機関誌から


機関紙『大阪児言研』から

 機関紙『大阪児言研』を、1971年4月から発行するようになったことは「大阪児言研について」で述べました。けれど、その内容については紹介していなかったので、これから順次少し具体的に述べていくことにします。そのように決めた理由の一端を以下に述べます。

大阪児言研が結成されてもう45年が経過しています。学校現場の様子も大きく様変わりしました。特に、ここ数年の変化は急激で、児童・生徒も先生もとまどっているように見受けられます。こんな時期だからこそ、教育・国語教育について、原点を見つめなおす作業が必要でしょう。その作業の一つとして、大阪児言研が「何を」「どのように」考え・実践してきたかを振り返ることにしました。わたしも皆さんと一緒に考えます。参考にしてください。

<機関紙『大阪児言研』・No.1(1971.4)>

 文学作品で、「何を・どう」教えるか~『はだかの王様』を素材にして~
林田 哲治
一、文学作品を与える意味
 究極的には「人間の変革」を願うものであるが、その内容は次のように考えている。
A,文学を味わう側面から
 (1)人生の深い意味を知る。
 「はだかの王様」の例で言えば、外見だけの飾りにうき身をやつす王様の生き方、権力機構に組み込まれている人間の姿などから。他の作品(「ベロ出しチョンマ」「おらたちにゃ口はねえだに」など)と比べながら、人間はどちらの側に立って考え、生きるべきかに気づく。
 (2)自然・社会・人間についての認識を深める。
 「おらたちにゃ口はねえだに」で言えば、ほうけんしゃかいの圧政下にある農村とそこに生きる人間の意識や行動など。そこから、作品世界と現実との対比によって、現実を知る。
 (3)生活を豊かにする。
 堅苦しいことを考えずに読むことだってあってよい。良い作品であれば、知らぬうちに
(1)(2)を深めてくれる。
B,文学を知るという側面から
 (1)作品の味わい方を知る
 作品を楽しく・深く読むために、表象化や関係づけ、同化・異化、深い意味のとらえ方を
 身につける。
 (2)文学を成り立たせているものについて知る。
 小学校では、読みの学習の中で、テーマ・構成・視点・虚構などの初歩的な知識が身につくようにする(とりたてて扱うのではない)。
 (3)文学史・作家についての知識の蓄積。
 扱った作品を中心に、同じ作家の作品や同じようなテーマの他の作品を読んだりする中で、
 作品や作家についての知識を蓄積していく。
二、どんな教材を与えるか
 (1)感動のある作品。
 人生の意味や自然・社会についての認識を教えるといっても、理科や社会科的にではない。
 そういうことを考えざるをえないところへ読み手を引きずりこむ力を持った作品(それが感動を生み出す原動力だと考える)を与えたい。教訓的な作品、観念が先行している作品は、深い感動を与えない。
(2)考えさせる作品。
 (1)にかなう作品は、また深く考えさせる要素を多分にもっている。文学では(特に、子どもには)豊かな形象を通して考えさせる作品でなくてはならない。文学における認識
 トは、形象を通しての認識が中心である。教科書にあるような、心がけや生き方を押しつけてくる(状況や細かい形象を切り捨てた)作品は失格。
 (3)痛快に笑える作品。
 「はだかの王様」はここに属する。しかめっつらをして読むのでなく、二人の男・見えない着物を軸にくりひろげられる人間模様のおもしろさを十分楽しむべきである。もちろん、
 その中から、かんたんに笑い飛ばせないものを拾い上げることが必要であるのは言うまでもない。
 (以下、省略)

質疑・討論からの抜粋
◎文学を読んで、「自然・社会・人間についての理解を深める」というが、それらは並列的なものか? 文学は人間が中心ではないのか。
―人間が中心であるが、それに関わって述べられる社会や自然の状況も当然読みの対象にしなければならない。
◎教科書でなく矢崎訳(新潮文庫)を扱った理由は何か。原作に忠実であれば良いということにはなるまい。
―矢崎訳は、用語がわかりやすく、言いまわしも平易で、文章にリズムがある。
 岩波文庫・同少年文庫、角川文庫、世界少年少女文学全集も検討したが、上記の理由で
矢崎訳(新潮文庫)を選んだ。原作に忠実な訳という理由だけで取り上げたのではない。
なお、教科書教材は、必要な形象を省いたり、不必要な説明を加えたり、訳のコトバも作品世界・その時代を適切に表していない。教科書教材では、はじめに述べたねらいが達成できない、と考えた。
◎『はぐるま』(第3集)の訳文をめぐって。(訳文を検討する中で)
 ―「これは、これは!つみのない子どもの言うことだよ」(父親のことば)(「はぐるま」)
 「こりゃ驚いた、おまえさん、無邪気なものの言葉を聞いてやってくれ」(岩波文庫)
 「ねえ、おまえさん、罪のない子どもの言うことを聞いてやってくれ」(岩波少年文庫)
 「ごしょうだ!つみのないものの言うことをきいておくれ」(世界児童文学全集)
 どれも訳者は大畑末吉。同じ訳者でこれほど違いがある。訳が忠実かどうかとは別の観点から考えなければならない。
 ◎この父親を、単に子どもにとっての父とみるのか、町の人たち・民衆の一員と考えるか、
 アンデルセンはどう考えていたのだろう。この作品が書かれた当時は、市民階級が力を示し始め、絶対王政がゆらぎかけていた。アンデルセンは、そのことをはっきりと捉えて、作品に描いている。作品世界を見通すとき、この父親は市民の一員として描かれていると読むのが自然だ。子どもをかばう父親像では、作品世界にそぐわない。
 ◎この後のところは、「とうとうしまいには、町じゅうの人たちがひとりのこらずこうさけびました。」とあるのでしょう。子どものことばがすぐに広がる素地というか、民衆の中にそのような感情があったわけで、子どものことばをいそいで抑えにかかる父親というのはふさわしくない。
 ◎「はぐるま」の訳が、もし“民衆とは一人では無力なものだ。大勢になると・団結すると
 強い力を発揮する“という発想からきているとすれば、少し図式すぎるし、作品成立の時代から考えて、無理があるのではないか。
 ◎当時の町の人たち一人ひとりというのは、「はぐるま」に描かれている父親と同じような考え方をしていたのではないか。そのことをはっきり示すためには、「はぐるま」の訳がよいのでは。

□ 文学作品を読むことによって、自分の周りの状況を新しく組み換える目=「文学の目」を身につけることが大事だ、という発言があった。

機関誌『大阪児言研』から(2)
<『大阪児言研』No.2(1971.5)>
 「ねずみじょうど」(瀬田貞二再話)の実践報告:吹田市立古江台小学校グループ・森田キヨミ
Ⅰ、作品について
 「民話は、日本の民衆が長い暮らしの中から生み出し、共通の願いを語りこめ、口伝えに語りついできた文芸である」(大川悦生)。この共通の願いとは、孫子の代にはこうなってほしい、これだけは忘れないでほしい、という民衆の夢や希望や、貧しく苦しい生活の中でつちかわれた教訓などである。
 同名の他作品と比べて、瀬田の再話を選んだ理由は、結末で隣のじいさんがもぐらになってしまうという厳しさがあり、これが当時の民衆や語り手の気持ちであったと思われるからである。
検討した作品 
与田純一「おむすび ころりん」(偕成社)
岩崎京子「おむすび ころりん」(盛光社)
柳田國男編『日本の昔話』の「ねずみの浄土」(角川書店)
東京書籍(1年上)「おむすび ころりん」
民衆が生きていくのに必要なもの(もちやこがね、これを手に入れることは、民衆の夢や希望でもあった)をどのようにして手に入れたか、そのことが対比とくりかえしの構造の中で描かれている。
 最初のじいさんは、ころげていったたった一つのそばもち(貧しさと愛情の集約されたもの)を必死で追いかけていった。その結果、思わぬ幸運をつかむ。隣のじいさんは初めのじいさんと同じ幸運を得るために行動するのだが、結果を急いだばかりに、猫の鳴きまねをして鼠の浄土をこわしてしまう。その結果、もぐらになってしまった。
このちがいは、何がもたらしたのか。隣のじいさんを悪い人だと言えるのだろうか。こがねを得たいという欲そのものは悪でも善でもあるまい。最初のじいさんが幸運を得る過程は、あまりにも「たなぼた式」すぎるのではないか。柳田國男編「ねずみの浄土」のおばあさんの方が行動的である。最初のじいさんより、隣のじいさんの方のイメージが鮮明である。

Ⅱ、民話で何を与えるのか
(質問)民話を授業でやりたいと考えた理由は?
――話の構造がはっきりしているので、わかりやすい。具体的には、人物像やストーリーが単純明解であること。もう一つは、民話を語りついできた民衆の願いみたいなものをわかってくれたらな、という教師の願いがあって、民話をとりあげた。
(質問)岩崎再話の方が、文の構造が単純で、リズムがあり、わかりやすいのではないか。瀬田作品には、じいさんたちが貧しいとはっきり書いてあるので、そのことも瀬田作品をとった理由だということだったが、この作品はしんどいし、むずかしい。また、他の作品に比べて現代的だと思うのだが、いったい、子どもたちに何を与えたいと考えて、瀬田作品をとりあげたのか。
――たしかに、岩崎作品はわかりやすいし、おもしろいが、読み終わって「ああ、おもしろかった」だけでおしまいになりそうな気がしたので、採らなかった。2年生の子どもにどれだけ理解できるか疑問だが、やはり、農民社会の貧しさ、厳しさがきちんと描かれている作品を与えたい。そうでないと、民衆の願いがわかってもらえないと思う。なお、柳田作品は、瀬田作品に決めたあとで見つけたのだが、主人公が人間くさく、能動的に描かれているので、おもしろいと思う。東京書籍のは、二番目のじいさんが登場せず、対比のおもしろさやくりかえしのおもしろさがない。
(質問)欲ばったり、悪いことをしてはいけませんよ、といった教訓話としてうけとられないか。
――民話の中には、教訓としての内容が含まれているものも多いが、この作品であれば、読んでいく過程をきちんとおさえていくと、単なる教訓話として受け取られることはないと思う。

●残された問題・今後の課題
①民話とは何か。わたしたちは民話をどう理解するのか。
②今日、民話を子どもたちに与える意義はどこにあるか。子どもたちに何を受け取らせたいのか。
③どういう民話を与えたいのか。
 瀬田作品と他の作品とを比較・検討するなかで、これらの問題は少しずつ話し合われたわけだが、共通理解するところまでにはいたっていない。これらの問題を正面にすえて話し合うことが必要だろう、いうことで、今後の課題として残された。
Ⅲ、「主題」を子どもたちにとらえさせることをめぐって
 「主題」たとえ夢や希望がかなう世界でも、よこしまな心の者には地獄にも等しくなる。
A,作品の構造図のようなものを出した後で、「主題」として一文にまとめたものを出すのは危険だ。<文体>(思想性×形象性)として作品を検討することが忘れられるし、こういう形で「主題」をとらえると、どうしても授業の最後に、このことがわかったかどうか、子どもたちに発表させて確かめたくなるだろうから。
――たしかに危険はあるが、「主題」について考えることは大事なので、今の発言は問題提起として受け取りたい。ただ、この「主題」では、結末を「善悪」でおさえるようになるのではないか。
B,結末の、隣のじいさんがもぐらになったことだけを取り上げるのではまずい。そこに至る過程をどう理解させるのかということの方が大事なことだ。
C,過程が大事だというのはよいとして、子どもたちが、それをどこまで読み取ってくれるだろう。「このじいさんは、何も悪いことはしていないのに」という不満が残るのではないか。ねずみ浄土を破壊することの意味が子どもたちにわかるだろうか。こがねをほしいと思うことは、貧乏なじいさんにとっては当然のことだ、というようにおさえるとしたら、なおのこと、子どもたちが納得しないのではないか。そのことと関連して、作者が、隣のじいさんを「めくされじいさん」として登場させていること、これも問題にすべきだ。
D,この再話は、現代的な解釈が強いと思う。内容がむずかしい。絵もそうだ。ねずみ浄土の破壊→人間がもぐらになる、というところもだが、他にもある。そして、この内容が読み取れないと、単なる教訓話として読まれる危険性が強い。2年生に与える自信がない。(以下省略)

機関誌『大阪児言研』から(3)
<『大阪児言研』No.3(1971.6)>
 中国の民話「王さまと九人のきょうだい」(君島久子訳)の実践報告:中学年グループ・若狭節子
Ⅰ、作品について
 この物語は、中国の少数民族であるイ族の間に伝えられている話で、顔かたちのそっくりな九人の兄弟が、次つぎに策略をめぐらす王に対して、知恵と勇気でたちむかい、最後には、王も宮殿もなにもかも大川の水の中に押し流してしまう痛快な民話である。
日本の民話にないダイナミックで奇想天外な物語である。
 重い柱を楽々となおし、大めしを食う兄弟に、王が自分の地位をねらわれるのではないか恐怖を感じ、兄弟をやっつけようとする事件の発端から、子どもたちは作品世界にぐいぐい引き込まれ、次つぎに転換する場面にどうなるのだろうと予想をたてながら読みすすめるであろう。
 表現の面からいうと、
○くりかえしの中で、少しずつ変化があり、読めば読むほどおもしろくなる。
○表象化しやすい表現で、子どもたちが読み取りやすい。
民話としてみた場合の特徴
(質問)異民族支配の中で育った民話であるということが、表現よりうかがえるか。
○都と農村との対立
 ○みずくぐりが「<なにもかも>吹きとばした」というところに、被支配者(村人たち)の願いがこめられている。
(質問)「シナの五人きょうだい」と比較して、どうちがうか。
○結論からいうと、「王さまと九人のきょうだい」の方がすぐれていると思う。
  「シナの五人きょうだい」の方は、アメリカ人の再話(?)ということもあって、楽しいお話という要素が強く、民話として納得できない点がある。たとえば、きょうだいの生まれ方、挿絵の描き方、シナという用語など(他にもあるが)。
(質問)民話である、と考えられる条件はなにか。
○話の内容がそうだ。王のしうちになんとか対処してきたが、ついに耐え切れず怒りが爆発して、王も宮殿も何もかも大川の水に流してしまう。「この日から イ族の人々は、王さまからひどいしうちをうけることもなく、楽しく、平和にくらしたということです。」という結末に、被支配者の願望がこめられている。
○話の運びのパターンから類推される。
о九人きょうだいの誕生のしかた。
о時や所を明らかにしない。
о筋立てが単純である。
о心理描写が少なく、行動で表現する。
оくりかえしがある。
оハッピーエンドに終わる。
  などなど。

  先月の課題を受けて、<民話>という観点から話の内容をしぼったのだが、お互いの勉強不足と時間切れで、問題は深まらなかった。民話についての学習を深めることと、民話を教える意義については、今後研究を続けることが確認された。
なお、「本作品のようなダイナミックな民話は日本にはない」という意見に対しては、必ずしも
そうは言い切れない、ということで、作品を探すことになった。

Ⅱ、教材化のねらい
 ◎いろいろな策略をもちいる王に対して、九人のきょうだいが相談して立ち向かっていくさまを読み取らせる。
 ①王さまの表象化(王の権力欲→冷静な計画→失敗してあせる、手段を選ばない)
 ②九人のきょうだいの表象化(愉快な名前→得意の技→王を押し流す)
 ③場面の移り変わりをもとにして、王と九人のきょうだいを対比させる。

(質問)名前が先に出てくるし、九人ものくりかえしがあって、子どもは飽きないか。
 ○子どもはちっとも飽きない。積極的にくらいついてくる。予想を立てることも楽しみの一つ。
 ○行動的な話なので、関心が外に向きつつある子どもには適している。
 △高学年に読み聞かせをしたら、またかというので、だれてきた。
 ○高学年では、単純な繰り返しだと飽きるということがあるかもしれないが、問題は「読み聞かせ」という手法にあったのではないか。決して単なる繰り返しにはなっていない。細かく表現を押さえていけば、だれることはないと思う。
 △兄弟の名前の提出順は、変えたほうが、予想させるのにはよいのではないか。
(「Ⅲ、指導計画と授業記録」以下は省略する。)

参考文献
 『文学教育』No.2(鳩の森書房)
 『白いりゅう 黒いりゅう』(岩波書店)
 『シナの五人きょうだい』(福音館)
民話についての本
 『桃太郎の誕生』柳田國男(角川文庫)
 『演劇の伝統と民話』木下順二(未来社)
 『日本の民話』木下順二編(毎日新聞社)
 『民話の発見』民話の会編(大月書店)
 『民話と教育』西郷竹彦編(明治図書)
 『民話と子ども』岩沢文雄編(鳩の森書房)

機関誌『大阪児言研』から(4)
<『大阪児言研』No.4(1971.7)>
「最後の授業」をめぐって、分析と報告:林田哲治・丸山正昭

Ⅰ、報告1:林田哲治
1、 出典は『月曜物語』
ドーデーが1873年に刊行した短編集。71~73年、パリのレヴェンヌマン紙及びル・ソワール紙に掲載。
(プロシア軍によるアルザス占領が1870年だから、とてもホットな作品)
2、 作者Alphonse・Daudet(1840~97)は南フランスの古都ニースで生まれ、若い時パリに出る。(略)。普仏戦争が始まると国民兵に志願し、悲惨な戦争を体験、続いてパリ篭城に。内乱に辛苦をなめた。民族的な愛国心は非常に強い人だが、コミューンについては批判的であった。
3、 作品の背景は省略。
4、 作品・訳文
よい作品に属すると思うが、6年生にとってはむずかしい語句が多い。
戦前は国粋主義礼賛の文学として高く評価され、戦後は「国語への愛護」「愛国心を育てる」教材として、小学校5年生から高校まで教科書に採用されている。
 これまでは、鈴木三重吉訳が多く用いられていたらしいが、46年度版では、桜田佐訳に基づいたものが多くなった(学書・光村)。
桜田訳(岩波文庫)は、語句の抵抗が一番大きい訳だが、表現に力強さがあり、フランス語による最後の授業という緊迫した場面にふさわしい表現と思われる(しかし、完璧な訳とは言えない)。
Ⅱ、報告2:丸山正昭
1、 教材のねらい
○戦争に敗れて、母国語が使用できなくなるという屈辱的な状況を読み取らせることにより、戦争のもつ非人間的な側面と支配と被支配という不合理な面を読み取る。
(注:討論をふまえて、内容が少し変えられた。新開)
○アメル先生の「最後の授業」によって変わっていくフランツを読み取らせる。
2、授業計画(略)。
3、授業報告(略)。
4、留意すること
 ○ねらいを母国愛・祖国愛に簡単に結び付けないこと。表現を細かく分析・総合しなければ、徳目主義の読みに陥りやすい。
 ○フランツの表象化を正確に行うこと。
 ○「最後の授業」を受けて、フランツがあまりにあっさりと後悔してしまう事に不自然さが目立つ。
 ○教科書の文章は訳文(桜田)どおりでなく、書き換えと省略があり、一貫性にかける文章になっている。
   (注:当時の教科書作品には、上記のような「書き換えと省略」がよくあった!)

