10) <悪意への悪意(カウンター悪意)> 星野智幸『呪文』 星野は、「強いものには強いもので返す」という風潮は怖い、と書いています。このコトバが、負けることの嫌いな、論破するのが好きな、ぼくには強く感じられました。 「理由なく生き続けることの価値を肯定しないと、みんなが死にたがるか殺したがる方向に行かざるを得なくなってしまう」とも述べています。 「煮え切れなくて、決断力を欠いていて、往生際の悪いこと」を肯定することの大切さについても書いています。 また、我に返る(自覚する)ためには、立ち止まる時空間が必要なのだけれど、今のように情報社会が成熟しSNSが発達している社会では、それがすごく難しい、とも述べています。 (この作品を、鴻巣友季子は「町おこしディストピア小説」と評している。 誰もが「正しい」と考える「町おこし」をテーマにした作品である。) ぼくの心に感じたコトバ(11) <心の持ち方ひとつで地獄は極楽にもなる。> 稲森和夫(京セラ役員) 若い頃は、こういうコトバにすごく反発していました。権力を持つ人たちが ぼくのような民衆をごまかすためのコトバだ。心の持ち方を変えても現実(客観的ことがら)は何も変わらない。現実を変えることこそが重要だ。そう考えていたからです。 経験を重ねた今、このコトバに一面の真実はある、と認めるようになりました。「ピンチはチャンスだ」というコトバと合い通じるところがあると思います。 ぼくの心に感じたコトバ(12) <体のなかで、最も注意が払われていない部分は、・・・足の小指ではないか、・・・。・・・逃げおくれて被害にあうのは足の小指が多い。 ・・・ふだん注意を払われていないからこういうことが起こりやすいのかも・・。・・ないがしろにしていても文句を言わず、黙々と働いてくれている。・・「すみませーん、これから存在を意識して行動します」・・・> 海原純子(日本医大特任教授) 足の小指を骨折した事実を述べているのだが、ぼくには、これまでに書いてきた「メタファー」としても読めてしまいました。足の小指のような存在の人って周りに居ますよね。「ないがしろにしていても文句を言わず、黙々と働いてくれている」人、「逃げおくれて被害にあ」いやすい人、そんな人を、ぼくはきちんと意識してきただろうか。 自信がない。反省します。 ぼくの心に感じたコトバ(13) <前には黒と白、正義と不正義とに截然と、世界が分かれていた。 ・・・世界が、正義と不正義とに直線によって二分されているという 信条は、応用不可能なのだ。> 鶴見俊輔(戦争体験を回想して) ぼくも、これまでにも述べたように、若いときは「黒と白、正義と不正義」に分けて考える傾向が強いものでした。いつごろからでしょうか、社会体験を重ねるなかで、それは不適切であるということがわかってきました。一つの出来事、状況がとても複雑な要素で構成されていることを知るようになったからです。でも、若いときのそのような傾向をダメだとは思いません。成長する過程には大切な姿勢だと考えています。 ぼくの心に感じたコトバ(14) <自分があらかじめ内部にもっている既存の言葉に、 思いもかけない読みかえが提示され、それまで言葉にならなかった 心情の表現手段として適当であると感じられたとき、 その「言葉」は読者に届く。> 小熊英二『<民主>と<愛国>』 子どもたちに「ことば」で伝えることの難しさを、教師は日々体験しています。その子の内部にあるコトバをなかなか知りえないから。その子の内部のコトバを知るためにも、子どもから聴くことが大切なのだ、とぼくは思います。 小熊は、<与えられた言葉に違和感を覚えたとき、人はその言葉を 「輸入」されたものとみなすのである。> とも述べています。 自分の外から与えられた言葉を、内部のコトバとうまく関係づけられたとき、子どもは「わかった」と感じるのでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(15) <日本人は○か×かという二律対抗の中で生きる感じが強いと思うのだけれど、ぼくは正論や正解にこだわらずに、自分の領域で仕事をしてきた。○でも×でもない、とんがった△だったなと思います。 そこに自分らしさがあるだろうと思っていた。> 鎌田實(『週間読書人』から) 「ぼくの心に感じたコトバ(13)」でふれたことに関連する コトバを見つけました。ぼくの「自分の領域」といえば、国語・ 日本語教育です。はたしてぼくは、「とんがった△」と言えるような 実践をしてきたか、この問いに、自信を持ってイエスと言えるか? これは、自己評価でなく、ぼくの周りの人に判断してもらうしかないですね。 ぼくの心に感じたコトバ(16) <哲学の役割は「批判」「指針」「同情」である。 「同情」とは、他者が自分と異なる存在であることを認めたうえで、 他者と共感し、連帯を生みだすことである。> 鶴見俊輔(小熊英二『<民主>と<愛国>』より) 鶴見はこの三つの姿勢を「哲学の役割」とのべていますが、ぼくは、自分が心がけねばならない重要な心構えだと思っています。 児言研の読みの構えは「批判読み」です。教師が児童・生徒との関係で示す大切なことの一つが「指針」です。そして、教室や授業で培わねばならないことはまさに鶴見のいう「同情」だろうと、ぼくは考えています。 ぼくの心に感じたコトバ(17) <自分の意思でしたことは、ほんとうに自分の意思でしたことか? この疑問には、こたえることができないのである。> 鶴見俊輔『不定形の思想』 鶴見は、「自分の意思が、自分以外の集団の意思、国家の意思に まげられてゆくか」とも述べています。ぼくがわが身を省みたとき、 「まげられることは絶対ない」と言い切れるのか、自信がありません。 ところで、教室での児童・生徒はどうでしょう。先生の意思、仲間の意思、親の意思、などなど、自分以外の意思に無意識のうちに「まげられてゆく」ことがないでしょうか。いや、先生の意思に自らすすんであわせるのは、それも「自分の意思」と言えるのでしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(18) <他人の特有な意思の苗床を探り、理解して、その上に育つものとして意思を評価すること。そのとき、1ミリの発芽、1ミリの上昇をも、たましいの躍動をもって見守ることができる。> 鶴見俊輔『不定形の思想』 前回(17)に続けて、鶴見のコトバをとりあげます。 学校での児童・生徒の「意思」を、このような姿勢・感情で見守ることができればどんなにうれしいことでしょう。そうしたいと思って、 現役のときは、子どもたちとつきあってきましたが・・・・・・・。 今、若い先生たちに、ぼくなりのコトバで話していますが、どれだけ届いているか。学校現場はとても時間がなくて、先生が子どもたちと 向き合う時間がなかなかとれないとか。さびしい現実です。 ぼくの心に感じたコトバ(19) <「関係性欲求」を持つことが人間の本質であり、他者からの評価や 肯定が私たちを動かす原動力である。