5、 話し合い
◎報告された<ねらい>について、かなり多くの異論が出され、報告者と議論されたが、「異民族に支配されても母国語を保っていく意義」は、作品の中からは読み取れないという意見に傾いていった。そのことと関わって、
○教材のねらいは作品から読み取れるものであること。教材化の視点として指導書のねらいがあるのは当然だが、子どもたちに読み取れないのに、それを強く押し出すのは疑問だ。教材は、単なる手段ではない。
○フランツは真に変わったと読み取れるか。(賛否両論あり)
○アメル先生の話(「 」のない部分)の内容は具体的に描かれていない。たとえば、母国語が使えなくなる状況など想像させるだけなので、作品として弱いのではないか。子どもたちにはわからない。
○母国語が使えなくなる状況は、単に物語りとしてだけ読ませるのでなく、日本語がもし使えなくなったらと、自分たちの問題として考えさせたい。
○日本が朝鮮を植民地として支配したときの国語政策など、話してやるのがよい。
○この作品だけで母国語について考えさせるのは無理だ。たとえば、『ザメンホフ伝』(岩波新書)や「キュリー夫人伝」の中から関係ある部分をプリントして、あらかじめ指導するなどしておけば理解の程度がちがってくる。
○作者が直接顔を見せている箇所があちこちにある。作品が書かれた時と発表紙を考えると、それも分からないわけではないが、注意して扱わないと子どもが混乱する。表象化する所、心情を追う所、論理をはっきりさせる所、
つきはなして見て、読み手の反応を省みる所など、教師ははっきりさせておくこと。

Ⅲ、林田哲治さんの投稿から
8月に名古屋児言研でも「最後の授業」が取り上げられた。大阪からも参加し、教材分析と実践報告について活発な意見交換がなされた。以下に、考えさせられ、思ったことを書きます。
1、 作品のテーマについて
この作品ほどいろいろなテーマが引き出されている短編は少ないでしょう。
① 国語(母国語)に対する愛憎。
② 大切なことを明日にのばす不幸。
③ 母国語は民族を奴隷状態から抜け出させるカギである。
④ 母国語を奪われた人々の怒りと悲しみ。
⑤ フランツの意識の変革。
⑥ アメル先生の熱烈な愛国心。
端的に言って、この作品はド-デーの愛国心・ヒューマニズムの発露である、と言えます。それがこの作品の魅力のもとであり、限界でもあるのです。同じ作品からこのように多様なテーマが引き出されるということは、一つには、作品は作者の手を放れた瞬間から独立した存在となって読み手にゆだねられること、また、「読み」とは作品が内包しているもの(作者の意図とは無関係に)と読み手とのかかわりにおいて成り立つものであり、読み手が意味を発見していくものだから、と言えます。
しかし、①や⑥を強調したい人は,③に関する部分をカットした教材をもってくることが多いようです。(教科書教材にはそれが多かった。)
名古屋集会では②を重視する意見がありました。これは大阪の支持する⑤に近いように見えますが、大阪の考える⑤の内容は,④に深くかかわったもので、私としてはむしろ④を最大のテーマにしたいと思っています。 「ああ、ひどい人達だ。」「今にはとまでドイツ語で鳴かなければならないのじゃないかしら」と考えるフランツ。
正装で教室にのぞみ、フランス語についての自覚や母国語を保つ意義について語り、習字の手本には「アルアス・フランス」を用意し、最後に「フランスばんざい。」と叫ぶアメル先生。最後の授業に参加する村人。フランス語を教えない学校に敵意を燃やすワシュテル。これらの群像は、プロシアがアルザスの住民から母国語を奪い去る行為を鋭く告発していると思います。他国の侵略を受けた民族がどのような状況におかれるか、またその裏返しとして、侵略者はどのような罪悪を犯すのかということを、“軍国主義化”の進む現在だから、子どもたちに与えたいと思います。
2、 作品の弱点の克服について
この作品は非常に民族主義的な色彩の濃いものです。そのため、過去に実践した人は、いろいろ工夫をしています。たとえば、
○厚木基地周辺の農村の写真を見せたり、
○日本の朝鮮侵略の話を聞かせたり、
○キュリー夫人の伝記を話して聞かせたりして、
侵略行為の犯罪性について、事前に子どもたちに認識させています。このことを通して、単にプロシアが悪いという認識にとどまることなく、他国や他民族を支配することの不当さに気づかせようと務めているのです。
 この作品のもう一つの欠点は、後半の叙述の仕方です。アメル先生が前面に出すぎていること。このため③のテーマが形象によってでなく、アメル先生の話の中で概念的に提示されるだけなので、子どもにとっては理解しにくくなっています。このことをわからせるには、かつて日本が朝鮮に対してとった政策(特に国語政策)を話して聞かせることが有効でしょう。丸山さんがやったように、「もし明日からこの教室で日本語が使えなくなったら」という仮想のもとで子どもに考えさせる手もあります。
 フランツの先生に対する見方も気になります。「かわいそうに」「気のどくな先生」・・・と、自分と切り離してアメル先生を見ています。読み手がフランツの視点に同化してしまうのでなく、一歩はなれて作品世界を眺めるようにさせたいと思います。(この作品を肯定する立場で書きました。意見を聞かせてください。)

機関誌『大阪児言研』から(5)
<『大阪児言研』No.6(1972.5)>
読みの「基本過程」「基本作業」について。林田哲治

春の合宿で、これまでから問題があるのではないかと言われてきた「基本作業」の内容について話し合い、いちおう次のようにまとめることができた。以下、私が提案し、当日の参加者の意見も取り入れて、いちおうの結論をみた「基本作業」についての考えを述べる。

Ⅰ、「基本過程」と「基本作業」の用語の使い分け
『一読総合法入門』(明治図書)では、読みの「基本作業」として、次のことを並列的に並べられている。
○立ち止まり
○関係づけ
○書き込み・書き出し
○話し合い
○くわしい話しかえ
○感想・意見・批判
○段落・文段まとめ
○最後のまとめ
しかし、これでは次元の違うものが一つにくくられてしまっていて、誤解されやすい。これらのうち「立ち止まり」「話し合い」「書き込み・書き出し」は、その他の作業と区別しなければならない性質のものである。つまり、上記三つはその他のものを包摂する関係にある、と考えられる。したがって、これらに「表現読み」を加えた四つの項を別に取り出して「読みの基本過程」と呼ぶことにした。

読みの「基本過程」
①立ち止まり
②ひとり読み
③話し合い
④表現読み
そして、これ以外の、「ひとり読み」の過程で読み手が行う作業だけを「基本作業」と呼ぶことにした。

Ⅱ、「基本作業」の内容
 まず、項目だけを列記する。
①表現読み
②表象化(主として文学作品)具体化(主として説明文)
③概念化(主として文学作品)一般化(主として説明文)
④感想・意見だし
⑤関係づけ
⑥予想・見通し
⑦まとめ・プラン
⑧その他(疑問・コソアド・表現など)

この中で問題のありそうなのは、②表象化・具体化、である。
これまでこの作業は「くわしい話かえ」として行われてきたのだが、これを授業の軸にすえることにはあまり賛成できない。文学作品では、いわゆる「表象べったり」になるおそれがあるし、説明文では、「つまりこういうことです」という解読的読みにおわる危険がある。したがって、表象化や具体化は、それをしなければならない箇所、有効な手立てなどを十分考えなければならない。
③概念化・一般化は、②表象化・具体化と対応するものである。『一読総合法入門』や『一読総合法・読みの指導』(大明堂)には、一般化・抽象化とあるが、表象化に対応するのは概念化(益子さんの言)の方が内容的にぴったりすると思うし、具体化に対応するのは一般化(基礎理論・その3)でなければならないと思う。

⑤関係づけは、記号を与えるものとしては二つにしぼった。
一つは、文学作品の中で、前に描かれていた人物の心理・行動、その背景などと、現在読んでいる部分とを関係づける作業である。
説明文では、前に説明されていた事柄と今読んでいる部分とを関係づける作業である。
二つは、読み手がもっている知識や体験を教材と関係づけて発表する(書く)ことである。これは、文学作品・説明文ともに共通の作業である。

⑦まとめ・プランには、小見出しつけ・段落ごとのまとめ・プラン(表)づくり・副題づけ、などがある。しかし、どの作業が有効であるかはまだ研究の余地がある。
 それにもう一つ、この段階で有効なのは、感想文を書いて話し合うことである。書きっぱなし、言いっぱなしで終わるよりも、テーマを一定方向にしぼって(話題を限定することではない)話し合いを組織すべきであろう。(それに基づいてもう一度書き直すことも有効であるし、作品全体を見直すことも必要である。)
 ここで触れておきたいことは、作品を読み終わったあとの発展段階である。これは、その内容からすれば「基本過程」に位置づけるべきものだと思うが、合宿ではあいまいなままで、討議されなかった。たとえば、その作品(文学)によって新しく見開かされた目で、自己や自己をとりまく状況を見つめなおして作文に書くこと、他の作品(同じようなテーマのものや同じ作家のもの)を読み比べることなどが考えられる。
 最後に、子どもたちに与える記号であるが、次のようなものが考えられる。なお、記号を多く与えれば読みの力がつくというものではない。学級の子どもの実態や教材に合わせて、教師が有効なものを選ぶようにしなければならない。
○表象化=(く)くわしく話すこと。(テ)頭のテレビに映ったこと。(き)(人物の)気持ちになって。
○概念化=(わ)わかったこと。
○感想・意見=(お)思ったこと。
○関係づけ=(か)関係づけたこと。(し)知っていること。
○予想・見通し=(よ)予想。
○まとめ・プラン=(ま)まとめ。(小)小見出し。
○具体化・一般化=説明文の作業の記号はまだ定まっていない。当分は○わと○おで代用したい。

[注](編集者)
「基本作業」を実際に活かす場は「話し合い」であるが、これについては合宿や4月例会である程度触れたので省略する。
◎「基本過程」・「基本作業」の内容について、つっこんだ・きめこまかい議論が展開されることを期待します。投稿大歓迎!!

<一読総合法は単なる技術ではない>
総合読みは、「読みの一技術」として扱われるようなものではない。子どもをどうとらえ、認識という働きをどう理解し、言語をどう考えるか、ということと深く関わっている。
それはまた、学級経営のあり方とも深いかかわりがある。一人ひとりの子どもを大切にし、子どもたち同士の仲間意識を大切にする。子どもと教師が、子ども(学級)集団を抜きにして、個人的につながり、子どもが教師の意のままに動くような学級体制では、一読総合読みは成功しない。自立した、主体的に考え、行動する個人の集まりとしての学級集団であってこそ、教師も自由に発言し得るし、子どもたちも教師から学ぶことができる。一人一人が自己とかかわって言葉を捉える姿勢を前提とする方法である。
(4月例会で、「技術以前のこと」と題して話したことから再掲。新開)

『国語の授業』は児言研の自費出版です。
一人一冊以上、責任をもって売ろう!!!!!


機関誌『大阪児言研』から(6)
<機関誌『大阪児言研』No.7(1972.9)>
後期活動方針について
常任委員会では、8月下旬と9月上旬の2回にわたって会合をもち、関西集会、夏季アカデミー、
名古屋集会の報告と反省、および2学期以後の活動方針を協議しました。次に、協議結果の大要を報告します。
Ⅰ、会合・部会と研究内容
1、例会
「表象形成をどう考え、どう実践したか」をテーマに、隔月に開く。
2、地域集会
例会を開かない月を利用して、基礎的・入門的な学習会をすすめる。例会に報告するための研究を
することもある。
3、理論研究部会
「文学とは何か」「文学と想像力」について、(月1回)学習する。
4、言語部会
「文法部会」を解散し、文字・語彙・文法について、研究を進める。
5、中高部会
中学・高校のメムバーで組織し、独自のテーマをもって研究をすすめる。(さしあたっては、
「表象形成」について深める。)
6、常任委員会
常任委員の任期は1年なので、4月に決定したメンバーで構成する。
会合は、学期に1回以上もち、会の運営・研究内容について協議する。
[事務局] 林田哲治。林田鈴枝(会計)。新開 惟展(機関紙)。
[部会責任者](理論)鷹野。(言語)凪。
(小低)長谷川、原田。(小中)丸山、若狭。(小高)高畠、凪。(中・高))広瀬、鷹野。
Ⅱ、参加資格
 ○例会・地域集会・学年別部会は、誰でも参加できる。
 ○理論研究部会・言語部会は、会員に限る。

Ⅲ、今後の会合とその内容
[例会]
10月28日(土)大阪府教育会館 
「低学年における表象形成」レポーター:東大阪グループ、教材「いっすんぼうし」
12月2日(土)大阪府教育会館 
「中学年における表象形成」レポーター:豊中・吹田グループ
2月10日(土)大阪府教育会館
「高学年における表象形成」レポーター:大阪市グループ
[理論研究部会]
10月28日(土)大阪府教育会館 
「ことばとイマジネーション」参考文献:熊谷孝『文体づくりの国語教育』
(以下 日程のみにて、内容は未定)
[言語部会]
10月14日(土)宝栄小学校
「児言研文法体系の学習」レポーター:小池、広瀬。
11月6日(月)
「教科書文法教材の批判」レポーター:凪、高畠。 「文法教育の必要性」レポーター:和辻、広瀬。
11月20日(月)
「音韻・語彙の指導体系」レポーター:丸山、吉見。
12月 実践報告:小池  1月 実践報告:凪 2月 実践報告:中学校
[春の合宿研究会]
4月3、4日(火、水)
①「谷間」(チェーホフ)における表象形成の実践報告:広瀬、鷹野。
②「かな文字・漢字の指導」レポーター:新開、林田。
③「文法指導」の実践報告:言語部会
④1973年度の活動方針の協議

<例会のテーマについて>
「表象形成」をとりあげた理由は、文学の読みにおいて、どのような表象を形成させるかが
読みの内容を大きく左右する、と考えられるからである。表象を形成するということを、単に、
頭の中に絵を描くということだけにとどめてはならない。
もっと立体的に、また時間的にとらえなくてはならない。
例会では、理論的な討議と、それにそっての実践の検討を期待する。

<はじめに>
夏のアカデミーで聞いたことなのですが、こちらの理解力を超えていることが多く、その上、早く話されるので、メモが十分とれていません。それで、とんでもないまちがいがあるかもしれないので、そのつもりで読んでください。(提案のほんの一部です。)

[参考文献]
竹内泰宏著『想像的空間』(せりか書房)
太田正夫著『想像力と文学教育』(三省堂)
渡辺広士著『文学の問い』(筑摩書房)
大江健三郎著『核時代の想像力』(新潮社)
M・ブランショ著『文学的空間』
ロランバルト著『0度の文学』(みすず書房)
メルロポンティ著『眼と精神』
バシュラールの著作物
(どれもむずかしくて、高い本ですが、おそれないで、買って読みましょう)(新開)

わたしたちは、19世紀的な作品を読むのと同じ構えで、現代文学を読み、また、子どもたちに授業していないだろうか。段落に分けて読むとはどういうことなのか。一読総合法は、解剖学的な部分理解に終わっていないだろうか。通読してはなぜいけないのか。通読を支える理論を、一読総合法は論破し得るのか。(あなたは答えられますか。)
文学のことばと日常のことばが同じであるならば、児言研の言語観、文学観で支障はないだろう。しかし、「文学のことば」が独自のものであるならば、文学の描き方が独特のものであるならば、語→←文→←文章といった文章観では、文学を文学として読み取れるのだろうか。足りないものがあるのではないか。一読総合法では、どのような作品を扱っても、みな同じパターンになるとすれば、文章論はあっても文学論が弱いことが原因ではないか。

文学は全体としての形象だ。作品世界は全体だ。とすれば、部分とは何か。部分は常に全体を志向し、全体を担なっている。部分とは文体だ。部分とはイメージだ。部分とは段落ではない。イメージ世界は段落と一致するとは限らない。「立ち止まり」は、イメージの世界と一致するように決めるべきだ。イメージはことばより広い。イメージは、ことばで定着させることによって、変形させられる。イメージを操作するのは、サルトルの言う「~についての意識」(想像する意識=想像力)であるが、これはことばを媒介とする。想像力は何を志向しているか。そこには、価値観がかかわっている。同じことばを媒介しても、同じイメージが定着するわけではない。
 
 文学の読み、それは「読み方」(作品研究)ではない。もちろん「読解」ではさらさらない。それはイメージを形成し、その中で肉感的に感じ取る過程にこそ、独自の側面をもっている。通読という作業は、読み手のイメージをどうしてもある枠の中にとじこめてしまう働きをもつ。どれだけ豊かに想像的に描いたとしても、全体を一度読み終えた以上、その枠からはみ出すことはもうできなくなる。それでよいのか。その場面で、精一杯、切実に、主体的に、想像的に、作品を超え、枠をはみ出すようなイメージを描くことこそ大事なのではないか。書き手が描いたイメージをそのとおりに追体験する(本来そんなことは不可能だが)という構えを強制することはない。その場面では、そこまでの知識・資料にもとづいてイメージを精一杯ふくらませる、読みすすむに従って、それまでのイメージをさらに精細に、さらに豊かに、時には訂正しながら、組み替えていく、そのことこそが文学の独自性に迫る読みではないか。作品全体を読んだ後、その枠内でいかに正確にイメージを描くかといった読みでは、文学を読むことの大切ななかみが抜け落ちてしまうと思われるのだ。それは、イメージがもつ特質とかかわっているし、文学の読みの独自性は、このイメージをどう形成させるかということに大きくかかわっているからだ。文学の読みにおいては、想像力の解放をこそ中心にすえるべきではないか。想像力の解放を強調し、イメージ形成力を重視するのは、イメージ(作用)に次のような内容を認めるからである。
○直感性・具体性= 生き生きと、ありありとした像。その像の形成には
○志向性が働く。そこには価値観が作用し、思考が参加し、要求がからみ、時間的・空間的に広げられ
○全体性をも志向する。それはまた
○同時性をも備えている。
○解放性・変容性・否定性:基本的なイメージからわれわれを解放し、現実否定・現実の変容を可能ならしめる。
○主体性・行動性:外的条件にとらわれないで完全に主体的に行動し得る。
○共感性・転位性:他者の立場の理解、そして、非現実(想像界)の中に現実を見ることができる
○現実性をも所有している。
 このようなものとして、イメージ作用を非常に重要視するが故に、文学の読みを重視するのである。そして、将来イメージ形成の体系を作りあげ、それをめがけての段階指導を可能ならしめる「文学のことば」の指導を、われわれは志向していかなければなるまい。

「想像力を発揮しない人間にとっては、小説が絵空事であるのと同じように、現実もまた絵空事です。」(大江健三郎)

機関誌『大阪児言研』から(7)

<『大阪児言研』No.9(1973.8)>

高校における表象形成 ~チェーホフ作『谷間』の実践~
岸和田高校グループ・小牧美智子

<はじめに>
春の宿泊研究会に、表題のテーマについての資料として提供されたもの。
―― 2年生の授業をとおして出てきた問題点――

Ⅰ、実践報告
(1)教材設定の理由
イ)主題のはっきりした、理論が先行するような作品は避けたかった。この作品は、読むことによってイメージをつくりあげていくという体験をさせるには、おあつらえむきである。
ロ)19世紀ロシアの谷間にある村を舞台に、登場人物(農民、没落中産階級、資本家、新興資本家、僧侶など)が生き生きと、公平に描かれている。
ハ)未来につながる明るさをもった人物(日雇い女リーパ、請負大工エリザーロフ)の生き方をとおして、労働の意味・意義や、いかに生きるかを考えていきたい。
(2)授業    1~9章を、一章ずつ、生徒のグループで担当させた。グループで読み合わせする段階で、イメージ化を中心にすえて、人物像をとらえ、各自の意見・感想・疑問を出し合った結果をまとめ、授業時間に発表し、クラスで話し合った。
<生徒の作業>
○話し合いに参加する。
○各章ごとに学習ノートを作成する。ノートの項目は、①わかったこと・分からなかったこと。②感じたこと・考えたこと。③クラスで話し合ったこと。④章全体を読んだ感想。の4項目
○全体を読み終えてから感想文を書く。
○発表者用のノートを作成する。ノートの項目は、①発表したことに対するクラスの反応。②解決されなかった疑問点。③発表を終えての感想。の3項目。
<展 開>
1~3章までは、外国の、しかも、あまりにも現代とかけはなれた雰囲気になじめず、同化できなかった。4章になって、生徒にとって、いわば分身ともいえそうな人物が中心にすえられてくると、活発な感想の交換がみられた。しかし、信仰の問題が語られていて、抵抗もあった。5章以降になると、登場人物一人一人が深められ、イメージ化もうまくいった。しかし、イメージの持続がむずかしく、時代・社会という状況の中で人物をとらえていくのにも艱難を感じた。8章で、一老人が繰り返し語ることば「母なるロシアは広いんだ。」は、民族・歴史・風土を異にする私たちには、完全に理解することができず、ゴーリキーの『谷間について』を使って、こちらで説明してしまった。終章については、生徒のグループにすっかり任せた。
ロシア革命へと結びついていく、働く人達の生命力でまとめたグループ。各人物を描き出すことによって、働く人達に希望を託すチェーホフの励ましを読み取ったグループ。宗教的な意味での人間の救いを感じ取ったグループ。さまざまであった。
(3)授業を終えて
イ)人物形象について
私たちのそばにいる人の中に容易に見つけ出せるような人物は、予想以上に細かく、生き生
きと読み取っていた
「良心のある人間なんて一人もいない。ぼくは良心のない人間を見るとすぐわかるんだ。」と言いながら、友達にそそのかされてニセ金づくりをするアニシム。自らは常に安全な場所にいて、せっせと慈善に励むワルワーラ。彼女は悲惨な生活を強いられている農民を憐れんで施しをするが、夫のあこぎな商売に口出しはしない。彼らのようにはなりたくない。しかし、はたして自分はそうではないだろうか。そんな感想が多く出ていた。
それに反して、リーパ、アクシーニャ、エリザーロフ、は捉えにくかったようだ。特に、私たちが期待していたリーパが分かりにくかったらしく、「人間、自分に合った生き方をするのが一番幸せなのだ」という幸福論であっさりかたづけられてしまう傾向があった。読みの指導の問題もあろうが、作品に問題はなかっただろうか。リーパ、エリザーロフは十分に描けているのだろうか。19世紀末のロシアを把握しないで、時代の媒介抜きに捉えるのはむずかしかったのではないか。
そして、生徒に、作者が提示しているイメージを再創造するだけのたいけんがあっただろうか。労働体験、生活者の視点がないので、労働するということが、積極的な面においても、悲惨な面においても、理解することがむずかしかったのではないだろうか。アニシム、ワルワーラをあんなに生き生きと捉えられたのは、ちょうどこのことの裏返しではなかろうか。作者の体験と読み手の体験が合致したよい例だといえるだろう。
ロ)表象形成と歴史的・社会的状況の媒介
無媒介に読むと、リーパは天使であり、貧農の子として生まれ、商家に嫁ぎ、リーパの子どもを殺して一家の主人に、村の主人になったアクシーニャは悪魔になってしまう。かといって、あまり状況説明に力を入れすぎると、歴史の授業になってしまう。どの部分で、何を、どのように補っていくか、今後に残された課題である。
ハ)シンボリックな表現のイメージ化
人物を、心理を、作家の思想を、内容とどのようにかかわらせるか。理論的にではなく、感じるものとして捉えさせたかったのだが、うまくいかなかった。「なぜ、この場面にこの表現が?」という疑問がどんどん出されたクラスでは十分話し合われ、イメージをふくらませることができたが、ことらから質問したクラスではうまくいかなかった。グループ単位で読みあわせをしている時は、あんなに生き生きと読み進めていったのに、45名の教室ではむずかしかった。
ニ)教師集団、生徒集団の問題
グループ学習は、同時期に他教科でも実施されていて、生徒には大きな負担になっていた。また、他教科(ここでは世界史)と授業内容についての交流がまったくなく、19世紀のロシアをどの程度学習しているのか、生徒の知識・歴史観がどのようなものなのかがつかめていなかった。生徒集団については、ホームルーム活動がうまくいっているクラスとそうでないクラスの差が出ていた。自由に発言できる場が保障されているクラスでは活発な意見交換ができて、イメージをふくらませることができた。

Ⅱ、宿泊研究会で話し合われたこと
(1)人物形象について
生徒に、リーパ、エリザーロフを労働者として、働くことの意味と結びつけて考えさせるのは無理ではないか。また、そのように描かれていない。アクシーニャを、自らの運命をかえていくエネルギーあふれた人物として捉えるのも一つの読みではないか。
(2)「読み」の基本がしっかりおさえられていたか
大阪児言研でまとめられた、小学校低・中・高学年の読み(主に表象形成の分野)の基本作業(☆印)は、中高校段階でもたどっていかなければならないのではないか。小学校と異なるのは、作品と思想が加わってくるという事だけではないか。
☆印
低学年:作品べったりでもよいから、第二信号を第一信号にかえす→イメージを言語化する→他と交流する(=同化)。
中学年:登場人物の誰かになってみる→映像をうかべる→なぜそのような映像がうかんだのか意識化する(自己点検)。
高学年:象徴的な表現がわかるようになる。さまざまな立場からイメージを思いうかべる(=異化)。
(3)シンボリックな表現について
ある場面での、ある人物の心理なり、感情なりが、感覚としてわかるということがはたして望ましい読みなのか、疑問である。
(4)文学史を教える必要性
高校では、文学史をきっちり教える必要があるのではないか。一作だけで何もかもわからせることは不可能である。例えば、チェーホフを取り上げるならロシア文学史を学習して、文学史の流れの中に作品を位置づけることを考えるべきではなかったか。
Ⅲ、感想・反省
まず、もっと作品分析をしっかり、緻密にするべきであった。章単位で検討するだけでは不十分であった。一語一句問題にしていく読みを、私たちもやっておくべきであった。
それにしても、あまりに欲張りすぎた。10時間で70ページ近くの、しかも外国文学で、何もかもはできないであろう。高校2年生に、この作品が、読むべき時期の読むべき作品であっただろうか。生徒の感想の中に「確かにいろいろ考えさせられたし、読みごたえはあった。しかし、私の年で、この小説を本当に理解できたといえるだろうか。やはりむずかしすぎた。もっと楽しい、わかりやすいものを読みたかった、という気持ちが一方ではある。」というのがあった。
私たちはあまりにも性急に、いろいろなことを期待しすぎたようだ。「おとなの目で読んで、感激した」だけでは、教材化できない。3年間を見通した作品選定を、読みの基本に沿った作品を、という観点を抜きにしてはならないと思った。
(注)高校での実践をまとめていただきましたが、もとの原稿は24枚。とても載せられないので、むりをいって10枚にしてもらいました。そのため、十分に意を尽くされていない部分もあろうかと思います。もと原稿全文発表の機会を何とかしたい、と思っています。

機関誌『大阪児言研』から(8)

<『大阪児言研』No.10(1973.10)>

第1回 理論学習会
ことばの働きを考える
広 瀬 省 三
     
第1回理論学習会の発表内容そのままでなく、その後に考えたことを含めてこのレポートはまとめました。学習会に使ったテキストは、『国語教育の基礎理論』(その1)の「コトバの働きをどう考えるか」です。
私自身の言語観と原則的に一致すると考えたので、「第二信号系理論」「言語の労働起源説」の立場からこれを説明しようとしました。ここでも、まず<第二信号系>とは何かにふれ、次に<言語の労働起源説>にふれて、最後にこの二点を押さえることがなぜ必要なのかについて少しふれたいと思います。
1、ことばは信号系である。
条件反射の線上にことばを位置づけよう、というのが第二信号系理論です。パブロフが晩年(1932)にうち出したものです。彼が条件反射の説をうちたてたのが1903年ですから、条件反射学説確立以来30年にわたる研究の上に立てられた説です。
条件反射といえば、パブロフの犬を使っての実験は有名です。えさが犬の口に入ると、犬はよだれを出す。これは生まれながらに犬がもっている無条件反射です。この犬にベルの音を聞かせても犬はよだれを出しません。この場合、ベルの音という刺激は犬にとっては無関刺激です。ところが、えさを与えると同時にベルの音を聞かせることを繰り返すと、ついには、えさを与えず、ベルの音を聞かせただけで、犬はよだれをだすようになった。ここで条件反射が形成されたわけです。この場合のベルの音は、この犬にとっては、えさの信号になっているわけです。別の犬にとってはベルの音は痛みの信号として条件づけることもできます。以上は実験ですが、動物たちは、その生活の中で多数の条件反射を形成することで、身の危険や安全などの信号を察知し、それに適合する行動をとって、この地上の複雑な条件に適応して生きていっているのです。
人間ももちろん無数の条件反射を形成しながら生きているわけですが、人間の場合、他の動物と比較にならないくらいすみやかに条件反射を形成することができるし、はるかに複雑な三次四次の条件刺激に対しても、反射を形成することができます。そればかりでなく、人間は他の動物とは質的に異なる条件反射を形成することができます。ことばによる条件反射、つまり第二信号系による条件反射です。
人間は、第二信号系としての言語をもっているために、人間に最も近い類人猿とさえ比較にならないほど困難な課題をやすやすと解決できるわけです。
第二信号とは「信号」の信号ということです。たとえば「お菓子」と共にベルの音を聞かされて、ついにベルの音だけでよだれが出るという条件反射が形成された人は、ベルというコトバを聞いてもよだれが出るのです。
この場合、ベルの音は「お菓子」の信号になっているわけですが、ベルというコトバはさらに「ベルの音」の信号になっているのです。この人はベルというコトバを聞いてベルの音を思い浮かべ、頭にうかんだベルの音によって思い起こされる「お菓子」に反応してよだれを出しているかけです。
第二信号系としてのことばの特色は、まず「ベル」というコトバは特定のベルの音しか思い起こさせさないというものではなく、高い音や低い音のベル、さまざまの形のベル、あるいはベルに共通する性質を思い起こすことが可能だ、というところにあります。ことばは特定のもの・ことと一対一に結びついているのではなく、一般化・抽象化を可能にしているのです。さらに、第二信号系は、もの・ことの存在を信号するにとどまらず、ことばとことばを組み合わせることによって、もの・ことについての肯定・否定、動作、性質や、ものともの・こととことの関係などを捉え、表現することができます。
さらにまた、第一信号のような、もの・こととの一対一の結びつきから解放されているということは、実在する現実を表現するのみにとどまらず、ことばとことばの組み合わせによる言語的世界を創造することを可能にします。詩・小説などがその一例です。
第一信号であれ、第二信号であれ、信号に共通する点は「未来の先取り」という点です。第一信号が感覚の及ぶ範囲でしか未来の先取りできないのに比べ、第二信号は虚構・仮説などによってはるかに遠い未来を先取りする可能性をもっています。と同時に、大きなあやまちに陥る危険性ももっています。
明暗を分けるものは、第二信号がどのような第一信号に支持されているか、また第一信号がどのような第二信号に規制されているかにかかっていると思います。

2、労働がことばを生み、育てた。
言語の労働起源説というのは、エンゲルスが『猿が人間になるにあたっての労働の役割』(1876年執筆、1896年発表)という論文の中で述べている思想です。この思想は、それから60年ほど後に、イリンによって『人間の歴史』(1935年ごろから執筆、1940年刊行)の中でくわしく展開されました。まとめて言えば、だいたい次のようになると思います。
○人間の祖先であるサルが気候の変化により木からおりた。それまでにある程度手を足とはちがうように使うことを身につけていた私たちの祖先は、石や棒をつかむことをしだいに身につけ、しだいに足を歩くために使えるようにしてきた。石や棒という道具を武器にできるようになったこと、火を手に入れることができたこと、そして、集団的に行動できたことが、人間を強くし、森を出て川沿いの谷間に出て行くことを可能にした。そこで、人間は石に手を加えて自分で道具を作った。目的意識的な自然の改変=労働を始めた。
○集団的労働によって、より複雑でより困難な課題を解決していくことで、手の働きをますます自由なものとしてきたことは、採集から狩猟への移行による肉食とあいまって、脳をますます進化させることになった。そして、ついに集団的な熟練を要する労働(狩猟、石器作り、建築、裁縫など)の中で、人間は話し合わねばならない段階にいたった。
○まず、身振り・手振りによる言語を創り出した。   最初は身振りによる絵文字のようなものであったが、まさしく第二信号の出現であった。狩猟経験の中で、獲物とその足跡の間に条件反射が形成された狩人たちにとっては、足跡は獲物の信号である。その足跡の形を描いて見せたとすれば、彼はその身振りを足跡の信号として送ったことになる。そして、遠くの狩人がそれを見てさっと狩猟の構えを取ったならば、彼はその合図を足跡の信号として受け取り、彼の経験によってつくられた条件反射により獲物が近いことを知ったのだ。 身振り言語の出現により、人間は獲物がいない所でも獲物について考えることができるようになった。身振り言語の出現は労働を高度にし、複雑なものにした。労働の複雑化は身振り言語の複雑化を要求し、確かな観察力を養うことを要求した。
○声ははじめは身振り言語に付随したわめき・うめきというものにすぎなかったが、労働、身振りの複雑化による脳の成長はしだいに区切って発音することを可能にし、ついに身振り言語に取って代わった。音声言語は、姿が見えないところでは通じないという身振り言語の弱点にうちかった。さらにまた、身振り言語では限界のあった抽象的な概念の表現を、音声言語はしだいに可能にしていった。
こうして、労働→言語→労働→言語・・・という無限の高まりのなかで、人間は第二信号の体系を打ちたててきたのです。
  
3、1,2、を押さえることの必要性
第二信号系理論は、あらゆるコトダマ思想に反対しています。私がコトダマ思想と呼ぶのは、第二信号系であることばを第一信号系から切りはなしてしまい,ことば自体の中に概念やイメージがこめられているように考える考え方です。「ことばを多く覚えること」「ペーパーテストができること」と賢くなることを同一視するような傾向が、私たちにあるならば、もうそこにコトダマ主義がしのびこんでいます。
○第二信号系理論は「読み」においては一読総合法を要求しています。(ここの展開は次回に)
2、では、言語と労働との関係を、その発生の過程で見てきたわけですが、現代においても社会的な労働の発展が新しいことばを生み出し、人々に認識の変革を迫っていることは見て取れると思います。
また、すでに社会的な労働によって獲得されたことばが空疎で有害なものにならないためには、しっかりした第一信号系に支えられる必要があるわけですが、その第一信号系をつくりだし、維持していくものが、集団的労働であると言えます。
○以上のことは、教育の中に労働の観点を持ち込むことの大切さを物語っています。その時点での子どもたちの基本的な要求にそった集団的・目的意識的な活動を組織することが大切です。そのなかで、子どもたちがからみあい、ことばが生きて働く場をつくることが大切です。 