> 藤井直敬『つながる脳』 藤井は、こんなことも述べています。 ◎人間のように他者との<関係性>が決定的な意味をもつ存在を 「社会脳」(ソーシャル・ブレイン)という研究をとおして探求する。 ◎チンパンジーは、どんな動物よりもヒトに近い能力を示すが、共感や教育などを可能にする「社会脳」(自己と他者を認識する脳)を欠いている。 ◎「つながる」という言葉が、これからの脳科学のキーワードになる。 ぼくはこれまでさまざまな機会・場面で<関係性>ということを 強調してきましたが、この本を読んで意を強くしました。また、 <「関係性欲求」を持つことが人間の本質>であるのなら、 ぼくが強調しなくても子どもたちはすでに持っているのですから、自覚させることが重要なのだ、とも思いました。 無意識のうちに持っていることを意識化させることの大切さは、これまでにも述べてきましたから、ますます、意を強くしました。 ぼくの心に感じたコトバ(20) <ごん狐の妙に腑に落ちない結末・・・・・・・。弱者(と、南吉が設定する)の側の、一方的な献身。そして、その「健気さ」は、決して報われないほうが物語として美しいと感じている。なんだか演歌の世界みたいだけれど、・・・・・・・。 そういったメンタリティーが多くの「日本人」の心にはまって、 「ごんぎつね」の全教科書採用などという愚挙にいたっているのでしょう。> 川島 誠『日本児童文学』(2013) ぼくは、教科書の最新版を見ていないので、今も「全教科書採用」となっているのかどうか知らないのだけれど、「ごんぎつね」が初めて教材に取り上げられたのは1956年版の大日本図書(4年)のようです。‘70年度から全社(5社)に採用されるようになりました。この時は、「おおきなかぶ」(1年)も全教科書採用になっています。「かさ(こ)じぞう」(2年)も’89年度から全社(6社)採用になりましたが、訳・再話者は、教科書会社によって、内田りさ(「漢字表」外)子・西郷竹彦・岩崎京子と異なります。 ところで、「ごんぎつね」の作品世界を、川島のように「演歌の世界」と思う人もいれば、「やさしさ、温かさが底に流れている」と感じる人もいるので、全教科書採用を「愚挙」といえるのかどうか・・・・・・・。 現在、教科書採択制度が非民主的(?)になって、現場教師の意見が通りにくくなっているようですが、ぼくが採択委員であった当時は、現場教師の意見が反映される制度だったので、「教科書を左右するのは教室」「現場の意向を配慮する」などと、教科書編集者は話していました。そうであれば、「ごんぎつね」が全教科書に採用されるようになったのは、当時の現場教師の多くが「日本人的メンタリティー」にはまっていたということでしょうか・・・・・・・・・(教師はみな日本人でした)。 ぼくの心に感じたコトバ(21) <人間は言葉の動物だ。言葉が人を動かし、人を形成する。そして、 言葉は行動と不可分のものである。天皇皇后が患者たちの心をとらえたのは、その態度や姿勢、表情が言葉以上の言葉となっていたからである。> (高山文彦著『ふたり―皇后美智子と石牟礼道子』についての 中島岳志の書評) 教師はコトバ抜きではやっていけない仕事です。子どもが教師を 「先生」と思ってくれるのは、「その態度や姿勢、表情が言葉以上の言葉となってい」ると感じたときではないでしょうか。 ぼくたちは、制度としての「先生」ではない人になっているか。 「先生」と呼ばれて安心していられません。 ぼくの心に感じたコトバ(22) <現実は問題ではない。どう解釈するかだ。> 川村 透訳『人の力を借りれば、もっとうまくゆく』 「解釈」が重要であることはよくわかります。しかし、「現実は問題ではない」と言い切られると、ちょっと待って、と言いたくなります。 現実はやはり大事です。ぼくたちは現実に生きているのですから。 でも、「現実」ってなんでしょうか。「解釈」を通さない客観的な「現実」というものが存在するのでしょうか。ここが悩ましいところです。 子どものせかいで、最近は「いじめ」がよく話題になります。 行政は「本人がいじめられていると感じたら、それはいじめである」と「解釈」します。 では、はたから見て「いじめられている」と多くの子どもたちが思っても、本人が「いじめられていない」と感じていたら「いじめではない」ことになるのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。 ぼくの心に感じたコトバ(23) <作品が批評になっていないと意味がないと思っているんです。> 横尾忠則「高倉健を追悼する」 教師にとっての「作品」とは何だろう? ぼくは「授業」だと思っています。授業には日常の学級の状態(学級つくりのありよう)が陰に陽に反映しているからです。 では「批評になっている」とはどういうことでしょうか? これまでの自分の授業と比較して、あるいは、他者の授業と比較して。 また、国語科の授業に限れば、ぼくは児言研の言語認識を援用していますが(例えば、批判読み。一読総合法。)、教科研国語部会・文芸研・文教研など他の国語教育研究団体の授業と比較して、自分の授業を評価・判断することでしょう。 ぼくの心に感じたコトバ(24) <主張よりも謙譲、正義よりも親切を優先させる「心の豊かさ」> マックス桐島(ハリウッド映画プロデューサー)著 『日本嫌いのアメリカ人がたった7日間で日本が大好きになった理由』 桐島が日本人の文化について述べているコトバです。ぼくは、 「思いやり」「個人主義」「迷惑をかけない」「空気を読む」などのコトバを思い浮かべました。「謙譲」「親切」が大切だという意見には賛成です。しかし、「主張」や「正義」と対比させることには、すぐに賛成はしかねます。また、それらのことを「心の豊かさ」でまとめることにも少し違和感があります。「共存共栄の感性」とも述べています(文脈が違いますが)。 日本人が取り立てて・立ち止まって考えることのない風俗・習慣・文化について、友人のアメリカ人家族(夫婦・兄妹)の目をとおして述べられることの中には、考えさせられることが多々ありましたが。 ぼくの心に感じたコトバ(25) <事典には正解があるが、辞典には正解はない。> 平木靖成・『広辞苑』編集部副部長 ネットで調べたことがらには「正解」がある、多くの情報に当たれ、ということだろうか。ことばについては、「正解はない」ということは理解できます。 授業における疑問については、十分吟味することが求められているのは、日常体験していることでしょう。 ぼくの心に感じたコトバ(25) <いい人と出会うことです。いい人は人生の宝です。> 高倉健が学生に語ったことば ぼくもまったく同じ意見です。「いい人」ってどんな人? それは自分で判断する・感じることです。「人生の宝」、そうです。 人生が豊かになります。自分が豊かになります。 若い(高校・大学)とき、なんでも語り合える友人がいました。 もちろん、よく議論・ケンカもしました。そのことがお互いを知る (自分を知る)のに大切なことでした。大人になってからは、あまりケンカをしたことがありません。議論は、その場の状況に応じて、ときにはすることがありますが。 ぼくの心に感じたコトバ(26) <すぐれたリーダーとは、何を成し遂げたかでなく、 自分よりもすぐれた人材を未来に残す人のことだ。> ホセ・ムヒカ(ウルグアイの前大統領) この人は「世界一貧しい大統領」といわれました。元左翼ゲリラで刑務所に入ったこともあり、質素な生活をしていて、2010年の大統領就任時の資産は約18万円相当の自家用車だけだったそうです。 彼は、「貧しい人とは、少ししかものを持たない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人だ」と、言っています。 さて、「リーダー」についてですが、教師は子どもたちから見ればリーダーでしょう。ここで自問です。「自分よりすぐれた人材を育ててきたか?」。「Yes」と言いたいところですが、これは他者に判断を ゆだねるしかないでしょう。 ぼくの心に感じたコトバ(27) <組織を活性化するのに必要な人材は、まず「若者」、次に組織を 客観的に見られる「よそ者」、3番目には急に思いがけないことを 言い出す「バカ者」だ。・・・> 鈴木厚人(高エネルギー加速器研究機構・機構長) 学校・学級も「機構」というとちょっとひっかかるけれど、 「活動単位としての組織」という意味ではそうでしょう。 今学校は若い先生が増えていますが、学校の活性化に生かされているのでしょうか。「よそ者」、「バカ者」の存在はどうでしょうか。管理職の力量が問われる場面です。自分を振り返ってみて、うーんとうなるばかりです。 過日、教師駆け込み寺(ぼくもスタッフの一人)に来られたある 高校の教頭の対応を聞いて、驚きました。「力量」などとはほど遠い もので、「今の状況において大事なことは何か」、判断できないのです。高校でも、管理職のなり手が減っているそうです。その結果、30代後半で管理職テストを受けさせられる実態・・・。そんな年齢で管理職なんて、かわいそう!!! 学級でのリーダーはもちろん学級担任です。クラスの中に「バカ者」が居ることは、みなさん経験していることでしょう。そこで担任の「力量」が問われるわけですが、むずかしいところですね。できるだけ ゆったりと、どんな意見も受け止める構えで臨むことが大切なのは言うまでもないですが・・・。 ぼくの心に感じたコトバ(28) <忘れてええことと、忘れたらあかんことと、 ほいから忘れなあかんこと> 河瀨直美『沙羅双樹』 「忘れてええこと」は無数にあります。日々忘れています。 「忘れたらあかんこと」は、いろいろありますが、 他者に対して行った許せない行為を省くことはできないでしょう。 「忘れなあかんこと」は、うーん・・・・・・ 重大な失敗は、もう何十回、何百回繰り返し浮かんでくることか! その失敗から何を学び取るか、浮かんでくるたびに考えています。 ぼくの心に感じたコトバ(29) <「何を食べるか、どう生活するか」で、ほとんどの病気は治る。> 白澤卓二(順天堂大学大学院教授) 白澤は、「薬が病気を治すのではない」「病気の原因物質や環境・生活要因を除去することが大切」と、別のところで述べています。 この頃、「いじめ」がよく話題になります。そして、いじめられた子といじめた子についての対応が話されます。そのことが大事だと認めたうえで、でも、それって、対症療法(薬)であって、ほんとうに大切なこと(病気が治る)は、その子どもたちの生活環境(クラスつくり)でしょう。この視点からの発言がとても少ないのが残念・心配です。 ぼくの心に感じたコトバ(30) <「敵兵を殺してお前そいつを食うか?食わんくせに殺す。だから わしゃいくさがきらいじゃ」> 倉本總作「屋根」の登場人物の台詞。 倉本はこんなことも語っています。 「富良野塾で、生きた鶏をみんなに殺させていた。それは命を奪うという残忍な行為を我々が行うのは、あくまで空腹を満たすという目的からくるもの」 ぼくが小さいとき、田舎で過ごしていました。そこでは、鶏など家畜を殺して食卓に出すのは日常のことでした。小さい子どものぼくはその情景をふつうに目にしていました。どう感じていたか思い出せませんが、「残忍な行為」という感覚はたぶんなかったと思います。 ○戦争について、このような視点から触れることに、新鮮さを覚えました。 ぼくの心に感じたコトバ(31) <『あなたという国』> ドリアン・助川著 彼は、「国」ということばを辞書どおりの意味で使っていたのですが、 ぼくは、「あなた=対話の相手」と誤解し、それで、「国」を、「多様な・豊かな内容のある存在」という比喩的なコトバとして、読んでしまいました。 それで、『あなたという国』という題名に、「あなた(他者)を、 <国>のように豊かな存在として理解する姿勢」を感じたのです。 読み間違いなのですが、ぼくは、この読み間違いは大切にしたい、 と思っています。 ぼくの心に感じたコトバ(32) <相槌で変わってしまう人の仲> 徳留節 この川柳よくわかります。 対話をできるだけ順調に進めるには、だまって相手を見つめているのでなく、適切に合槌をうつのがよいとはわかっているのですが、 下手な合槌をうってしまうと、話がかえってむつかしくなってしまいます。そのあとの人間関係にまで影響することもあるでしょう。 コミュニケーションのむつかしいところです。 ぼくの心に感じたコトバ(33) <どんな言葉にも哲学の芽がある。 言葉を言った人より聞く人の方が問題なわけです。> 高橋源一郎(鷲田清一「折々のことば」について) 高橋は、<「これがすごいよ」と説明する人がいないと、言葉は通り過ぎてしまう。>とも、語っています。 子どものコトバについて言えば、ぼくも全く同感です。 ぼくの心に感じたコトバ(34) <幕が上がったあと、何をしているのかしばらく「意味」を考えたが、 すぐ諦めた。そして、他者の身体感覚に同期することを試みたが、 態変の舞台に登場する人々の身体感覚に同期するのは難しかった。 態変のパフォーマンスは皮膚感覚とか内臓感覚や粘膜の「活動」が 中心なので、・・・細胞レベルで同期させることに努めた。・・・、 「意味を考えなくてもよい」ということには、すがすがしい開放感があった。> 内田樹:劇団態変を観る 内田は「不思議な、それまで一度も味わったことのない経験だった」とも述べていますが、ぼくには推測できません。 劇団態変は、ぼくも応援しているので、案内はもらうのですが、まだ一度も観に行ったことがないのです。 やはり、一度は経験しておくべきなのでしょうが。 ぼくの心に感じたコトバ(35) <真の方法は、探求されるべき物事の性質に従う> エドムント・フッサール 「あらゆる対象を等しく分析できるような一つの方法は存在しない。 物事の真相を捉えるにはそれにふさわしい方法、文体、表現のスタイルがある。」