国語の授業は、以上述べてきたような背景に支えられて成立していることに留意しましょう。
 
<参考文献>
『脳生理学の基礎』(上下)コーガン著(岩波書店)
『人間の歴史』イリン著(角川文庫)
『ソビエトの教科書 心理学』(上下)スミルノフ主監(明治図書)
『言語と思考』ショシャール著(文庫クセジュ・白水社)

機関誌から(9)

<『豊中児言研』No.6(1975.10.1)>

文章のワク内における「つじつまあわせ」の読みでは、現実は読みよれない!!
           新 開 惟 展
1、
「例へば『海ノ生物』という読方教材は、海の生物そのものを直接に教材とするのではなく、それが人によって把握せられ、順序立てて而も興味深く考へられ、それを児童に理会せしめんとする意図に導かれて、文章に表現せられたその文章を教材とするのである。故にその教材の取扱に当たっては、児童を直接に海岸に連れ出したり、標本室に連れ込んだりせずに、読本の文章そのものを通して、而もその文章の作者の精神構造として、それが何のために、何を、如何なる気分で表現しているかを理会させねばならぬ。(中略)本来の読方教材は文章だけで必要且十分であって、文章を無視して他の方便物に拠ることは読方教材の自己否定である。」(傍点は引用者)
この文章は、石山修平著『弁証的教育学』(昭和9年刊)からの引用である。注目したいことは、石山が「本来の読方教材は文章だけで必要且十分であって」と言っている点である。読みの対象は文章だけであって、文章を文章外の事物・現実とつき合わせることなどまったく必要がない、と主張していることである。文章のワクを固く守って、そこから一歩も外に踏み出さず、その文章だけを学習の対象として従順に解釈することが読み=「理会」であるとするこの主張は、この著作が書かれた時代、「国定教科書」は天皇制絶対主義下の文部省が天皇の命を受けて謹撰したものであり、そこにはいささかの過失も誤謬もありえない、もちろん批判などもってのほか、といった教育界の風潮とみごとに一致する。
本来の読みとは、主体的・批判的な読みであると考え、(説明的文章の)「データ分析」の読みを主張する私たちの考えとはまったく相容れない。そして、この「解釈学」の読みの考えに立つ輿水実氏の国語教育理論と行為が、現在の文部省体制と結びついていることは、けっして偶然ではないのである。

2、
サルトルは言う。
「<宇宙>は私の足元に段をなして積み重なり、すべてのものが、名前を与えてほしいとと頭を垂れ、懇願していた。事物に名前を与えることは、事物を創造し、同時にそれを捉えることだった。この根源的な幻想がなかったら、私は決してものを書かなかっただろう。」(『言葉』白井浩司訳 人文書院)

「名前を与えること」は、たしかにある意味で「事物を創造し、同時にそれをとらえること」であろう。そして、それは反面、その「与えられた名前」によって、認識にワクがはめられ、そこで思考停止が起こるという面を同時にもつものでもあることを、私たちは十分留意しなくてはなるまい。
同じ事態(?)を異なるコトバで捉える(表現する)のは、捉える主体の発想が異なるからであるが、コトバに対して主体的・批判的に立ち向かわないと、一度与えられてしまったコトバにとらわれて、現実を捉えなおすことなく、そのコトバの文脈の中に発想・思考を固定させてしまって、反応してしまうことになる。
次の「呪文」の引用の部分は、そのことの恐ろしさにふれている。(全文の主旨は、少し異なる。)

<『呪文』
批判的な人間がいれば「あいつは他人の悪口ばかりいっている」というし、論理的な人を「理屈っぽい人だ」と決めつけることもできる。
また率直な人柄を「無遠慮で粗野なやつだ」ともいえる。真実を語りすぎる人はしばしば危険なので、不平屋で他人を不愉快にする人間だということになる。
すべての人間が満足している状態はまずありえないが、それは人間の夢なので、気の弱いなまけ者をたたえて、「足ることを知る者は幸福である」などという。
例をあげればきりがないが、人は自分でも気づかずに、ことばの呪術にかかっている。「悪口をいう」ということばの響きから自然他人の悪口をいうことはいけないことだと思いこみ、批判はさしひかえるし、「理屈っぽい」ということばがあれば、道理を追うことは無意味だと思うようになる。「無遠慮な人」といわれたくないばかりに、率直な表現をしなくなるし、「不平屋」といわれたくないので真実を語らなくなる。(以下省略)。(傍点は引用者)> (大庭みな子)

3、
去る9月9日、「障碍児と医療問題」というテーマで、川端利彦氏の話を聞いた。そこでも「名づけ」が問題にされ、名づけられた対象である「障碍児・者」が、外(医療関係者)から与えられた名前(「病名」「症状」など)によって、どのようにゆがんだ「見られ方」=処方をうけているか、という話があった。その一例として、いわゆる“多動症状”についての話を紹介する。
ある子どもがいわゆる“多動症状”と診断されると、それを抑えるために、医療という名で精神安定剤が投与される。この薬には、活発な動きを抑える作用の他にいろんな作用があり、動きが鈍くなると同時に他の活動も抑えられて、何をする意欲もなくなってしまうこともある。一度は通過すべきである成長段階にいる子どもを、そのような方法で抑圧することは、とりかえしのつかないこと(たとえば、立てなくなったり、平衡がとれなくなったりする)を引き起こすことがある。
ところで、このような処方をとられる一つの根拠である“多動症状”という診断(名づけ)は、どのような実態を反映しているのか。「多動」であることは、本人にとって「病的」なことなのか、いやそれ以前に、そう診断された子どもの実態は、文字通り「動きが多い」のだろうか。実態は決してそうではない。いわゆる「普通児」の運動量と比べて「多動」と診断された子どもの運動量は決して多いとは言えないのである。ただ、まわりの人間が期待・予想している行動を、その子がとらない場合が多いというだけにすぎない。つまり、まわりの予想・期待に反することが多いので、目立つだけなのだ。したがって、“多動症状”といわれるものの実態は、決して本人が「多く動きまわる」のではなく、周りの人間がそう判断するだけであり、その意味からも不適切な用語(名づけ)である。“多動症状”という診断→安定剤の投与→発達阻害・停止という不幸な結果を導き出す経路の最初に「名づけ」が位置づけられている現状に眼を向けたい。
 
「現実の反映としてのことば」を問題にするとき、この「コトバのワク」の中だけで考えることの誤りとおそろしさに、私たちは十分心すべきだろう。私たちの主張する「データ分析」の視点・姿勢はいくら強調しても強調しすぎることはない、と考える。


<機関誌から(10)>

<『大阪児言研』No.12(1977.3)>

学力とは
東京児言研:会員研修会の報告より (まとめ:関、市川)

1、山田勉の学力論 (『現代教育科学』No.230)
学力の問題を考えるとき、学力の徴表を定量的に測定するだけではいけない。学力は人格と深くかかわっているのであるから、定性的把握にまでいたる必要がある。単純機械的記憶を中心とした学習は、人間の内面に大きな空白を生じ、中空人間ともいうべき心を喪失した人間を産出するであろう。学力形成の中核は“いかに学習するか”ということであって、教育内容を科学的体系的に組織するということではない。では、その学習のあり方はいかにあるべきか。知識や技術を体得しながら、それを人格という統一体の契機として組織いくような学習過程でなくてはならない。この学習過程は、自覚的自己否定的な過程でなくてはならない。学習の行われる前の体制がなんらかの修正や変化・変革を受けて、新しい知識・技術を同化していく過程でなくてはならない。このような過程に応える知識・技術の体系というのは、学問・科学の基本原理の変革過程を組織したものでなくてはならない。学習者の内面において、自己否定的な認識過程をひき起こすことのできる知識・技術を基本的を基本的知識・技術と考える。
[注] 山田は学力として、教育内容と指導法・学力形成とを一緒に論じている、という問題がある。
山田の学力論に真っ向から対立するのが、次に述べる鈴木・藤岡の学力論。

2、鈴木秀一・藤岡信勝の学力論 (『科学と思想』No.16.19.20)
「成果が計測可能で、だれにでも分かち伝えることができるように組織された教育内容を学習して到達した能力」が「学力」であり、三つの契機がある。
(ア)「計測可能」という基準によって「態度」や「思考力」を学力の概念から排除し、学力に科学や技術などによる内容的表現を与えること。
(イ)教育内容をだれにでも分かち伝えることができるよう組織する課題を教育実践に課すること。
(ウ)学力を、学校において教師の働きかけのもとに子どもが学習して獲得する能力、として限定すること。

3、これに対する、坂元忠芳の学力論
1)結果としてあらわれる学力(測定可能)。
2)わかる力としての学力。 2)をとりあげた理由を次のように述べる。
(ア)学力を学校でつけられる認識能力の構造としてとらえ、その中身を子ども各々のレベルにおいて明らかにする努力であり、
(イ)「わかる」ということを「生き方がわかる」というように、子どもの生活活動の内面化である意識全体の構造として捉える努力である。
 
両者が鋭く対立する点は、
鈴木・藤岡が「学力は、子どもに認識可能であることが実践的に証明ずみの内容と展開形式を伴った論理と概念によって表示されるべきであり、そこ限りで、主観の側の心理機能をさしあたり想起せずに規定することができる」
と述べているのに対して、
坂元は「人間が、文化を、学習活動をとおして習得するということは、文化が人間の人格をとおして内的に屈折されてわがものになるということにほかならない。教育学にとって重要なのは、子どもが習得するのに可能な教育内容の系列だけでなく、その教育内容によって、子どもの認識能力がどのように構造化されて発達するか、その弁証法的な過程と構造である」と述べている点である。

私たち児言研にとっての課題は、鈴木・藤岡の主張のように、国語科における科学的な教育内容を誰にでも分かち伝えることのできるよう、教授学的に組織化する方向での追究と、かなり一般的に展開された坂元の学力論が国語科ではどう具体化されるかを追究することだと思う。

<大阪児言研>あれこれ(2)
「表現読み」の学習(1968.7)より
1、「表現読み」と「朗読」「音読」
「表現読み」は原文の内容を「表現しながら読む」ことに重点がある。しかし、
「節つけ読み」(詩・歌の文章を節をつけて音読する)や「押しつけ読み」(音読する人の主観を強く出し、聞き手に無理に聞かせようとする朗読)などは「表現読み」とは認めない。
○ヤゾビツキー著『ソビエトの読み方教授』には、「美活動としての表現読みは芸術的でないわけにはいかない。詩や物語やおとぎ話を読みながら、生徒はそれらを自己自身の思想・感情・連想で生気づけながら、作者が提出した状況を新たに再生する。すなわち、読み手の経験で豊かにして聞き手に伝える」とある。
○聞き手ゼロ、ということ。
「押しつけ読み」は、聞かそうとしてオーバーな読みをするところから生じる。聞き手を意識から消して「自分が満足のいくように読む」こと。だが、聞いている人がいれば反応があるだろう。その反応は考慮する。
○演じないこと。原文と読み手との距離のとりかた。
読み手が人物を演じてしまったら、読み手が人物に化身してしまったら、人物像をゆがめるだろう。読み手は人物の役を演じてはいけない。ただ、側面からその人物を見て、その人物の思想・感情・行為を美的に評価し、自分の態度を「表現読み」によって伝えること。
2、「表現読み」と言語能力
文章の理解←→表現の総合的前進相互作用は、言行為の基礎をなす大脳皮質での観念喚起←→言表の相互作用を的確に敏速に行わせるために、言語における受容性神経活動のすばやい相互作用の総合的な活動を要求する。また、言行為を円滑・的確に行うために、文章の展開を「予見」することが要求される。「表現読み」が上達する過程で、以上のような言行為の生理学的諸条件が総合して訓練される。
このことこそ、「表現読み」が言語能力の向上を保障する生理学的な基礎として、私たちが注目していることだ。
(「批判的味読」についての内容がない。関連事項として、とりあげているはずだが? :新開)

<機関紙から (11)>

<『大阪児言研』No.17(1978.3)~No.20(1978.9)>から

読みにおける関係づけ――文学を支える基礎能力――
林田 哲治

Ⅰ、一読総合法においては、「読みの関係づけ」を次のように規定している
「第二信号系というコトバの信号によって、読み手は、さまざまな概念をよびたて、経験・知識を動員して、あたかも知覚するかのように、ものやことを想起する。この想起された経験や知識が文の形によって統一され、文―文―の連接や対応によって、さらに大きく統一されていく。小さな部分はやがて大きな部分に総合され、また、おのおのの部分は全体を予想しつつ、しだいに位置づけられていく。こうして読み進められる過程では、概念としてのことばによって、経験・知識がひきだされ、分析され、それが新しい観点によって、新たに総合され統一されていく。その分析→←総合はいくどもくり返されていくが、文章の読みの基本的な方向は総合に向かっている。
この基本的には総合をめざし、進行中にたえず分析→←総合をくり返しながら読み進める思考の働きを、わたしたちは<関係づけ>と名づける。」(奈良小学校著『一読総合法の授業分析』)
 
この規定をもう少し具体化して、<関係づけ>と呼ばれる思考内容を分析していくことにする。
読むという行為は、一つ一つの文字からその音を想起し(はじめは外言での音声化が必要であるが、しだいに内的発話に移行)、単語としての意味を理解することから始まる。この場合に前提となるのは、「読みは、話しコトバの活動の中で準備された語の音声形式を媒介にして行なわれる。」(天野清)ということである。つまり、話しコトバの習得によって形成された語の音声形式と意味との結合が土台となって、「語や文の文字形式を基礎にしてそれらの音声形式を再生し、その意味を理解する行為」(同上)だと言える。したがって、読みという行為が成り立つ以前に、それに必要な話しコトバの習得がなされていなければならない。
文字を分析し、単語として理解できるようになると、それを文の各部に位置づけて文全体の総合的理解ができるようになる。このときに必要な<関係づけ>として、主部と述部、さらには、それ以前の主部・述部内部の各要素の分析→←総合がある。さらに、語、文を読み進めるときに必要な能力として、予見する働きがある。この働きは、一つ一つの文を知覚し音声化する段階から必要なものである。たとえば、「せんせい」という語を「センセー」と読むためには、これまで読み進めてきた文脈を頭にいれながら「せんせ」まで読んだときに「先生」という意味が予見できなければならない。予見の力が働くことによって、「い」をエ列の長音として読み(音声の想起)進めることができるのである。
これは、文を読み進めるときも同じである。予見(予想・見通し)が活発に働くほど、読みは鋭く豊かになる。波多野完治氏は、読みのなかで予見が働く根拠を次のように述べている。

「(文章の読みは)それ自身ひじょうに動的な過程であり、したがって、それは動いているもので、前と真中と後をもっているわけです。・・・・読むときは、絶えず前進していきますから、その前進に伴う予見とか予感とかいうものがあります。その予見なり予想なりをたてながら、現在は、眼が文間を追っておるわけであります。その予想・予見が絶えず変化しつつ、進んでいきますから、それが蓄積されて痕跡になります。痕跡といえば静的なものに考えられますが、そうではなくて、痕跡が絶えず前方の予想を刺激しているわけであります。読みというものは、こういうような三層の構造をもって進行しているところの過程である、と言えるのであります。」

ところで、文章を読む過程で関係づけはどのように働いているのであろうか。その一つのモデルとして、林進治氏はつぎのような図を示している。(図は複雑でPCで描けず省略する)
「一次関係づけ」とは、言語の形式面から見た関係づけで、「文内関係、文間関係、部分・段落関係、文と部分間関係」がある、としている。
「二次関係づけ」は「一次関係づけ」を形象の面から見たものである。したがって、「一次」と「二次」の関係は時間的順序を示すものではなく、関係づけの二つの側面をあらわしたもの、ということができる。
ところで、「二次関係づけ」では、<事・物・行動・場面・人物>をそれぞれ関係づけながら、形象の読み取りが進んでいくことが図示されている。その際に働く思考活動としては、<比較・分離・包摂・条件づける>があげられている。また<比較する><条件づける>の項は、それぞれ更に下位区分されている。この図表によっても、読みにおける関係づけは、さまざまな思考活動によって成立していることがわかる。
  
さらに、関係づけについて益子広則氏は、もう一つの側面を主張する。益子氏は、林氏の二つの側面を一つにまとめたうえで、もう一つの関係づけを提唱する。それによると、
(A)文章という読みの対象自身の中にある関係の関係づけ(林氏の一次・二次の関係づけ)
(B)読み手の過去の経験や知識との関係づけ(読み手主体と文章という対象との結びつきから生まれてくる関係づけで、主体―対象という間のもの)
の二種類である。
そして、(B)の内容として、「疑問、共鳴、おどろき、発見、反発、批判」をあげている。つまり、
作品に描かれている形象やそれへの価値づけに対する読み手の反応との関係づけである。これは、文章を受動的に受け取るのではなく、自己の経験・知識・価値観を総動員して文章と対決するという一読総合法の読みに不可欠の関係づけである。

Ⅱ、<関係づけ>の力をどのように伸ばすか
読みにおける関係づけの働きのあらましは、以上のようであるが、低学年では、それをどの程度、どのように伸ばしていけばよいか。『はやくめをだせ』(ローベル作)に即して具体的に考えることにしたい。