(鷲田清一) ぼくたち教師が子どもと向き合う時の基本的な姿勢・構えも同じだと考えます。 子ども一人ひとりがみんな独自の存在です。 改めて、彼のコトバを心に刻むことにします。 ぼくの心に感じたコトバ(36) <良いことも不幸もなくて除夜の鐘> 寺田 稔 日本では「無事でなにより」とか「無事でよかった」というように、 「何事もなかったこと」を「平穏」とプラスの方向でうけとめますが、 欧米では「Nothing special」は「退屈感」を表すそうです。 ぼくの和英辞典では、「平穏」にpeacefulがあてられていました。 この感性の違いは、そこに住み続けないとわからないのでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(37) <どうやって直すのかわからないものを、 壊し続けるのはもうやめてください。> セバン・カリス・スズキ 「オゾン層にあいた穴、絶滅した動物、砂漠になってしまった森、 それらをどのようにして元に戻すのか、あなたたちは知らない でしょう。」 地球サミット(1992年)で、12歳の彼女は訴えました。 ぼくもまったく同感です! ぼくの心に感じたコトバ(38) <ラクダについて知るには、 ドイツ人は図書館に、 フランス人は動物園に、 イギリス人は砂漠に、 出かける。> 伊藤博文 では、日本人はどのような行動をとると、 伊藤は述べているのでしょうか ぼくの心に感じたコトバ(39) <人は考える力を失うと、うそでいいから答えがほしくなります。 ・・・、回答を待つばかりの社会は怖い。 与えられたものがそのままで真実になるのですから。> 若松英輔 ひとりで考え続けるのは、ほんとうにしんどいです。 ぼくは対話することで、その状況を超えるようにしています。 ぼくの心に感じたコトバ(40) <日本人は無宗教だと言いながら、死者のために祈ろうとする。・・・。 一神教が「信じる」宗教ならば、日本人のそれは無宗教というより 「感じる」宗教なのかもしれません。> 山折哲雄 ぼくには「宗教」というコトバの意味がよくわかりません。 最近、ムスリム諸国がよく話題になるので、 『イスラーム法とは何か』(中田考著)を読み始めたのですが、むずかしくて・・・。 ぼくの心に感じたコトバ(41) <私たちは互いに「内面を表現せよ」「考えていることを言葉にせよ」と 要求することに慣れています。そして、「沈黙」を「同意」とみなし、 表現されないもの・表象されないものを「ないもの」とみなすことに ためらいを覚えません。> 田中智彦 ぼくも子どもたちに言い続けてきました。 「考えていることを言葉にしなさい」「思っていることを外に出しなさい」と。 「表現されないものを『ないものとみなす』ことにためらいを覚えない」と断言されると、 少しひっかかりますが、言われていることには、反論ができません。 田中は、「沈黙の奥にあるものに耳をそばだてる」ことの大切さを述べていますが、 これには全く同感です。でも、実際はなかなかむずかしいことです。 ぼくの心に感じたコトバ(42) <「レモンをかじらない自分をイメージしてください」と言われて、 イメージできますか?このように、 「潜在意識」は「否定形」が存在しない。> クスド フトシ 確かに、「否定形」はイメージできません。 クスドは、こんなことも述べています。 <この『無』は「全てがある」「全ての可能性がある」ということ。 一つのことに自分を同化させないこと。> うーん、この論理はぼくにはよくわかりません。 「全ての可能性がある」「一つのことに自分を同化させないこと」 というのが、何を言おうとしているのかわかりますが・・・ ぼくの心に感じたコトバ(43) <知性に頼って情の薄い人生を送ってきた報いをうける・・・> 藤原帰一「映画愛」 93歳になったホームズを描いた映画評のコトバです。 「情の薄い人生を送ってきた報い」なんて言われるとドキッとします。「感情を置き去りにして」日々を過ごしてきたとは思いませんが、 「理性>感情の傾向が強い」と言われることがままあるぼくとしては、これからの生き方をしっかり見つめなければ、と思いました。 ぼくの心に感じたコトバ(44) <私たちはいつのころからか、生命や社会や人生について 抽象的な思考をしなくなったのではないだろうか。・・・・・・。 「人間とは」を考える言葉が失われたところでは、「人間らしさ」 を考えることもできない。・・・・・・。 こうして多くの深刻な問題が、私たちの関心の外に放り出されて いるのである。> 高村 薫 児言研では、「読み」においても「作文」においても、 「抽象化」と「具体化」の往復作業の大切さを主張してきています。 ほんとうにわかっているかどうか、この作業で点検できるからです。 この思考作業の重要性を確認しておきたい、とぼくは考えています。 ぼくの心に感じたコトバ(45) <心って見えへん、というけれど、心は見えると思う。・・・・・ 人と人とがかかわる中で心は表出してくる。 とすれば、常に見えていると考える方が自然だろう。> 石黒 浩・鷲田清一 「他者との関係のなかに人の心が現れている」。 ぼくも同感です。他者との関係性に心がかかわっているのだから、 「見える」人には「見えている」のです。こわいことです。 ぼくの心に感じたコトバ(46) <人間は、一枚の紅葉の葉が色づく事をどうしようもない。・・・。 言葉も亦紅葉の葉の様に自ら色づくものであります。> 小林秀雄 「文学と自分」 小林の言うように、歳月とともに言葉も自ら色づくとすれば、 怖いなあと思います。 ぼくがこれまでに綴ってきた言葉は、今、どのように色づいているのか。 枯れてしまっている言葉があるだろうことは想像できますが、美しく色づいている言葉がはたしてあるのか。 豊かに色づいている言葉もあってほしい、と願っています。 ぼくの心に感じたコトバ(47) <文字を読むことがおぼつかない人々への布教は、 経典の意味を説くことより、声の調子や歌の雰囲気から入っていった。> 「節談説教」の解説より。 授業と布教とはまったく異なるものだ、とよくわかったうえでの話です。 <信仰は観念としてだけでなく、場として存在する。> <言葉の意味を超えて心に届く「声」や「響き」> 授業(教授⇄学習過程)は「場」として存在しています。 その「場」でやりとりされる言葉は、「意味」だけでなく「声・響き」も働いています。 このことを忘れないために、<・・・>のコトバを引用しました。 ぼくの心に感じたコトバ(48) <ホモ・サピエンスが出現したのは、およそ20万年前。 そのころの人々のからだも脳も基本的な遺伝子構成も、 今の私たちと同じである。> 長谷川眞理子(大学院教授:動物の行動と進化専攻) <現代的課題の解決策を考えようとするとき、「最近の20万年」の 視点を持つことが重要>とも述べておられます。 20万年前と変わらない私たちの感情・情動・欲求のあり方と 急速に発展した技術が生みだした現代社会のあり方とのギャップ、 という視点に問題解決のヒントがある、という発想に驚きました。 ぼくの心に感じたコトバ(49) <「何も特別なことのない一日」の価値。 生きていて家族や友がいて生活の場がある何でもない一日は、 実は「特別な一日」だと気づく時、心のあり方はかわる。> 海原純子 日本には「無事でよかった(なにより)」というコトバがあります。 日本的感性では「至福感」を表しますが、「無事」ということを、 欧米では、「Nothing special」と言うそうで、「退屈感」を表すとの ことです。 文化のちがい、生活感のちがいを改めて感じました。 ぼくの心に感じたコトバ(50) <ここではあなたの判断力が必要です。人はストーリーを語るとき、 いろいろな話し方をします。(体験者の)録音や映像もあります。 でも、何を録音し何を展示するかを決めたのは特定の人々です。> (東 自由里の記事から) これはドイツのナチス関連物を展示しているセンターの子ども向けの音声ガイドだそうです。 未成年の来館者に「批判的思考」を促しているのです。 日本にもこんな説明のある場所はあるのでしょうか。 考えさせられました。 ぼくの心に感じたコトバ(51) <米国社会では、小学生から社会人に至るまで、自己主張が求められる。 アイデアや意見が優れているかどうかよりも、プレゼンテーションの上手な者が尊重される。> スーザン・ケイン(『Quiet(静寂)』の著者) ケインはこうも述べています。米国社会では、 「自分を主張しない人は能力が劣っている、とみなされる」 「外向的な人間が勝者であり、内向的な人間は敗者だ」とも。 日本と異なる文化・社会だということがよくわかります 自分の考えを表現する(言葉化する)ことを、ぼくも子どもたちに求めてきました。 そうすることで、自分が何を考えているかわかるからです。 アイデアや意見の内容を確認するための方法であって、 「主張する」行為そのことを励ましてきたのではありません(ある子どもに対してはそういうこともありますが)。 内容と関係なく、主張の仕方が上手かどうか、など、考えたこともなかったです。 ぼくの心に感じたコトバ(52) <戦争を「語る資格」を問うなら、それは現代に対する目的意識の有無ではないか。 体験の有無だけで歴史を語るヒエラルキーが定まり、 今を検証しない話者が歴史を語ることに嫌気がさしている。> 武田砂鉄『紋切型社会』 「今の若い人は、本当の貧しさを知らない」という言葉遣いも同じでしょう。「体験」を軽視するつもりはないですが、 「体験」を論拠にする人には、「あなたは現代社会に身を置いていますか」と問いたいですね。 子どもたちの話し合いでも「体験」がものをいいます。 聞いている他の子どもたちをどう参加させるか、いつも悩むところです、教師の立場として。 ぼくの心に感じたコトバ(53) <知識人には二つの軸が不可欠だと思います。 ひとつは現状に対する批判力。 もうひとつは構想力。構想力とは、間違った現状を超える、 まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力と言えます。> 坂本義和(国際政治学) 教師は「知識人」です。辞書には「知識のある人」とありますから。 しかし、坂本のいう「二つの軸」があるかと問われると、答えに窮します。 批判力はあるでしょう。でも構想力のほうはどうでしょうか。 苦しいところですね。 ぼくの心に感じたコトバ(54) <「あきらめる」ことを拒否して生きていける人は一人もいないのでは ないか。・・・・。「あきらめること」「我慢すること」を敗北としないで、 もう少し自然に肯定する空気があってもいいと思う。> 山田太一「「ガマン」を花で飾った人たち」より ぼくもこれまでに「あきらめた」ことは何度もあります。でも、それを 「敗北」と感じたことがあったかな?・・・、若いときは似たような感じをもったことがあるような気もしますが、 「肯定する」ことはなかったように思います。「肯定する」・・うーん、むずかしいですね。 ぼくの心に感じたコトバ(55) <虚偽というものは、しばしば、真実の途方もない重さに おしつぶされるかもしれないという不安の表現にすぎない。> カフカ(山田太一「作家をめぐる本」より) 子どもたちと話していると、「ええっ?」と思うことが時にあります。本人は「真実を話す」ことに「不安」を感じているようには思えないのですが。たぶん、当人も自覚がなくしゃべっているのでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(56) <リアルとは、未来の自分を動かす力であり、 自分の将来を変えるものをリアリティと呼ぶ。> 堀江敏幸の書評から 高校生に向けた辞書には、 リアル=①現実的 ②写実的 リアリティー=いかにも本当らしい様子。迫真性。現実味。 とあります。 「未来」「将来」を視野に入れた、自分を動かす「力」という視点に、 納得するものがありました。 ぼくの心に感じたコトバ(57) <「なにを書くか」より、「いかに書くか」の方を高く評価する人がいるが、 「書き方」は書く内容と組み合わさってこそ意味があるのではないか。> 田中和生(文芸評論家) 国語の授業でも同様のことが話題になります 最近では「書くために読む」ことが学校の課題になっているところも多く、 「何が書かれているか」は軽く流し、「どのように書かれているか」 が学習の中心になっていることも多いようですね。 ぼくは田中の意見に賛成で、内容と組み合わせて書き方を議論してほしいと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(58) <愛とは自分の幸せより、相手の幸せを思うことだと考える。> ゲルダ(『リリーのすべて』の主人公のひとり) 「愛」というコトバを、たとえばはにかみもなにも感じないで、 口にできる日本人は少ないのではないでしょうか。(ぼくが傘寿だからかな?)。 ゲルダの考えに異論があるわけではないのですが。 最近の小学生なら、特別な感情なしに口にできるのだろうか? ぼくの心に感じたコトバ(59) <多くの対立や矛盾は、アイデンティティに内在する多様性を 抑圧すること、あるいは、ある種のアイデンティティの多様性が 画一的に構成された社会によってひきさかれ、社会の共同性の 基礎が破壊されたことによる。 私たちは共同性と画一性を区別する必要性がある。> 汪 キ(日扁に軍)『世界史のなかの世界』 子どものアイデンティティを認めることはとても大切なことです。 留意することは、そこに内在する多様性を本人に気づかせること、 教師が画一的に認識しないことでしょう。でないと、子どもたち のあいだに対立をもたらすことになりかねませんから。 ぼくの心に感じたコトバ(60) <長く続いた平和のなかで、 日本人は「日常の底に潜む恐怖を想像できなくなっている」> 古井由吉(自作の小説について語る) 古井は「世界は危険を含んでいる。