(ア)文内での関係づけ
一つの文の内容を読みとっていくためには、文字と文字、語と語を関係づけて分析→←総合がなされなければならないが、その際、表象や感情、概念的把握も同時に働いている。したがって、関係づけの力を高めるといっても、それだけを抽出して教えることはできない。
たとえば、「かえるくんは じぶんのにわに いました。」という文では、「かえるくん」で、現実にいるカエルでなく登場人物としての「かえるくん」を想起しなければならない。「くん」とあるから男のカエルだ。「は」まで読むと、「かえるくんは」どうするのか、どんな人物なのか、という述部の展開を期待する構えができる。このとき、読み手に、現実のカエルに対する感情を反映した「かえるくん」についての感情(ぼんやりした)や、知識をもとにした「かえるくん像」(実在のカエル像から、洋服を着て2本足で歩くかえるくんの姿までさまざまな段階があろう)が浮かんでくる。
次に、「じぶんの」では、「かえるくんの」という意味だなと(主語と関係づけて)理解し、「にわに」では、知識と関係づけて、各自が知っている庭のようす、あるいは、ごく一般的な庭についての表象(概念像)が想起される。また、ここまでを総合して、かえるくんは自分の庭で何をしているのか、という予見意識が働き、「いました」という述語にたどりつくことにより、漠然とではあるが、自分の庭にいるかえるくんの表象像を描き出す。
一文内の読みは、以上のような過程をへて進行するものであるが、読みなれた者(教師など)は、これらの過程をいちいち意識せずに読み進める。しかし、読む力が低い段階の子どもには、このような思考活動を一つ一つ体験させることによって、読む力(思考力)の向上をはからねばならない。特に、これまで軽視されてきた読みにおける予見の働きを重視した指導が望まれる。主部を読み取ったとき、述部の把握も、主述の関係づけも、漫然と読み進めるよりはるかに正確に、そして豊かになされるのである。
では、この<文内での関係づけの力>は、どうすれば高められるか。これは読みの低学力問題を解決する重要な柱である。しかし、その方法については、十分な研究がなされていない。現時点で有効と考えられるいくつかの方法を列挙するにとどめる。
○ことば(一つの語、あるいはいくつかの語の結びついたことば)から表象像を浮かべられるようにする。
○浮かべた表象をことばで表現できるようにする。
○文法指導や読みの指導のなかで、主部(主語)の働き、述部(述語)の働き,補語・修飾語の働きを指導する。
○初めのうちは、<一文立ち止まり>またはそれに近い形で、一文ずつ緻密に読むようにしむける。
○一文の内容を<話しかえ>させる。(初めは、「わかったこと」でよいが、次第に「くわしい話しかえ」ができるようにする。複雑な文では「短い話しかえ」もさせる。)
○一文で、感想・意見を積極的に言わせる。(出しやすい部分で指示する。)
○予見(予想・見通し)を促すような発問、作業を多く出す。

(イ)文と文の関係づけ
文内の関係づけの力が伸びると、文と文の関係づけの力も高まってくる。しかし、自動的に高まるのではない。ここでは、文段階での関係づけ指導の重点について考えてみたい。
さきの「かえるくんは じぶんのにわに いました。」の文で、かえるくんは何をしているのかな、という疑問や、何かの種をまいているのかなという、題名と関係づけた予想をもった子がいたとする。ところが、第2文は、「がまくんが」という主語で始まる。ここで、またちがった人物が登場してきたことで、瞬時とまどうかもしれないが、「かえるくん」ではない「がまくん」という新しい人物について注意を向けてくる。そうして、主語のあとにすぐ続いている「とおりかかりました。」という述語と関係づけて、がまくんが向こうから歩いてきて、かえるくんの庭の前にさしかかる様子を表象化するだろう。この時、初めの予想が修正され「二人の間で何かが起こるのだな」という予想をもつ。このような読みができるということは、第1文と第2文を関係づけて、形象の次の発展が予測できる力をもったということである。つまり、第1文と第2文の登場人物の相違を読みとり、二人の人物を対置して筋の発展を予見しているのである。
文と文との関係づけには、このように二つの文を対置して関係づけることのほかに、さまざまな場合が考えられる。いわばそれは思考の形式のすべてを含みこんだものであると言えよう。したがって、関係づけの指導は、子どもの思考力を伸ばすという点でも重要な役割を果たしている。
さて、文と文との関係づけの指導であるが、基本的には、テキストの文と文の関連のあり方が指導の方向を決定するといえる。しかし、ここで忘れてはならないのは、文章の読みが進行している場合、そこにある一文は、単独の文ではなく、これまでの作品の展開と密接に関係づけられた文だということである。したがって、文と文との関係づけといっても、そこには必然的に、それまでの作品展開の全体、あるいは必要部分を背景にもちながら行われるのである。たとえば、
①がまくんは はしって いえへ かえりました。
②花の たねを まきました。
という二つの文の関係づけでは、まず①で、かえるくんのように花がたくさんさいた庭を早くつくりたくて、もらってきた種を大事に持ちながら道をかけていくがまくんの姿と気持ちを読みとらねばならない。その上で、がまくんがかえるくんからもらった花の種(この場合は、「たね」という単語と前の場面との関係づけがなされている)を、「早く芽が出てほしい」という気持ちをこめて土のまいたことを読み取る。さらにここでは、挿絵を有効に使って、二つの文の行動の間に挿絵で描かれているように畑を耕してきちんと畝をつくっていることも理解させておきたい。(低学年では、絵と関係づけて本文の読み取りを深めることも大事な仕事である。)
さて、文の背景をも含めたこのような関係づけをどのように指導するかという問題であるが、実際の授業では、子どもたちに①でのがまくんの気持ちを想像させ、書き込みをするように指示した。文にはがまくんの内面は何一つ書かれていないが、「はしってかえりました。」という行動を手がかりにした(これも内面の描写の一つの方法である)、これまでの形象の展開を想起しながら「がまくんの気持ち」を考えさせるのである。ここでの子どもの書き込みをいくつか紹介する。
○がまくんは うれしくて 大いそぎで かえりました。 
○がまくんは よろこんで かえりました。
○めがはやくでるとおもって かえりました。
このように、直接描かれていないことを前の部分と関係づけて読み取ることにより、次の文②がより豊かに、正確に(テーマに沿った方向で)関係づけられるのである。
さて、この段階での指導の方法であるが、先に述べたように、文と文のつながり方に沿って指導法を考え出すのが原則となる。たとえば、低学年では、
◎会話と地の文、会話と会話との関係づけ(誰が誰に話しているか)
◎文のうえでの問いと答えの関係づけ(「じきって、どのくらいかかるの?」←→「すぐじきさ。」)
◎疑問に思ったところとそれが解決したところとの関係づけ(前出)
◎「こそあど」(指示語)と対象との関係づけ(線でむすぶ・矢印)
◎挿絵と文との関係づけ(前出)
◎自分の予想との関係づけ
◎前の部分と今読んでいるところとの関係づけ(前出)
◎二つの文を対比しての関係づけ(がまくんとかえるくんは友だちか)
などが考えられる。具体的な方法については、それぞれの指導内容に合わせて、予想・表象化(「くわしい話しかえ」「気持ち」「動作化」)・概念化(「みじかい話しかえ」「わかったこと」)・感想意見(「思ったこと」)などの適切な基本作業を指示することが必要である。
しかし、一読総合法では、ひとり読みの段階で、これらの読み取りをできるだけ自主的に進めるようにする方向をめざすものであるから、いつでも全員に指示することは好ましくない。個人的に指導したり、部分的に指示したりすることは必要だとしても、原則としては、自主的に書き込めるようにしむけていかねばならない。
なお、文と文の関係づけは、必要によって3文、4文の関係づけも(ひとまとまりの場面より小さいつながり)なされなければならない。

(ウ)ひとまとまりの場面での関係づけ
文内、文間の関係づけがすすむと、ひとまとまりの場面が総合の働きによって浮かび上がってくる。
登場人物の心理・行動の発展、登場人物どうしの対比、場面と状況、人物と状況のかかわりなどが関係づけられ、形象として総合されてくる。しかし、どの場面でも同じパターンで関係づけされるよいうことはありえない。ここでも、その内容・方向は、形象の描かれ方に規定されてくる。したがって、「段落の要点」をおさえさせるといった技術主義的な考え方では、文章の鋭い読みは成立しない。たとえば、先の花の種をまく場面で考えてみよう。
⑦がまくんは はしって いえへ かえりました。
花の たねを まきました。
「さあ、たねよ、」がまくんは いいました。「大きく なあれ。」
⑧がまくんが 二、三度 いったり きたりしました。
たねたちは 大きく なりません。
この場面では、がまくんが種をまいて芽が出るのを今か今かと待っているようすが描かれている。
この場面を、たとえば、「がまくんは、走って帰って花の種をまき、大きくなれと言ったが、大きく
ならない。」と、筋をおさえてまとめたとしても、作品が読めたことにはならない。ここでのがまくんの行動は、前の画面でかえるくんが言った「ここに花のたねがあるよ。じめんにまけば、じきにきみのにわができるよ。」「すぐじきさ。」ということばと関係づけて読み取らねばならない。この場面での、短い文をたたみかけるように連ねた描写の手法は、かえるくんの不用意なことばを真にうけたがまくんの心理をも描いているからである。したがって、ここでは行動の面だけでなく、その行動からがまくんの心理を読み取るように、子どもに働きかけなければならない。
がまくんが種をまいている時の期待にあふれた気持ち、さらには、畑のそばを行ったり来たりする
がまくんの心の中を手に取るように感じさせなければならない。
授業では、先の「はしってかえりました。」の文のほかに、⑧のところで、がまくんの気持ちを書き込みさせた。(「がまくんの気持ちについて思ったことを書きなさい。」と指示)
○がまくんは むねがどきどきしている。
○がまくんは 早くめがでると思っている。
○うれしいから めがでるまでまった。
これらは、がまくんの心理を読み取って書いたものである。さらに、次のようなものもあった。
○いったりきたりして大きくなあれといっても めがでないからかわいそう。
○がまくんは いったりきたりして かわいそう。
○ちょっと かわいそうと思いました。
これらは、がまくんの心理を読み取ったうえで、かえるくんのことばを信じて一心に待っているがまくんに対する感想である。人物の行動と心理とが関係づけられ、さらに、前の場面との関係づけもなされて、このような感想が生まれてくるのである。また、見逃してはならないのは、この感想の裏には、「植物の芽は、種を植えてもすぐ出るものではない。」という読み手の知識・経験が関係づけられていることである。
さて、ひとまとまりの場面での指導は、できれば一つの立ち止まりとして場面全体を見通して関係づけるのが普通であるが、子どもの読む力、話し合う力が十分でない時は、先例のように、いくつかに分けて行うことが必要である。
ここでの指導内容としては、
◎人物の行動・心理の動きの関係づけ。
◎事件の推移の関係づけ。

(何故か、ここで途切れてしまっています。新開)

<機関紙から>(12)

<『大阪児言研』No.16(1977.11)~No.18(1978.5 )>
 (部会=「言語」「説明文」「文学」からの報告は省略する。)

<児童・生徒を沈黙に追いやるもの>
児童・生徒の言語が解き放たれるというのはどういうことか、ということを考えるとき、まず児童・生徒の「沈黙」あるいは「失語」の状態とは、どういう内実を胎んだものであるかが確認されねばならない。
・・・地下(ぢげ)ことば=民衆言語を、就学前までにそれなりに身につけてきた児童が、学校という新たな生活空間において、「よいことば」を教えられ、あるいはしつけられ、それを使いこなせるまでに成長するにつれ、地下(ぢげ)ことば=民衆言語からの脱却こそ自分を抑圧している状況からの脱出の印であるとする思いこみがある。
・・・はじめにあった「教科書言語」あるいは「先生言語」に対する拒否感覚などは、発語表現の水準に昇華されぬまま屈折し、・・・その頃から言語が必ずしも正確な自己表白の助けにはならなくなり、・・・
「おれは」「わしは」という主語でなければ一言半句も話さない、書かない生徒・・・、「怒ったときでないと喋られへん」といった発言とは裏腹に、その生徒の日常は沈黙であり、失語であった。・・・
ほとんどの場合、自分をホンネのところで出し切らない状態の中で、自分に対する絶望・不信、あるいは、周囲に対する無関心が増殖される。自己の内側の荒れをしりつつ荒れるとき、言語の何に向かって彼らを集中させるか。そうすることで、児童・生徒の閉塞性をどこで反転させ得るか。われわれの言語認識に課せられているものは、そのへんに措定されねばなるまい。
(第28回全同教資料『村へ回帰しつつ超える』より)

漢字のおそろしさ?!
『国語の授業』最近号は漢字指導の特集を組んでいる。大久保氏は、漢字政策の変質ぶりを危険視されている。そこで、というわけでもないが、漢字のマジュツ的側面にふれた論文から引用する。
 
固有名詞と漢字
・・・我が国では、北海道におけるアイヌ語の地名に関して、この種の意識的な要求(固有名詞の保存)がほとんどあらわれなかったのは、それなりの時代の状況があっただけでなく、地名からアイヌの痕跡すらも消し去る上で、漢字の威信が多大の貢献を為したからである。・・・アイヌ語にもっともらしい漢字をかぶせて日本風にしゃれてみせる・・。それはたとえてみれば、護美箱などと月並みにしゃれてみせるよりは、はるかにスケールの大きいものであった。・・・かつてツキサップと、比較的原音に近く読まれていた月寒が、この漢字の通常の読みによって、遂に優位をツキサムにゆずった瞬間はアイヌ語地名の断末魔であった。
 
漢字の日本占領は、はじめは罪のない遊びにすぎなかったものが、規範の感覚を伴って法的に登録されてくると、アイヌのような少数民族はもちろん、各地のニッポン現地人の固有名詞すら、かれらの母語の一角を系統的に削り取っていく作用をおよぼすことになったのである。
・・・日本語における固有名詞とは、オン・クン二重の読みを内蔵した漢字面であるという通念が伝統となって、このオン・クン漢字で記されるや否や、いかに隔たった異属の土地でも人間でも、日本語にとって親しい、ときには日本国、日本人そのものか,それに準ずる地位を得ることができるのである。このことを、オン・クン漢字は異族・異域を、観念において日本語・日本文化の所有物と化すための不可欠な道具であると規定しておこう。
チォエ・チャンホア氏による「本名裁判」と呼ばれる事件は、まさにこの点にかかわっているものと私は考える。・・・昭和50年・・・、朝鮮人牧師 チォエ・チャンホア氏は、・・・NHKが自分の名をサイ・ショウカと読んだことに抗議した。・・・事前に、自分の名はサイではなくチォエだと注意したにもかかわらず、同放送局が故意にサイと読んだため、自分の「人格権」がじゅうりんされたものと認識した。
・・・ところで、言語とは・・・社会的なものであって、・・・だから、チォエさんは、個人の名を問題としながら、朝鮮語による名、つまり、朝鮮語を話し、その朝鮮語による名づけをもつ人たち全体を問題にしていることになるのである。したがって、この訴訟は「人格権」にとどまらず、・・・民族にかかわる・・・民族問題であると私は考える。
田中克彦「法廷にたつ言語」(『展望』5月号)より。(ぜひ全文を読まれますように。新開)

<機関紙から(13)>

<『大阪児言研』21号(1978.12)>から

「大造じいさんとがん」をめぐって 
        文学部会の報告
部会では、まず加藤隆詮氏の主題論に目を通して、今までに出されている「主題」について学習した。
ついで、座談会の記録から読み取れる東京児言研の主題論、作品分析、土肥氏(名古屋児言研)のそれとの主な対立点を列挙して、個々に検討していった。(『国語の授業』26号掲載の「大造じいさんとがん」の土肥五郎氏の授業記録と座談会の記録、ならびに座談会への土肥氏の反論(プリント)をもとに)。
特に問題となったのは次の二点である。
(1)大造じいさんという人物像をどう捉えるか。
(2)授業の進め方として、「書きこみ」前に「指名読み」をさせるのは一読総合法の授業とは言えない、という指摘をどう考えるか。
(1)については、大造じいさんを、残雪に人間の典型を見いだした高潔な精神の持ち主ととらえる東京児言研と、わなを仕かけるじいさんのやりくちから残酷で敵愾心の強い人間・執着心の強い人間ととらえる土肥氏と、そこには隔絶の感があるが、部会では、じいさんのとった行動は狩人として当然の行為であり、ことさら、敵愾心の強い人間・残酷な人間とする根拠は薄いのではないか、という結論になった。また、じいさんの人物像のとらえ方の違いによって、じいさんがなぜはやぶさと争う残雪に向けた銃をおろしたのかという点の分析の仕方が異なってくるが、部会では、銃をむけたのはじいさんの狩人としての本能的な行為であり、ハヤブサを撃たなかったことについては、あまりつきつめない方がよいだろう、ということになった。
(2)については、どんな目あてで読ませるのかがはっきりしていないので、それを明らかにして読ませることが必要であろうということになり、深く検討することはできなかった。
なお、このほかに、書きぶりを調べていく過程で、視点の移動ということがしばしば問題になった。移動の仕方があいまいなのではないか、と思われる箇所がいくつかあげられた。語り手自身が大造じいさんに乗り移ってしまっているような書きぶりが見られるのは、この作品の弱さであり、そのことが作品を深みのない、浪花節的なものにしてしまっているのではないか、という意見が出された。
また、残雪とハヤブサの戦闘場面での描写の仕方が、あまりにも一方的で、読み手の意識を強引に引きずっていこうとするようだ、という意見も出された。この点については、土肥氏も「あまりに美化されすぎて、リアリティーが薄れる」と述べている。
さらに、じいさんの生活背景が描かれていないことからくる、書きぶりのあいまいさなども問題になった。
二度にわたる作品の検討の結果、この作品は問題が多く、良い教材とはいえない、という結論になったが、実際に授業してみて、東京と名古屋の対立点について、子どもの反応を探ろうということになり、次回の例会で、その報告がなされることになった。

<機関紙から(14)>

<『大阪児言研』No.21(1978.12)~No.23(1979.5)から>

自主教材・『新版 野尻湖のぞう』(井尻正二・ぶん、金子三蔵・え)の分析と授業
(説明文部会の報告)