平和・平穏で当たり前と思って いては、危ない」とも述べています。 子どもたちのなかには、このコトバの意味を感じとれる人もいるでしょうが、幸せに過ごしてきた子にはむずかしいでしょうね。 クラス集団がうまくいっていれば、なおさらです。複雑な感慨です。 ぼくの心に感じたコトバ(61) <いくつ歳を重ねても、その歳にならないと、わからないことがある。 そう思うと、明日を生きるのが楽しくなる。> 吉沢久子(98歳、エッセイスト) ぼくも傘寿になりました(98歳にはとても及びませんが)。 「その歳にならないと、わからないことがある。」 というコトバには共感します。 そして、吉沢のことばに、「明日を生きよう」と励まされます。 ぼくの心に感じたコトバ(62) <京都府宇治市は、認知症の人の支援に力を入れてきたが、 認知症の人が医療や介護サービスの利用者や患者である前に、 「同じ町で暮らす生活者だ」という視点が欠けていたことに 気づいた。> (新聞記事) 数十年昔のことですが、「障がい児」を担任したとき、 こんな子がこの地域にいるんですよ、と 地域の人に知ってもらう行動をしたのを思い出しました。 ぼくの心に感じたコトバ(63) <将来のことは、大人になるまで生きていたら考えるよ。> パレスチナ難民キャンプにいる子ども 日本で同じような答えをする子どもを、 闘病生活をしている子ども以外は、ぼくには考えられません。 (貧困状況にある子どもはどうなんだ、という声が聞こえます・・・・。) 「大人になるまで生きている」のは考えるまでもない、のが日本です。 ありがたいことです。 ぼくの心に感じたコトバ(64) <人間は「遠近法」で物事を捉えている。> ある本(題不明)からの引用 ここでの「遠近法」とは、 「自分に近く感じられる事柄は、実際よりも大きく感じられ、 遠いと感じられる事柄は実際よりも小さく感じられる」という 認識・理解のひずみについて述べている比喩的コトバです。 ぼくも同じ意見ですが、これを修正するのはむずかしいでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(65) <永久革命がありうるとしたら、社会主義でも共産主義でもなく、 民主主義においてだけだ。> 丸山眞男 授業つくり・学級つくりでも、丸山の意見は適用される、とぼくは思います。 民主的な授業・学級は常に(永久に)発展・進化(革命)しています。 そうだからこそ、子どもたちは楽しく参加・活動しょうという意欲がわいてくるのです。 (社会主義的・共産主義的な授業・学級を、みなさん、想像してみてください。) ぼくの心に感じたコトバ(66) <読み終えた人に印象を残すことが成果なので、当然、技法が 必要になる。> 荒川洋治(随筆集についての評語から) 学校でも文章の書き方を指導します。作文の種類にもよりますが、 「印象を残す」作文という観点から、作文指導をした記憶は、 ぼくにはありません。皆さんはいかがですか? ぼくの心に感じたコトバ(67) <世の中には3種類の人がいる。「話せば分かる人」 「話しても分からない人」「話さなくても分かる人」だ。 政治家は「話しても分からない人」にも分かってもらう 努力を続けねばならない。> 小泉純一郎(元首相) 子どもたちにも小泉のいう3種類の人がいます。 ぼくたちは政治家ではないですが、「話しても分からない人」にも 分かってもらう努力を続けねばならないですよね。そのためには、 日ごろから、子どもたちとの関係を築いておくことが大切です。 ぼくの心に感じたコトバ(68) <私がどう思うかが大切で、私とは何か、私の根拠をどこに置くか、どのようにこの私になったのか、という問いが欠けている。> 川村覚文(近代日本思想研究家) 左派・右派の若者が自分にこだわる現象について述べられたコトバ。 自分をどこまで深く・広く・多様に見つめているか、を問題にされているのですが、これは自戒したいところです。ぼくも人前で話すとき、「これはぼくの個人的な意見です」とことわることがありますから。 自分の研究歴については、必要最小限ことわることはありますが。 ぼくの心に感じたコトバ(69) <文章にも感涙スイッチはある。記者稼業も長くなると 「こう書けば読者は感動する」と見えてくる。 それが嫌で、あえてその表現を避ける。> 小国綾子(新聞記者) 教師も長く務めると、「こうすれば子どもたちはのってくる」と わかってきます。それにのっかれば、子どもたちとの関係をうまく つくることができます。けれど、それに頼っていれば子どもたちを 「発見する」ことがむずかしくなります。要注意です。 ぼくの心に感じたコトバ(70) <オープンダイアローグは説得しない。 一つの合意を目指すのではなく、対話を通じて多様な声が交錯し、 辛い体験が共有されていく。・・・・・・。 言語とコミュニケーションが現実をつくるという考え方に立脚し、 「言葉」と「対話」へのあつい信頼に支えられている。> 斉藤環(精神科医) ぼくが高校生だった頃、「自分は何者か」という問いにとらわれ、 書物を読み漁りました。そして行き着いたのが、「人間が人間であるのは、 コトバを獲得したことにある」という結論でした。 「問い」と「答え」が対応していないのですが、それなりに納得したのです。 <「言葉」と「対話」へのあつい信頼>。ぼくも同感です。 ぼくの心に感じたコトバ(71) <思想とは、何か外界にある実体のようなものではなくて、 私たちが生きるために、よく生きるために、それを使うもの、 という風に私たちは考える。> 竹内好(「思想の科学」研究会) 竹内好は次のようことも書いています。 「人がだれでも本来にもっているもの。それをそだて、その法則を つかむことによって、さらにそれをよくそだててゆきたい」。 ぼくも同感ですし、そうありたいのですが、 それがなかなか実行し難いのです。 (この文章の動詞には漢字を使っていないのはなぜだろう?) ぼくの心に感じたコトバ(72) <今一番新しい劇作家、ウイリアム・シェイクスピア> 北村紗衣(大学教員) 北村はこんなコトバも述べています。 <シェイクスピアが描いた芝居はまさに自分たちの「同時代」の問題を扱っていると考え、 現代的なセットや衣装を採用することもよくあります。> 優れた作品とはそういうものなのでしょうね。 いつになっても古びない内容を含んでいる作品を「古典」というのですから。 ぼくの心に感じたコトバ(73) <自分と異なる思想や生き方を選ぶ人を否定したり、 非難したり、憎んだりする心をいかにのりこえるか。・・・ こんなに科学技術が進歩しても、 他者を受け入れず存在を許さないという心を進化させることができない。> 海原純子(大学教員) ここに述べられているような心をいかにのりこえるか、 これはぼくにとっても大きな課題です。 「進化」できるか否かは、人間の努力の外にありますから。 ぼくの心に感じたコトバ(74) <「アクティブ・ラーニング」というコトバを、 教育界でよく耳にするようになりました。 「主体的で協働的な学習」を意味するようですが、 わたしたちは以前からこのような学習形態を実践してきており、 いまさら、新しい事としてカタカナコトバで言われるようなことではありません。> 新開惟展(「第25回大阪児言研・関西集会のあいさつ」より) ぼくのコトバですから、もちろん、ぼくは同じ見解です。 教育界はカタカナコトバがお好きなところのようですね。 ぼくの心に感じたコトバ(75) <子どもたちも教師も「楽しめる」授業をつくるために 大切なことは二つあります。 一つは、授業に参加できるコトバを育てること。 二つは、そのコトバを適切に受け止める学級集団をつくること。> 新開惟展:「第25回児言研関西集会のあいさつ」 ぼくのコトバをまた挙げるのは心苦しいのですが、 ほんとうに大事なことと信じているので認めてください。 ぼくの心に感じたコトバ(76) <「真実」をつかもうとして、迷ったときに頼れるものは、 「本質」に戻る「想像力」と「他者への優しさ」、そして 「直感」だろう。> 堤 未果 異論はないのですが、どれもむずかしいことです。 「真実」をつかむことがそれほどむずかしいということ なのでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(77) <日本には「謝罪文化」というものがある。・・・・。 謝らないことには、世間が収まらない。「まず謝っちゃおう」 というパフォーマンス、儀式だ。でも、謝ったからといって 自ら責任を認めたわけではない。・・・、批判する方もおもしろ がってやる。 どちらも理詰めでは論争しない。> マッド・アマノ(パロディー作家) ひじょうに鋭く、いいところをついています。 ほんとうにぼくははずかしいです。でも、ここに指摘されている ことは事実として認めないわけにはいきません。 理詰めで相手に迫るぼくは嫌われ、ケムタがられています。 ぼくの心に感じたコトバ(78) <気づくということは、当たり前のことに疑問を持つことでもある。 ・・・・。 興味を持ったらすぐに頭をはたらかせる。 興味や関心をそのままにしない生き方が自らの生き方だった。> 橋本武(灘校の国語の教師) ぼくも同じような傾向があり、すぐ調べ始めるけれど、 それが「自分の生き方」とまでは言い切れないなあ。 ぼくの心に感じたコトバ(79) <メダカ1匹=ご飯83杯。 オタマジャクシ35匹=ご飯1杯。 アキアカネ1匹=ご飯3杯。> 福岡県糸島市の「農と自然の研究所」 生き物が田にどれくらいいるかを数えた全国調査をもとにした数式。 メダカ1匹が育つのに、ご飯83杯分の稲が植わった田んぼが必要だ、ということです。 ぼくは驚きました。 「田んぼを米を生産する工場みたいに考えてはいけない。 多くの命を生み育て、支えている場なのです」 とも説明されています。これはぼくも知っていました。でも、 このように数式で示されると改めてほう~と感じました。 ぼくの心に感じたコトバ(80) <9勝6敗を狙え> 色川武大 このコトバについて、鷲田清一は、 <高校野球なら毎試合全力を投入しないと次に残れないが、 プロの勝負は通算で決まる。 人生も同じ。・・・・・、 「これを守っていれば勝ち越せる」というフォームを見つけること。>、 と述べています。 おっしゃることはよくわかります。 ただ、「勝ち越せるフォーム」を見つけることが、ぼくには難題なのです。 ぼくの心に感じたコトバ(81) <近代社会に移行する過程で、人間社会は、ヒトという動物が本来、 共同繁殖でなければ子育てができない動物であるという事実を忘れた。> 長谷川真理子(進化生物学者) 長谷川は、こうも述べている。 「社会がいかに市場経済と個人主義に変わろうと、 両親以外の多くの個体がかかわらねば子育てができない という生物学的制約は消えていない」 隣近所のつきあいがうすくなってきている現実を実感するにつけ、 「子育ち」が心配です。 ぼくの子どもは近所のおとなにしかられながら育ちました。 このごろは、他人の子どもをしかるのにすごく気を使います。 ぼくの心に感じたコトバ(82) <新卒採用で重視した点を企業に聞くと、 1位が「コミュニケーション能力」、・・・、 「責任感」は6番目だ。> 中村秀明(毎日新聞論説委員) 「コミュニケーション能力」をどのようにして判断したのか、 ぼくは知りたいですが、それはここでは横において、 「責任感」が6番目とは驚きました!!! 考えられない企業の姿勢です。 ぼくもいろんな研究グループに参加していますが、 「責任感」を持っていない人って、信頼できませんよね。 ぼくの心に感じたコトバ(83) <哲学的対話の目的は、 「ある事柄の意味(本質)を 言語によって明確化する作業」である。> プラトン 「哲学的対話」ではないですが、 「対話」は共通の答えに到達するための作業・行動である、 とぼくは思っています。 ぼくの心に感じたコトバ(84) <少年院を取材していて思う事。 かつては、社会との対立構造の中で事件が起きた。 でも、今は反社会でなく、非社会になっている。 矛盾が内へ内へ、家庭に向かえばネグレクト、 自分自身に向かえば自傷行為や引きこもりとなる。> 石井光太(ルポライター) 「今は反社会でなく、非社会になっている。」ぼくも同感です。 「反社会」的な行動に出ていた方が「安心」(?)できました。 「非社会」的になってきたのはどうしてでしょう。悲しいです。 ぼくの心に感じたコトバ(85) <あきらめない持続性こそ一番信用できます。 しぶとくノーを言い続ける。> 黒井千次(作家) 「持続することは力」というコトバがあります。 ぼくがかかわっている活動も同じです。 それでどんな成果があったのか、気にしません。 続けることで社会に影響していることを信じています。 ぼくの心に感じたコトバ(86) <代受苦者(だいじゅくしゃ)> 仏教のコトバ 金子みすゞ記念館の矢崎節夫館長が、みすゞの詩から読み取った みすゞの物の見方について語ったコトバだそうです。 意味は、「もともと自分が受けたかもしれない災難やくるしみを、 自分に代わって受けてくださった人」 (似たコトバに「獄苦代受」(ごっくだいじゅ)があります。仏教語。) 菩薩の慈悲のこころを指し、菩薩の行の一つともいわれています。 ぼくも金子みすゞの詩は好きで、読むたびに強く心に感じます。 でも、こんな仏教語で受け止められるとは知りませんでした。 ぼくの心に感じたコトバ(87) <凡庸は罪である。> ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』 ええ~、そんな厳しいことを言わないでください。 と、思いましたが、こんな説明があって少し安心しました。 <「平凡」と「凡庸」は似て非なるもの。 「凡庸さ」は思考停止につながり、そのことが 全体主義という巨大「巨大な悪魔」を生みだす。