Ⅰ、教材分析
1、絵をどう扱うか。
絵がないとわからない部分は絵を入れることにして、どの絵が必要か話し合った結果、三つの絵を入れることにしました。ナウマンゾウの臼歯の化石の絵と、ナウマンゾウの牙とオオツノシカの角の先が並んでいる絵(「月と星」と言われている)と、ゾウの骨の化石が一面に散らばっている絵です。もう一つ、ゾウの化石がどのようにして出てきたか推論する三つの絵をどうするかが問題になりましたが、これは本の絵をとらないで、違いがはっきりわかる絵に描きなおすことにしました。
2、時間配分 11時間(数字は絵本のページ)。
①題名・2~3 ②4~7 ③8~9 ④10~11 ⑤12~13 ⑥14~17 ⑦18~19
⑧20~23 ⑨24~27 ⑩28~31 ⑪32~37
3、教材分析(読み合わせ)。
○題名読みは、「野尻湖のぞう」の「の」をいろいろな方向から分析して、くわしく書きかえる。
○ナウマンゾウのくわしい説明の部分は、わかったことをまとめる程度にしておく。文末表現(「と考えられていました。」「想像されていました。」)をしっかりおさえる。
○ナウマンゾウの化石がどうして湖の底から出てきたかという部分は、絵を工夫して、三つの推論のどこがどう違うのかまとめる。
○⑤の部分はむずかしい。つなぎことばの「ですから」について、砂の層がたがいちがいに重なっていること、その中にゾウの化石が入っていたことから、ゾウの化石は野尻湖の底の地層に入っていた(推論③)という結論が導き出せるか、納得できるか。(最後まで分析できず。)

Ⅱ、指導計画
授業者の若狭さん(門真市立沖小学校)がたててきた指導計画をもとに話し合う。
1、目標について。
①暖かい所に住んでいたと思われるナウマンゾウが、野尻湖発掘の結果、出てきた化石によって学説がつくり変えられていく過程を読み取る。
②科学において、仮設を立て、推論することの大切さを知る。
③科学を創り上げていく過程で、人々の参加していくあり方の一つを知る。
④資料について述べている部分、仮説を述べている部分を読み分け、自分なりの仮説をたてながら読むことができる。
2、授業案の立て方について。
一時間の授業をきちんと行うため、指導内容と(基本)作業とを分けることにした。
○全体を12時間に分ける。(前回は11に分けていたが 11の最後の部分を⑪32ペ~35ペ と
⑫36ペ~37ペ に分ける)
○第一時は、①題名読み と ②2ペ~3ペ の二つの立ち止まりを設定する。指導内容としては、
①題名読みで、興味を持たせ、疑問を持たせる(『野尻湖のぞう』の「の」を分析する)。
②では、野尻湖は火山にかこまれていて、陥没してできた湖であることがわかる(わかったことをまとめ、地図で位置関係を知る)。
○第2時は、③4ペ~5ペで、旅館の人がナウマンゾウの臼歯を見つけたことがわかり、「野尻湖のあたりにも住んでいたのでしょうか」という疑問文に気づく(文末に注意して読み、感想・意見を出す)。④6ペ~7ペで、ナウマンゾウが暖かい所に住んでいたということがわかる(文末分析をして、ナウマンゾウのイメージをつくる)。
(時間切れ。以下は各自で、指導内容の文章化とそれを学ばせる作業の明確化、を宿題にする。)
Ⅲ、若狭さんの授業(5年生)を参観し、話し合う。
1、集団の読み(話し合い)について。
児童の発表の仕方が論理性に欠けるところがある。論理的な発言の仕方は、授業を組織する過程で訓練すれば身についていく。対立する意見を相互に納得させることをきちんとやらせる必要がある。
2、具体化・表象化のさせ方と補説の仕方について。
説明文の読みの場合、抽象化や推論が大切にされるが、あまり大事ではない描写的表現の場合でも、イメージをふくらませたり、児童の興味をつなげるためにも、1時間の授業の中に1,2回は表象化の話し合いを設けることが必要ではないか。
石器についての表象はあまり浮かんでいないようだったので、なんらかの方法で石器そのものについてと、その周辺のイメージを確かなものにしておく必要がある。
3、板書について。
「書きこみノート」(プリント)と同じ形式で板書し、それと対応させて発表させると、児童は討論もしやすく、後の「ノート」の整理もしやすかったのでは・・・。
板書を、読みのまとめ、読み取った内容の確認に利用することで、緻密な読みを促すことに活用する。そんな板書の仕方を考えたい。
4、児童の「書きこみノート」について。
「わかったこと」の欄に書きこまれていることが多様で、どのレベルのことを「わかったこと」とするのかが、十分理解されていない。「わかったこと」のかわりに、この教材では「みつかったこと」と分類した方が児童にははっきりするので、この欄を「みつかったこと」にして実践してみてはどうか。

□話し合いで出された意見をふまえて、授業を組み立てなおした結果の実践を、若狭さんから報告してもらった。

○改めたこと
①「書きこみノート」(書きこみプリント)の工夫。
読みの目標が達成できるよう工夫する。
板書、発表がしやすいように工夫する。
②児童の発表がみんなのものになるように工夫する。
板書の方法。発言の組織化。
③児童に興味をもたせるため、<具体化・表象化>も積極的にとりいれる。
目標の一部変更
①野尻湖の発掘をとおして、ナウマンゾウの生態、人間とのかかわりなどが次第に明らかになっていく過程を読み取る。
②科学において、仮設をたて推論することが大切であることがわかる。
③、④ほぼ同じ。
○授業の様子は省略。

Ⅳ、報告のあと、話し合われたこと。
①話し合いの柱をたてることについて。
発表する場合、何について話し合いたいかをはっきりさせる。そうすることによって、今、何を問題にしているかがわかり、焦点が定まり、深まる。発言も活発になる。
②立ち止まり○21の目標「みんなのものであることあがわかる」は、達成されたか。
掘り出したものの大切さ、掘り出したものは誰のものになるのか、その成果は誰のものか、を考えなければならないだろう。また、いわゆる専門家だけのものでなく、素人が参加し、学び合うということもおさえるべきだ。児童の発言に「骨の採り方など教えてくれる」というのがあったが、あのあたりで深めることができたのではないか。発掘の成果はどうなるのかを考えたうえで、「野尻湖に行ってみたい」と結びつかないと、単なるめずらしさで終わってしまうのではないか。教材(プリント)では、「野尻湖の発掘はみんなのものなのです。」の部分がカットされているが、これでは「みんなのもの」をおさえる手がかりがなくなってしまうのではないか。
③立ち止まり○22「加工品」について。
「女の人の姿のちょうこく」の意味していることまで深めなければならないものなのか。

このほかに、「子どもの認識のありようは、何を手がかりにして、どのように変わるのか」という問題も出されたが、討論の時間がなく、今後の課題として残された。

<機関紙から(15)>

<『大阪児言研』24号(1979.7)から>

「説明文部会」からの報告
(春の合宿で新開さんから提起された問題を、継続して話し合う。)

1、新開さんからの問題提起。
大西忠治氏の考え方(日教組教研に出されたレポートより)と対比して、私たち児言研の目指す説明文の読みの授業を考えてみよう。
大西氏は、説明文と文学との違いについて、「読みの基本の力は説明文でつけられる。そのうえにたって、文学が読める力がつく。」と述べる。
(例文)そのこのちょうめんは、けんぼうのとちがって、かみがしろくひかってみえました。
この文において、
(ア)説明文の読みとしては、「机ではなく紙が、赤くではなく白く、光って見えた、」ということがわかればよい。
(イ)文学の読みとしては、(ア)の読みのうえに付け加えて、「ふつうのものとは紙質のちがう高価なもの」という感じで、とか、「そのこはめずらしい人だから、そのこの持ち物までめずらしく感じられて」等から、「しろくひかってみえた」のだ、というようなことが読めなくてはならない。
この大西氏の意見について、討論することにした。
2、討論の経過。
(ア)(イ)の説明で、(ア)の読みがあってはじめて(イ)の読みが存在しうる、という点に疑問がある。たとえば、「ペンギン」というコトバを見て、「ぼく、好きや」「かわいいな」といった反応は、説明文を読むときにも大切なものとして、切り捨てることなく扱わねばならない。とすると、説明文の読みの中においても、(イ)的な読みのあり方が必要な側面があることになる。つまり、大西氏の言うように、「まず説明文の読みの力による読解があり、その上の段階として文学の読みの力による読解が成り立つ」というのはおかしい。段階的なのではなく、むしろ両者は並列的なのである。そして、両者の読みの並列的といえるゆえんは、コトバの機能のさせ方の違いによるのだ。
3、討論の結論らしきもの。
◎説明文と文学の読みの違い←―コトバの機能のさせ方の違い

コトバの機能の一つのきり方
(1)日常の具体的感情まるごとの認識を伝える。
(2)表象・イメージ・シェーマを伝える。
(3)抽象的・論理的・概念的認識を伝える。
(1)と(3)は、切れていてつながる。その結節点が(2)である。
文学の読みでは、(1)(2)の読みとりが不可欠なのだが、(3)が(2)のままで提出されている場合も多い。
説明文の読みでは、(3)を読みとるための(1)(2)の読みとりが必要なのである。

図解するとこのようになる。(PCで図解する技術がないので、別の仕方で説明する)
説明文の読み(a+b)
文学の読み(b+c)  ● bの部分が重なる 。
bの中心は、コトバの機能の(1)にあたる。
aが純粋に説明文的言語機能、Cが純粋に文学的言語機能、といえる部分にあたる。

このような抽象的結論の出たところで時間切れとなり、次には、具体的に教材文を検討していくなかで、a・b・cの各々の言語機能について学習していくことになった。
(このまとめは、報告者・江藤が理解したメモということで、了解してください。)

<機関紙から (16)>

<『大阪児言研』25号(1979.9)より>

{読んでほしい本の紹介}
『言語・その解体と創造』竹内芳郎著(筑摩書房)から。
 
1、言語とメタ言語
・・・あらかじめ断っておきたいこと二つ・・・
①言語は・・・構造的に階層化されたものである・・・。
私見によれば、その階層の第一次層(基底言語)が<日常言語>であり、第二次層(広義のメタ言語)が<文学言語>ならびに(狭義の)<メタ言語>または<論理言語>であり、後者はさらに、<科学言語>と<哲学言語>とに大別される。(後略)
②日常言語、文学言語、メタ言語を峻別したからといって、具体的にはそれらが混在してあらわれることはいくらでもあり得るということ。・・・(略)・・・。
※(説明図表があるのだが、PCで書く技術がないので省略する。)
まず、階層上の相異をあきらかにするに先立って、機能上の相異をあきらかにしておこう。どんな在り方をとる言語にも<明示性>と<含意性>との二つの機能があることは、多くの言語学者の認めるところである。たとえば、表示作用と含蓄作用,指示的機能と喚情的機能、・・・(略)・・・、通達的内包と感化的内包、概念的価値と表出的価値、・・・。要するに、コトバというものは、かならず己ならぬ何ものかーーそれが実在する対象か観念かはここでは問わないーーを指示すると同時に、また多少ともかならずそれ自身の有体性(記号としての物質性)において或る表情をもつものであって、両作用が合わさってコトバは私たちにはたらきかけてくる。そこで、前者に注目してコトバの機能を考えれば、それが<明示性>なのであり、後者に注目してコトバの機能を考えれば、それが<含意性>なのである。それぞれ、対象指示性と自己表示性と言い換えてもさしつかえないけれども、ただ注意すべきは、たとえば、「ここに机がある」は前者に属するコトバで「ああ悲しい」は後者に属するコトバだ、といったように誤解しないことである。・・・(略)・・・、私たちは、コトバの明示的機能をつうじてそのコトバの指示内容へと注意を向け、コトバの含意機能をつうじてそのコトバ自体の内在的表情を感受するのである。ところで、この両機能は、後述するするどんな次元のコトバにも程度の差はあれ付着しているものであって、たとえば、含意性は単に日常言語や文学言語で重要な働きをするだけでなく、もっとも抽象的な論理言語にも随伴し、論理の貫徹を支援または阻害、さらには欺瞞するものだし、逆に、明示性も単に論理言語で支配的になるだけではなく、詩的言語においてさえも、それが音楽や叫び声でなくコトバであるかぎりは、含意性に大きく抱かれながらもやはり機能を停止するわけにはゆかない。・・・(略)・・・、むしろ、両機能の働き方自体の質的相異に着目することで、はじめて日常言語、文学言語、論理言語それぞれの次元の違いがあきらかになるのである。

・・・(略)・・・。<日常言語>に特徴的なことは、そこではコトバがすっかり言語場のなかに吸収されてしまっていて、結局はそこから自立し得ず、単に現実的実践の消化的契機としてのみあらわれる、ということであろう。・・・(略)・・・、いま、日常言語のなかでもっとも日常言語的な特徴を示す<挨拶語>、たとえば「お早う」という発話を例にとって考察しよう。このコトバにもやはり明示性はあるはずであって、おそらく、「朝早くからご苦労さんなことです」といったぐらいの意味であり、これはただちにオグデン=リチャーズ式に真偽の判定にかけることができる。たとえば、AがBに向かってこう言ったとすれば、このコトバの指示するところがはたしてBのその時のようすに適合しているかどうか、検証してみればよい。だが、もちろん、誰もそんなことはしようとせず、・・・(略)・・・、コトバが挨拶語として発せられたかぎりでは、コトバの明示的意味は、挨拶したという事実そのもののなかに完全に吸収されてしまっている。ここでは、挨拶したかしなかったかという事実の方がはるかに有意味的であり、また、発話にさいしてのAの態度(Bにたいする)こそが有意味的なのである。・・・(略)・・・、「地球は太陽のまわりを廻る」という科学的発言すらも、日常言語として発せられた場合には、その明示的意味が裸のまま問題にされるのではなく、その発言を・・・
誰がおこなったのか、どんな魂胆でおこなったのか等々――そんなことばかりが詮索されるのが、日常性における言語の宿命なのだ。・・・(略)・・・、日常言語は徹底して<自己表出>的なので、ここではコトバの指示性は、完全に表現性のなかに包摂されてしまっている。・・・(略)・・・、日常言語で大切なのは、発言内容の正否であるよりも発言全体の相手に対する効果であり、(後略)。

(とても勉強になるので、紹介しました。新開)

<機関紙から(17)>

<『大阪児言研』27号(1979.12)より>

{参考意見の紹介}
「表象」をめぐって    乾 孝
 
(1、お断り:この小論は、小松善之助氏の、読解という作業を、かかれたコトバ刺激によって「表象」をひきだし、それをつなぎあわせるという心的作業と考え教育実践を進めていくうちに、「表象」という働きについて、もっときちんとした規定を必要とするところまできたので、心理学者がこの語をどう扱っているか訊きたい、というご依頼に応えるものです。)

2、・・・イメージをそのまま「表象」とおきかえてよいのかといえば、やはり若干の注釈を必要とします。正式には、表象は、イメージではなく「アイディア」にあたるので、イメージは「表象像」に対応するものだからです。
・・・ソビエトの心理学書では、表象を「概念」の前、「知覚」の後に置き、多少とも一般化された側面に力点をおいているようですから、「表象」のうち、より具体的な、イメージ寄りのものを「表象像」として明確化する方がはっきりするかもしれません。
3、「知覚」との関係でいえば、知覚は現在到着している刺激をきっかけにしているのに対して、表象像には、そのような外側からの刺激が現在はない。つまり、「不在」のものの像だということです。だから、想像か記憶像・夢なども含みます。したがって、うつろいやすく、現実感がうすいものです。これは自分で想い浮かべているのであって、・・・、この主体のイニシャティブから、また、或る程度自由に動かすこともでき、記憶像に加工した想像を描き出すことなどが可能になります。・・・、それにしても、「想い浮かべたもの」という自覚を伴うものがすべて能動的に「描き出されたもの」でないことも、指摘しておくべきでしょう。
4、・・・、「表象」は必ずしも視覚的な像(心像)を前提としない、・・・さらに、「無心像思考」とか「非直感的思考」とかよばれる働きがあると指摘される。・・・「態度の体験」というところまで表象の研究が拡がったことは、思考という働きのもつ実践的なふくみに一歩せまったとみるべきだ・・・。
・・・、一応の心構えをとっていると、示された語に対して、一定方向に規正された連想語が出現する。
こうして、「表象」の受身的・視覚的・主知的限界はうちやぶられた。・・・、「表象」は「概念」と対立するものではなく、概念もまた態度的な色づけをもっている。また、一般的なものへの連続をふくんでいる。
5、・・・、わたしたちは自分のコトバをもたない乳児のころからコトバによって予測を立てることのできるオトナたちによって、周囲の世界に仲立ちしてもらうのです。ですから、いつも「不在未発」の状況に対応する「習慣」を身につけます。縁の端は「落ちるぞ」の信号、パパのタバコは「アチチ」の信号です。だから、わたしたちにとって、見える世界も、それ自体でなく、その先に来るものを予測する手がかりであり、その予測は、民族の歴史の中で煮つめられた共有の枠をふまえているのです。・・・、ですから、或る瞬間、眼に映じた景観は、それ自体完結したものとしてではなく、一定の文化型によって切り取られ、文脈づけられ、それに対する行為への構えを用意させるものなのです。・・・、ですから、「表象」を像的にとらえるとしても、コトバなしには人間の視覚が考えられないので、まず成立自体がコトバによっているということ、そしてまた、第二には、それゆえコトバ信号によって認知も枠付けされているし、なた、コトバ信号によって表象を一定文脈にしたがってひき出し、くみたてなおすこともできること、第三に、そのようにひき出した表象によって、コトバ信号は再びためされ、信号としての有効性を高められるということ、しかもそれは、純粋の視覚論理によってではなく、その表象像そのものが、もっと立体的な諸体験を、将来に役立つ形に一般化してひきずっているからだということ、・・・。
・・・、コトバはどこまでも信号にすぎません。それは運動感覚系の体験に支えられなければ、・・・
何の働きもしはしないのです。ひとのコトバを理解するのは、ですから、その信号系を、自分の既得体験で中からみたす操作だと言えます。これを、「書きことばから表象を形成する」とも言えます。コトバを他のコトバとのつながりで明確な位置づけをすることと、コトバを体験とのつらなりでおさえることとは、理解を深める二つの座標ですが、それは教授の操作としては分析できても、学ぶ主体にとっては統一された一連の過程と思われます。・・・、とりあえず自主的に浮かんだ表象像を手がかりに、より本質的な表象にまで、他者との伝えあいを通じて、各自が煮つめる操作は、有効だと思われます。・(後略)・
(『国語教育研究』NO。7(1966年春号)よりの抜書きです。ぜひ全文を読んでください。 新開 )

<機関紙から(18)>

<『大阪児言研』29号(1980.5)から>

{参考意見の紹介}

“イメージの物質化”、小説の文章の数行、数ページが物質化されている、「もの」の手ごたえをそなえている、とは、具体的にどういう状態をさすのか?・・・(中略)。ここで僕がおこなおう
とするのは、・・・・、自分の経験に狭くこびりつくようにしてではあるが、なんとか自分の頭のなかでは、はっきり納得できたものを提出してみるということである。・・・(中略)。
・・・、まず、もっとも低いハードルを跳びこえておくことにしょう。
小説は言葉で書かれる。言葉は「もの」ではない。したがって、小説に描きだされるものと、現実世界の
「もの」とが同一平面におかれることはありえない、という考えかたは基本的にまちがっている、という指摘である。そしてその、まちがいだ、という認識が、ちっぽけなものであれ現実の「もの
」を小説のなかにそのまま導入することはできぬ、という事情と、いささかも矛盾しない、という事実である。なぜなら、ひとりの人間の眼=意識にとって、現実世界の「もの」が、実在するのは
、かれがその「もの」を、かれの眼=意識のうちにとりこむからである。・・・(中略)。
 そこで小説を読む人間が、紙の上の印刷された言葉をつうじて、かれの眼=意識にとりこくことによって実在しはじめるところのものは、逆にすじみちをたどれば、現実世界にその「もの」が実
在するとしての認識と、あいかさなるはずであろう。紙にしるされた言葉によってのみ実在するものは、現実世界にある「もの」よりも、人間の眼=意識にとって、より堅固でない、ということは
原則としてありえないのである。・・・(中略)。
 われわれは日常生活において、「もの」にかこまれつくして生きている。しかし、・・・(中略)もし日常生活の場で、自分のまわりの事物のすべてを「もの」として認識しはじめたとすると、
当の人間は・・・、気狂いになってしまわざるをえないだろう。われわれは、・・・・、「もの」を「もの」そのものとして、
自分の眼=意識にひきうけることはなしに、単なる限られた(一面的な)概念としてそれを意識にいれ、
それの機能を活用しつつ生きているのである。その際に、われわれを囲むすべての事物は、じつはわれわれの眼=意識に、「もの」の手ごたえをそなえていず、物質化されてもいないのである。・
・・それは「もの」でない・・・(中略)。
 ところが、われわれの現実世界での生活に、ある異変がおこるとしよう。愛している人間に死なれてしまう、というような辛いことが、自分にふりかかる。その時、突然にわれわれは、自分の眼
=意識に、自分のまわりの事物が「もの」として新しく実在しはじめるのに気がつくのではあるまいか。空はこのようにも青いものであったか、・・・・・・(中略)。じつはその感慨よりもさき
に、われわれは「もの」としての事物を発見しているのである。われわれの眼=意識に、自分のまわりの現実世界の事物が、はじめて物質かされ、「もの」の手ごたえをそなえているのである。そ
れはこのような明瞭な異変によって、「もの」を見る眼=意識が、自由な、不安な、なにものにも束縛されぬが、なにものにも支えられていない状態に、ときはなたれたことに由来している。この
場合おなじような衝撃によって、想像力が自由になる現象もまた、あわせて考えておくこともできるであろう。われわれは、概念的な意味づけ、解釈から、はっきり切りはなされた「もの」を、自
分の眼=意識によってとらえはじめているのである。・・・(中略)。
 もし僕が他人の小説において、自分の眼=意識が、そこに描かれている事物を、いかなる概念、意味づけ、解釈からも自由な、「もの」そのものとして見出しているとすれば、その小説のイメー
ジは物質化されているのだ。・・・(後略)。
 
(大江健三郎著『文学ノート』(新潮社)の67ページ~72ページを抜書きした。 新開)

<機関紙から(19)>

<『大阪児言研』33号(1981.5)より>

実りあった作文学習合宿
新 開 惟 展
 
去る4月4日、5日、大阪の南、和歌山に近い犬鳴川のほとりで、会員合宿をした。4日は、もう新年度のとりくみを始める学校が多く、予定の時刻には、まだ集まりが少なかった。また、参加を
取り消す人が多く、参加者は25人だった。しかし、学習の中味は、これからとりくむ人にファイトを沸かせるものであり、学ぶところの多いものであった。以下に、内容の一端をごくごく大ざっ
ぱに、筆者の独断をまじえて、述べることにする。

 合宿の前半は、理論学習。
日本作文の会について井上秀昭氏が、
生活綴方と版画の会の主張について大崎宏子氏が、
児言研作文の主張について峯近誠次氏が、それぞれに報告した。
 一つの柱は、「生活綴方」でいう「生活」とは何か、ということである。報告では、「生活者が書くから」というのであるが、子どもは「生活者」なのか、目の前にいる大多数の子どもを「生活
者」と言えるのか、という疑問や、「生活」の一端が肩にかかっている子どもは「生活者」と言えるのではないか、という意見や、いや、現実の子どもがそうであるかどうかでなく、「子どもは生
活者である」という子ども
観が大事なのだ、そういう目で子どもを見ないと、こどもの生活が教師に見えてこない、などさまざまな意見が出された。
 このことは、<何をこそ綴らせるのか>ということともつながってくる。
<書く値打ちのあること>とはどんなことなのか。灰谷健次郎著『せんせいけらいになれ』にあるおならの詩やうんこの詩は子どもの「生活」を描いているのかどうか、なども話題になった。
 もう一つの柱は、「生活」とも関係があるのだが、<事実をありのままに綴る>とはどのように書くことか、である。ここにコトバの問題がからんでくる。
✪生活の事実とは何か。
✪どんなコトバでそれを捉えるのか。
✪子どもが、あるコトバである事柄を書いたとき、その見方・考え方・感じ方をどこで問題にするのか、
 その際、「生活」からはいるのか、コトバからはいるのか。 (深めたいことは、多々あった。)
児言研の作文指導は「コトバからはいる」傾向が強い、というのが、多くの参加者の受け止めであった。
 三つめの柱は、書くことの意味がどこにあるか、である。
「子どもの書く作文は先生への手紙である」と言われる。書き手を含むクラス集団の問題もここに関わってくる。書く行為が書く本人にとってもつ意味はなにか、ということも関わってくる。また
、話すことが本人にとってもつ意味と、どうちがうのか、ということも話題になった。
□「子どもみずから、自然や社会や人間の事実・現実のなかから、その“意味”と“美”を見つけ出し、みずからの“思想“や”感情“をつくり出し、その活動をとおして、さらに、自分がつかみ
とり、心に感じ、考えたことを一つひとつ再確認していく」ということは、参加者に認められたように思う。
◆<児言研の作文指導が、「生活綴方」との関係で、どのように位置づくのか>という問題については、
 十分討議ができなかった。

 合宿の後半は、実践に学ぶことであった。
広島から参加していただいた小山巧子氏から、日刊の学級通信(250号になんなんとする労作である)の取り組みの報告を聞いて、参加者は圧倒された。
学級通信「ふたば」の内容は、
✪学校での子どものようす、
✪担任の教育観、
✪子どもの作品、
✪親からの便り、
が、主なものである。子どもの作品は、一人ひとりが持っている「ピカピカノート」に書いてきたものから選んで載せる。(1年間で数冊書いた子もいる。)
「ピカピカノート」を書かせるのは、子どもを知りたいからであり、
学級通信を出すのは、親に子どもを知ってもらいたい、子ども同士を知り合わせたいからであり、
毎日出すのは、自分をのっぴきならないところに追いつめるためである、
ということであった。
「ふたば」が大きな作用を親や子どもたちに及ぼしたのは、日刊ということもあるが、わたしは、小山氏の日常の教科指導や学級集団づくり、父母とのつながりなど、着実な実践があったからだ、
と受け止めている。例えば、年間一回も宿題を出さずに、これだけはという内容を子どもたちに保障していることにも、その一端がうかがわれよう。
 布忍小の天野里子氏からは、自分の生いたちを綴らせたことと、生活を見つめた詩を書かせた、との報告があった。
「自分の生いたち」を綴ることは、父母の生いたちを知ることにつながり、子どもたちは、そのなかで、親たちの生き方の強さを学んでいった。同時に、子どもたちは、自分のつらい生活を見つめ
、他人に語っていくなかで、強くなっていった。天野氏は、この実践によって、つらいことを綴ってきた子どもたちに何もしてあげることができない、という担任としての絶望をのりこえることが
できた、と語られた。ここには、「書くこと」の本質的な意味がはっきりとうかがえる。
 生活詩の実践からは、コトバの問題がうかびあがってきた。部落の子はほんとうに語彙が少ないのだろうか。いったい何を基準にして、多いとか少ないとか判断するのか。そこには、教養主義的
な見方はないか。部落の子が自分の生活をとらえ、書きあらわすコトバは、少ないとは思えない。むしろ、豊かで適切な表現を身につけている、と思える。この考えは、子どもたちが書いてきたみ
ごとな詩でもって実証された。それらの詩はほんとうに力強いものであった。「もっぱら正直のところを」「胸先を突き上げてくるぎりぎりのところを」うたったものであった。そして、それらは
、それまで書いてきた生活綴方が土台にあって、生まれたものであった。
 おしまいは、高校で教えている下橋邦彦氏からの報告であった。
本音をなかなか見せない高校生も、話し合うことを内心では求めている。教師の取り組み方によっては、彼・彼女らも生活を書いてくる。というようなことで、「体験文」の一例が報告された。ま
たその「体験文」とかかわって、「日常性を『事件』としてとらえること」の重要性について主張された。
そこには、「事実、ありのまま」ということと、現実を「コトバで切り取る」こととの関係について、大事なことが含まれていたのだが、時間がなくて討論できなかった。

 この三人の実践報告から、理論学習の中で話題になった三つの問題について、いくつか明らかになったように思う。また、子どもたちに生活を綴らせる取り組みをするうえで、大事にし、配慮し
なければならないことも、いくつか学ぶことができた。理論的に明らかにしなければならないことがいくつも見えてきたし、生活を綴らせることが教育の営みとして欠くことのできないことである
、との確信も持てた合宿であった。
 最後になりましたが、合宿のお世話をしてくださった方々に感謝します。ありがとうごだいました。

<機関紙から (20)>

これまで、実践に焦点をすえて報告してきましたが、
これから、組織に焦点をあてた報告を少し続けます。

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.1(1967.9)>より
第8回例会の報告と補足。
東大阪市立玉美小学校で理論研究会が開かれた。参加者14人。
「国語教育の基礎理論(その1)」をめぐって討議した。
話し合いの要点をまとめて報告するので、異論のある点は、次回の会合で問題にしてほしい。
1) 言語・コトバの働きをどう考えるか。
正しい国語教育=正しい言語観  (以下省略)
① 言語は社会的な存在である。(以下省略)
② 個人は、言語を習得することにより人間として成長していく。(以下省略)
③  コトバは、認識・思考・行為において重要な役割を果たす。
○「コトバのアミ」と「認識のアミ(認識体系)」は同じか否かが議論になったが、結論は出ず。
(以下省略)
④ 一読総合法について。
○言作品(文学・説明文)の製作過程・<客観世界の創造的反映>については。異論が出された。
(以下省略)

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.2(1967.10)>より
 第9回例会から
○確認しあった点(以下省略)
○疑問点(以下省略)
◆参考
 ヴィゴツキー著『思考と言語』(明示図書)の第4章から引用。(以下省略)

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.3(1967.12)>より
第10回例会から
 授業者 東大阪市立楠根小学校 林田 哲治
 教材 住井すえ作「テレビとうま」(「はぐるま」中学年用)
 日時 11月29日(水)午後2時~
 児童 4年5組 44人
 討議の司会 大阪市立歌島中学 角田 毅
(以下省略)
第11回例会案内
とき 12月9日(土)午後2時~5時
ところ 大阪府教育会館 4階第3会議室
内容 「国語教育の基礎理論(その1)」の検討
(以下省略)
第12回例会および新年おしゃべり会の案内
期日 1968年1月6日 午後1時~4時
会場 東大阪市民会館
親睦会は事務局宅(林田)5時~8時
詳細はいずれ後日。 (以下省略)

✪『大阪児言研』の機関紙が発行(第1号 1971年4月)されるまでは、以上のように、
 児言研大阪サークルの事務局通信で、議論内容や報告者の資料を、報告していました。
組織についての記述は事務局通信7号で報告されたのが最初のようです。

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.7(1968.4)>より
 第14回例会の報告(理論、実践)、(内容は省略)
 о読みの基本作業について 林田哲治
 о低学年における表象形成 東大阪市立弥栄小一読グループ:倉本政太郎

 ◎中学・高校グループが誕生。
  角田 毅(歌島中)、広瀬省三・鷹野克己(岸和田高校)の3人で出発。
 ✪ 会の組織の確立について ✪
   私たちの「児言研大阪サークル」は、去る3月で満1歳になり、これから「ひとり立ち」しなければならない時期にさしかかりました。そこで、先日有志が集まって会合を開き、下記の事項
について協議しました。
1、 事務局の仕事を、誰かが代わってやるかどうか。
2、 常任委員会の人選と役割。
3、 会費の徴収(主として郵送料)の件。
4、 例会の回数と内容。
5、 会計係の設置。
6、 雑誌の送付方法。
7、 他の研究会(東京、組合、他サークル)との交流。
以上の件につき、一応の原案ができたので、次の例会で提案し、みなさんの承認を得たいと思っています。

第15回例会案内、5月11日(土)午後2時~5時、東大阪市民会館、
  ○入門期の指導(実践報告)
  低学年 東大阪市玉美小 佐々木鈴枝
  高学年 豊中市立北丘小 新開惟展
  中学校 大阪市立歌島中 角田 毅 
 第16回例会案内(理論研究)、5月31日(金)午後6時~9時、東大阪市民会館、

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.8(1968.5)>より
<<大阪サークルの組織と運営>>
(第15回例会で承認されたこと)
1、 事務局 東大阪市中小阪310-1 林田哲治(東大阪市立楠根小学校 788-6000)
2、 常任委員 林田、新開、森川、倉本、杉山、角田、広瀬、鷹野
(毎月1回の定例会で、会の運営と例会の内容を決める)
3、 会計 倉本政太郎(東大阪市立弥栄小学校)
4、 会費 年300円(ただし、会員制度はとらない。郵送料その他、会の運営に必要な費用を助けて
もらうためです。数回出席して、会が気に入ったら、通信費として収めてください。)
5、 例会 月2回を原則とし、そのうち1回は授業や実践報告、1回は理論研究とする。
6、 他の研究会との交流 東京、組合、他のサークルへ代表を派遣する。

○エ○ト○セ○ト○ラ
○こんど大教組で、学者と現場代表によって「教育課程編成委員会」が結成され、自主編成に積極的にとりくむことになった。国語の分野では、土部・佐古田先生と林田・新開と松川さん(堺)が
参加する。
○名古屋グループが精力的にとりくんでいる。5月の研究日程は次のとおり。
 5月2日 低学年の物語文でよいものはどれか。
  10日 中学年  同上
  17日 コトバの規定性を追って。
  24日 一か月のまとめと今後の歩み方。
○第15回例会は、34名の参加があり、盛会でした。第16回例会:5月31日(理論研究)の会場は、150人収容の部屋ですので、ふるって参加してください。
 レポーターは次の人たちです。
 角田 主体読み、創造の読み。
 倉本 ひとり読みと共同思考による授業。
 新開 表現読みとその位置づけ。
○第17回例会は、弥栄小学校の倉本さんが2年生の文学の授業を公開してくれます。ご期待ください。
 とき 7月3日(水)午後1:30~4:30
○大教組主催の第3回国語教育研究集会で、児言研理論を紹介するために林田が実践報告します。
 この分科会には、いろいろな立場の意見が持ち寄られます。たいへん勉強になるので、ぜひおいでください。
 とき 6月15日(土)午後2時~5時
 ところ 大阪府教育会館

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.9>より
○第18回例会(忘れないように、手帳に書いておきましょう。)
 とき 7月30日(火)13:00~17:00
 ところ 東大阪市民会館(近鉄奈良線 永和駅下車すぐ)
 内容 1、表現読みについて。
    2、教材研究をどう進めるか。
     テキストは『国語教育の基礎理論(その1)。こちらで用意します。
 レポーター 新開惟展(豊中、北丘小)、杉山正治(寝屋川南小)、森川紘一(大東、四条北小)
       鷹野克己(岸和田高)。

◆ あなたも総学習・総抵抗運動にとりくもう ◆
 日教祖では、新教育課程に対応して、組合員の総学習・総抵抗運動に取り組むことになりました。
そのための学習会を、大教組は次のように組織します。
 7月6日 国語教育委員会討論集会。府教育行く会館。提案は新開さん。
 7月9日 南河内ブロック集会、(以下省略)

<機関紙から(21)>

<『児言研大阪サークル』事務局通信No.10(1968)>より

✪ 大阪サークルの新研究方針 ✪
 アカデミー反省会のあと、9月以降の研究方針が話し合われ、激論のすえ、次のような新研究方針をたてました。次の例会で賛否を問い、承認されればただちに実施していきたいとお子います。