> ぼくは「平凡」ですからびっくりしたわけです。 「思考停止」にならないよう、常にこころがけ心がけています。 ぼくの心に感じたコトバ(88) <言葉は・・・誰もが共有できる、しごく公平なもの。 誰もが使っている言葉から、新しい文脈を引き出すのが 詩人の仕事。> 最近の教科書には、説明的文章の書き方の例がほとんどで、 ぼくが教師になりたてのころ大切にした、 いわゆる「生活綴り方」が見られません。 これには驚きました。 子どもたちは「共有の言葉」を使って、文章を書きます。 その文章には子どもたちの人間性・個性があらわれてきます。 最近の教科書のように、「説明の型」にそった文章では そこのところがどうなるのでしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(89) <小学校で、「誰よりも早く目を覚ますもの、なーんだ」と聞くと、 ・・・、「空」と元気よく答えた男の子がいた。> 近藤勝重(新聞編集委員) こういう子どもがいるクラスは気持ちがいいですね。 周りの意見にとらわれずに、自分の思ったままを述べる。 そんな子どもに誰もが育ってほしいと、しんそこ思います。 ぼくの心に感じたコトバ(90) <文章は形容詞から腐る。> 開高健 このコトバは、留意しなければならない。 つい不用意に形容してしまうことがありますね。 好きな形容語を使う時は、要注意です。 ぼくの心に感じたコトバ(91) <教育というのは集団の営為だ。> 内田 樹 ぼくも同じ考えです。 内田は教師について述べているのですが、 教室における教育も同じで、 子どもたちの関係・集団のありようによって、 授業の「効果」は異なります。 ぼくが学級・学習集団つくりに力を注ぐのはそのためです。 ぼくの心に感じたコトバ(92) <私は自分の気持ちをうまく表現できない時に「やばい」という 言葉を使っていたようだ。> 中学生(15歳) 彼女は「良い意味にも、悪い意味にも使える」とも書いていて、 「<やばい>を使い続けると、本当に伝えたいことが伝わらなく なる」とも書いています。 語彙が乏しいなと感じられるような文章を書かないよう、 ぼくも心がけてはいるのですが・・・・。 ぼくの心に感じたコトバ(93) <「相手や場面に合わせて態度を変える方が好ましい」 という人が、 「いつも同じ態度でいる方が好ましい」 を、20代では上回った。> 2013年度世論調査 この記事の筆者は、 「コミュニケーション能力が上がっている一面があるかもしれない」 と分析しています。 以前、企業が「コミュニケーション能力」を1位に、 「責任感」を6位に位置付けていることにふれて、 「コミュニケーション能力」をどのような観点で判断するのか 知りたい、と述べたことがありますが、一つわかりました。 ぼくはこの若者の考えを良しとしているのではありませんが・・・。 ぼくの心に感じたコトバ(94) <無関心は罪> 全世界文化アカデミー 2日間のホーラムの記録集 『介入とは?人間の権利と国家の理由』から引用しました。 そこには、「最も非人間的なのは、かかわり合いを避ける選択、 無関心だ。」と述べられています。 ぼくは関心をもつ分野が狭く、ほとんどのことに無関心です。 しかし、人間に関わる分野には無関心ではありません。 人間の権利にかかわることに<無関心であることは罪>には 同意します。 ぼくの心に感じたコトバ(95) <方言の持つあいまいさは人間そのもののあいまいさであり、 感情というものの奥行きの深さをあらわすものだと、思う。> 天野祐吉 「方言は共通語より気持ちがあらわせる」という人が多い。 文章に書けば、意味の伝達は共通語の方がまさる、と思うが、 話しコトバは<意味+感情>だから、むずかしいです。 ぼくの心に感じたコトバ(96) <電子メールで、 笑顔や泣き顔といった絵文字が、 女性に多く使われている。 理由は、 気持ちをより分かりやすく伝える、 相手への親しさを表す、 などが多かった。> 新聞記事(2016年9月) ぼくは絵文字を使ったことがありません。 事務的な内容が多いことが一つの理由ですが、 ほかにも訳があります。 この記事のなかにもそれは述べられていました。 「笑う表現を例にとっても、日本語にはいくつもの単語がある。 微妙な感情のひだを一つの絵文字で表すことはできない。」 ぼくも乏しい語彙の中から、できる限りピッタリの語句を選んで 使うように心がけています。 ぼくの心に感じたコトバ(97) <民主主義が成熟すればするほど政治家は小粒になると思う。 市民が成熟すれば、すごい政治家は必要なくなるのでは・・。> 鈴木由紀子(作家) 先日、ぼくが主催する研究会で聞いたことです。 子どもたちをひきつけることも、授業の技術も優れている先生。 保護者からも管理職からも評価が高い。 子どもたち同士の関係は?と尋ねたら、うーんという答え。 こども”たち”ではなく、一人ひとりが先生と結びついている様子。 子どもたちと教師の関係・指導の在り方を考えるうえで、 大切な観点だと、ぼくは思います。 ぼくの心に感じたコトバ(98) <人の動きには癖がある。その癖(「体癖」)は、 趣味、教養、知識、感情、思想、健康状態から 家風、経済、流行等、 個人生活から社会事情に至るまで、 そのすべてが反映している。> 野口晴哉(はるちか)著『体癖』 野口さんは、10万人以上、30年以上、 「体癖」を観察した結果、 人が行動する基準を、 〇損得を重視する傾向、〇好き嫌いを重視する傾向、 の二つに分類しています。 ぼくは、自分の「体癖」などわからないのですが、 どちらかといえば、後者に属するのかなあ・・・ 教師の目で子どもたちを見ていると、 一人ひとり「体癖」があるように見えますね。 ぼくの心に感じたコトバ(99) <加害者である親たちは異口同音に 「自分なりに、子どもを愛していました」と語った。> 石井光太『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち』 「愛している」のに虐待する親、死なせてしまう親。 <「複雑な」という紋切り型の形容では言い切れない家庭環境> と石井さんは述べるのですが、 このような親のあり様を「家庭環境」で説明することは ばくには理解できません。 ぼくの心に感じたコトバ(100) <従順であるとは、「他者の意志への屈服」である。> アルノ・グリューン『従順という心の病い』 子育てを体験してきた、そして、教師を体験してきた ぼくとしては、とても複雑な心境になります。 「従順」というコトバを使ったかどうかは別にして、 このような姿勢で子どもたちに対応してきたことが 多くあったのは事実です。 他者の意見を批判的に聞いて、それに従うということは、 「屈服」とは違う、とぼくは考えています。 |
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<文責:新開惟展> |