1、 研究の長期(1年間)計画をたて、全員がそれに取り組む。(個人研究は自由)
テーマは、{文学の読み}とし、グループごとに研究をすすめて、来年の夏その成果を発表する。
(発表会の規模は未定)
2、 グループ編成は、小学校低・中・高、中学・高校の4つとし、それぞれの責任者を中心に研究を
すすすめる。
3、 グループの責任者は次の4名とする。
小低 倉本政太郎(東大阪,弥栄小学校)
小中 林田哲治(東大阪、楠根小学校)
小高 新開惟展(豊中、北丘小学校)
中学・高校 鷹野克己(岸和田高校)
4、 各グループは輪番で、毎月の例会に研究結果(中間報告も可)を報告する。
5、 毎月1回、例会とは別に理論研究会をもつ。
6、 理論研究会は、常任委員および特に希望する者によって構成し、大阪サークルの理論的向上をはかる。(上記の人以外には、案内状を送らない)
7、 当面の研究方針
1) 各グループは「全員が授業をする」という前提のもとに、グループでの共通教材を選定する。
2) グループごとに教材研究を行い、その結果を全体で話し合ったうえで、授業に取り組む。
3) 全員が授業記録をとり、それをもとにグループで話し合う。
4) 授業公開も積極的に行う。
5) 理論研究は、さしあたって『文学の読み』(基礎理論・その2)から始める。

<お知らせ>
 今後は、会場を教育会館に移すことにしました。会場費が毎回必要になるので、
協力費をまだ出していない人はこの機会にぜひお願いします。

 <事務局通信No.11>より
  {新研究方針 承認される}
    去る9月7日の第19回例会で、新研究方針がすべて承認されました。
従って、次回からは「文学の読み」をテーマにし、来年夏の発表会をめざして、
グループ研究を進めることになりました。
まだ申し込んでいない人は、早くどのグループに参加するかを知らせてください。

<事務局通信No.13(1969年)>より
○ 1968年12月27~29日の3日間、千葉県岩井海岸で文学と文法についての
合宿研究会があります。大阪からは、林田・新開・広瀬の3人が参加します。他に希望
する人があれば申し出てください。宿舎に余裕があれば、一緒に参加したいと思います。
○ <全国教研に新開さんが正会員で参加>
本年度の日教組教研全国集会は、1月25日から4日間、熊本市で開催されますが、大阪の正会員として新開さんが選ばれました。昨年の亀山さんに続いて、児言研会員の“連続出場“というとこ
ろです。今年は、「文学の読み」をテーマにした、大教組国語研究委員会での研究成果を持っていくことになっています。(なお、全国集会に参加する人は事務局まで一報ください。)
✪東京からは、小松善之助先生が正会員で参加されます。テーマは「説明文の読み」です。

<事務局通信No.14>より
 2月の会合
 低学年部会 とき 2月15日(土)14:30~
       ところ 東大阪市立玉美小学校
       内容 倉本政太郎「子うしの話」の授業記録の検討。
 中学年部会 とき 2月18日(火)14:00~
       ところ 東大阪市立楠根小学校
       内容 林田哲治「ききみみずきん」の授業研究。
 高学年部会 とき 2月8日(土)14:00~
       ところ 豊中市立庄内南小学校
       内容 壺井栄作「あたたかい右の手」の教材研究と立ち止まり教材印刷。
 中学・高校 とき 2月22日(土)14:00~
       ところ 未定(後日、連絡。問い合わせは岸和田高校 鷹野克己まで)
       内容 スミルノフ主監『ソビエトの教科書 心理学』の輪読。
 
◆ 大阪児言研 第1回合宿について ◆
1、 日時 3月28日13:00~29日正午
2、 講師 菱沼太郎先生(28日のみ)(東京の事務局を一日だけ休んでもらいます。)
3、 会場 東大阪市「枚岡山荘」
4、 会費 1300円(2食つき)。宿泊しない場合、1日300円(食事は別)
5、 常任委員会 29日午後から行う。(一般の参加も歓迎します)

<事務局通信No.15(1969.3.30)>より
 合宿の成果
 ・・(略)・・第1回合宿研究会は、19名の参加者を得て、・(略)・、69年度の研究をしめくくるにふさわしい会合になりました。報告者も9名というにぎやかさで、時間の足りないのが
残念でたまらないほどでした。以下にそのあらましを報告します。(省略)

 第23回例会の案内
 とき 4月19日(土)14:30~17:00
 ところ 大阪府教育会館 1階2号室
 内容 1、熱海合宿の報告 ・(略)・
    2、共通教材の選定・(略)・
    3、大久保忠利先生來阪の件
    4、会の運営について

◆ 本年度の最大目標は“時間厳守”です ◆(時間を守りましょう!) 

<事務局通信No.16(1969.5.3)>より
 大教組主催 国語部会と外国語部会の合同学習会
 とき 5月17日(土)14:00~17:00
 ところ 大阪府職員会館4階第2講堂(府庁の裏)
 テーマ コトバの働きと言語教育
     -イデオロギー攻撃と対決するための正しい言語観の確立をめざしてー
 講師 大久保忠利(都立大)
 内容 ○言語とは何か
    ○言語の習得と認識・思考との関わり
    ○文法教育と認識・思考の働き

第25回例会の案内
 とき 5月18日(日)10:00~16:00
 ところ 大阪府教育会館 1階
 講師 都立大学教授 大久保忠利先生
 テーマ テキスト『国語・文学教育とコトバの心理』
 内容 1、講話 国語教育と言語に関する諸問題
     大阪サークルからの質問「国語教育の課題」「国語教育の研究方法」「言語活動の本質」「表象と認識」「虚構、テーマをどう考えるか」などにふれていただく。
    2、質疑
    3、文法指導のプランをめぐって(プラン提示:岸和田高校・広瀬)
 参加費 200円
 備考 ○参加者は必ず『国語・文学教育とコトバの心理』(大明堂)を読んでくること。
    ○遠方からの参加者には、宿舎の世話をします。

<機関紙から>(22)

<事務局通信No.18(1969.6.2)>より
                         (発行:児言研大阪サークル事務局)
{佐多稲子さんを囲む会}
 各部会が開かれる6月7日(土)の夜、檜山さんのお世話で、「水」(注:中学・高校部会の教材)の
作者、佐多稲子さんと「作品を語る会」を持つことになりました。中・高部会が主体ですが、他の部会の希望者も参加できるようにしたいと思います。とくに中・高部会の方は、ふるって参加して
ください。
<参考文献>
 1、「はぐるま」指導の手引き(第2集)
 2、『国語教育』(明治図書)No.112, 西郷竹彦「文学の理論」。
 3、『教育国語』(麦書房)No.1, 佐多稲子「狭い庭」の授業記録を読んで。
 

<大阪児言研 中学年部員殿>       (大阪児言研事務局、1969.6.11)
 
 授業研究会のお知らせ
 このたび、下記要領にて中学年部会の授業研究会を開催することになりましたので、ぜひご出席くださるようお願い致します。

と き  6月16日(月)14:00~17:00(時間厳守)
ところ  東大阪市立楠根小学校 林田学級
教 材  「テレビとうま」
(以下省略)

<大阪児言研 高学年部員殿>  (大阪児言研事務局、1969.6.17)

 授業研究会のお知らせ
高学年部会の授業研究会を、下記の通り開催することになりました。何かとおいそがしい折ですが、
ぜひご出席ください。

と き  6月25日(水)14:00~17:00
ところ  東大阪市立弥栄小学校
授業者  藤岡俊永
教 材  「ベロ出しチョンマ」(「はぐるま」第2集)
学 年  5年生
(以下省略)
<拡大常任委員会のお知らせ>
 各部会での教材研究が一段落ついたところですので、その報告会を持ちたいと思います。常任委員と
各部会の責任者にお集まりいただいて、研究の進展状態を知り、今後の研究の方向やスケジュールについて協議したいと思います。ぜひ(必ず)お集まりくださるようお願い致します。
 と き  6月20日(金)17:30~20:30
 ところ  府教育会館(会場がとれないときは、新館4階のロビーでやります。)
 案 件  1、各部会からの報告。
      2、意見交換。
      3、今後のスケジュールの確認。
      4、夏季集会の講師、助言者の人選について。
      5、その他。

<事務局通信No.19(1969.6.29)>より (児言研大阪サークル事務局)
 7月の会合について
低学年部会
 と き  7月4日(金)13:50~
 (以下省略)
中学年部会
 と き  7月7日(月)13:50~
 (以下省略)
高学年部会  
 と き  7月25日(金)13:00~
 (以下省略)
実践検討会
 と き  7月27日10:~16:00
 ところ  東大阪市民会館
 内 容  ○各部会の実践検討。
      ○自主教材のリスト作成(候補作品を持ち寄る)。
 東京から菱沼太郎氏が来てくださることになりました。

○第6回夏季アカデミー(東京)について
 今年も、夏季アカデミーが東京で持たれることになりました。・・(略)・・、法政大学の野林正路
先生が文法のパネルに参加されます。
 期日は、8月11,12日、会場は都立大学です。・・(略)・・。
◎関西集会について
 大阪で開催する関西集会も、各部会の研究を中心にして、着々と準備が進んでいます。東京からは、
小林喜三男さん、林進治さん、小松善之助さん、菱沼太郎さん、松山市造さん、田島伸夫さんをはじめ、若手の活動家も数名来阪される予定で、・・(略)・・、地方の児言研の人たちも提案や司
会で協力してくださいます。
こうなると、受け入れ側がぼやぼやしていられません。ぜひ、会員の協力をお願い致します。研究推進は
もちろんのこと、会の運営や会場の準備、印刷物の作成、参加者の世話など、たくさんの人の協力が必要です。集会は8月の20日すぎになる予定ですので、必ず体をあけておいてください。くわしい
日程は
1週間以内にお知らせします。
 (以下省略)

<児言研関西集会のご案内>
児童言語研究会 関西集会事務局
テーマ 国語教育の理論と実践を深めよう。
~指導要領の非科学性を打ち破るために
内 容 1、国語教育の現状と児童言語研究会の果たす役割
児言研常任委員長  小林喜三男
    2、一読総合法による文学教材の読み
基本提案 文学作品の読みをどう考えるか  大阪・豊中北丘小 新開惟展
分科会提案(実践報告) 
 小・低学年 「かわいそうな ぞう」 東大阪市・弥刀小 長谷川英子
 小・中学年 「テレビとうま」    大東市・四条北小 森川紘一
 小・高学年 「ベロ出しチョンマ」  大阪市・巽小 倉本政太郎
 中学・高校 「水」    大阪府立岸和田高 鷹野克己
     3、新児言研文法の理論と実践
生成文法の考えをとり入れて、認識・思考の発達をはかる文法の取立て指導
基本提案    東京・学習院小学部   松山市造
実践プラン   大阪府立岸和田高 広瀬省三
     4、一読総合法による説明文の読み
   基本提案    東京・矢口西小     小松善之助
       実践報告   「水害を防ぐくふう」  名古屋市・大宝小 井戸克己  

日 程  8月23日(土)24日(日) (詳しい時間割は省略)。
場 所  東大阪市民会館 (以下省略)

分科会助言者  (上記6人のうち、林進治氏をのぞく5人。)


申し込み  会費300円(資料代・会場費など)をそえて、下記に申し込んでください。
大阪児言研事務所(略)、または、東大阪市立楠根小学校:林田
(以下省略)
<関西集会をめざしての学習会・準備会および当日の役割について>

すでにご承知のとおり、来たる8月23・24の両日、児言研としては初めての関西集会を開催します。
そのため、大阪サークルとしては、発表内容の検討や前日までの役割、さらには当日の各人の役割に
ついて十分話し合っておく必要がありますので、下記のような集会を企画しております。休み中の貴重な時間をさいていただくのは大変申し訳ありませんが、集会を成功させるために、ぜひご協力
ください。

7月22日 (以下省略)
7月24日 (以下省略)
7月25日 (以下省略)
7月27日 (以下省略)
(未定 中学・高校部会、文法班)
8月11・12日 (以下省略)
8月14日 (以下省略)
8月21・22日 (以下省略)

お願い (以下省略)

当日の役割 (以下省略)

◎集会の定員は120人です。そのうち他府県からの参加者を除くと、大阪サークルだけで80~90名の
 参加者を確保する必要があります。1名でも多くさそってください。
以上
<第2回実践検討会および「関西集会」打ち合わせについて>
児言研大阪サークル事務局
 大阪サークルの真価を問う「関西集会」も、あと十数日に迫ってきました。・・(略)・・
下記要領にて開催しますので、ぜひご出席くださるようお願い致します。

と き  8月14日 ごご1時~5時
ところ  大阪府教育会館 旧館4階第3会議室
内 容  (以下省略)

常任委員のみなさんに
会の終了後、常任委員会をもちます。
案件 (以下省略)
日程および役割表(23日・24日の分きざみの日程表および役割分担表は省略)
<拡大常任委員会について> (1969.8.25)
児言研大阪サークル事務局
 みなさんのお力添えで、「関西集会」は好評裡におわりました。表方・裏方をとわず、献身的にご尽力
くださったことに事務局として深く感謝いたします。
(以下省略) 下記の件について、討議したいと思います。学期初めで何かといそがしいとは思いますが、ぜひ参加してください。

と き  9月6日(土)ごご2時~5時
ところ  大阪府教育会館 1階1号室
案 件  1、今後の研究方針(研究組織を含む)。
 2、今後の運営方針(研究会の持ち方)。
 3、研究分担について(各自の所属・役割の決定)。
 4、関西集会の会計報告。
 5、その他。



お願い
 上記1,2について、あなたのプランをまとめてきてください。           

<機関紙から>(23)

<事務局通信No.20>(1969)より 児言研大阪サークル事務局
 
第26回例会について
と き 9月27日(土)14:00~17:00
ところ 大阪府教育会館(上本町)
テーマ 文学の授業で何を教えるか ~「かわいそううなぞう」をめぐって~
提 案 低学年部会
    
さる8月23,24日の「関西集会」で、わたしたちは5月以来各部会で積み上げてきた
研究の成果を、各地の児言研の仲間に批判してもらいました。しかし、時間の関係で十分話し合えなかったことがらや、助言者や一般参加者から新しく提起された問題がかなり残っています。そこ
で、低学年部会をわずらわせて、「かわいそうなぞう」の教材を中心にしながら、特に、「何を教えるか」を問題にしていきたいと思います。
 この「何を教えるか」という問題は、「どんな教材を選ぶか」「どう教えるか」にかかわる大事なことがらです。前者をぬきにして後者を語ることはできません。この問題は、すぐれた実践を生
み出す原点であるといえましょう。ぜひ、おいでください。
 なお、教材と関西集会のレジュメをお持ちの方は必ず持参してください。

{盛会だった関西集会}
 大阪サークルの総力を結集した関西集会は、当初の予想を上まわる125名もの参加者を得て、盛会のうちに幕を閉じました。思わぬ盛会に悲鳴をあげたのは裏方の人たちです。資料は足りるだ
ろうか、椅子をよぶんに借りなくてもよいのだろうか、食堂にみんな入れるだろうか、
分科会の会場はせまくないだろうか、といろいろ心配ごとが次つぎと起こってきました。しかし、どうやら参加者にたいした迷惑をかけないですんだので、ほっと胸をなでおろしました。
 他府県からの参加者が多かったのも意外なことの一つでした。東京は別として、愛知、京都、
兵庫、和歌山、島根、高知などから約40名の参加者があり、関西集会を意義あらしめてくれました。事務局への反応も「こんなに近くで東京の先生方の話を聞けるのはありがたい。」「充実した
内容で満足している。」「自分の近くにこんなにたくさんの仲間がいることを知って心強い。」
「これからも継続して開催してほしい。」など、うれしい声がたくさんありました。
 もう一つうれしいことがあります。それは、この集会に発揮された大阪サークルのチームワークです。各部会での研究活動や、めんどうな諸準備が、それぞれの担当者の手でまったく見事に進め
られていきました。また、当日の運営についても、各係りが自主的に、自分の仕事や突発的
できごとをうまく処理してくれました。おかげで事務局は、カメラをぶらさげて会場をぶらついたり、受付の横でのんきにタバコをふかしていることができました。
 驚いたことが一つあります。それは、本の売り上げがほぼ6万円に達したことです。これは、集会に参加した人がいかに研究熱心であるかを如実に示しています。しかし、それだけに、図書販売
係りのご苦労はたいへんだったなと感謝しています。
 もう一つ、近接府県との結びつきも新たにできました。西宮の瓦木小学校からは、大阪の会合にこれからも参加したいから12名分の案内を送ってほしいとの申し出がありました。名古屋と
和歌山からは、こんど集会を持つときは、ぜひ大阪からも参加してほしい、との話がありました。
これを機会にして、関西の児言研が互いに研究を交流して、より一層の進歩をとげるようになればすばらしいな、と思っています。


{新研究方針きまる}
 9月6日の拡大常任委員会で、関西集会以後の研究方針や運営方針を次のように決定しました。
本来なら、例会で提案して、会員の承認を得なければいけないのですが、その機会がありませんので、一応テストケースとして3月までこの方針ですすみたいと思います。なお、これについてのご
意見があれば、遠慮なく事務局に申し出てください。
 
1、 研究内容
1) 文法 文法班を中心に「新児言研文法」のプランづくり、実践の研究を推進する。
2) 理論 新たに「理論研究班」を設け、言語理論・認識論・文学論・文法論などを学習する。
3) 実践 主として「文学の読み」を追究する。ただし、文法班の研究が進んでくれば、文法の実践もみんなで取り上げる。また、希望者があれば、「説明文の読み」も研究を推進してもらう

2、 研究機構および責任者
        о例会(林田)
        о理論研究部会(新開)
◎常任委員会――о文法研究部会(広瀬)
        о部会 小低(長谷川)
             小中(森川) 
             小高(倉本)
             中高(鷹野)
  ――о事務局(林田)
  ――о会 計(倉本)
3、 運営について
1) 例会は原則として月1回開催する。
2) 理論研究部は希望者をもって組織し、毎月1~2回、時には合宿の会合をもつ。
3) 文法研究部は、当分の間、理論研究部と共同で研究を行う。
4) 部会は、各責任者が必要と認めて場合、あるいは、常任委員会の要請によって適宜開催する。

{理論研究部の新設について}
今度新しく「理論研究部」をつくりました。正しい理論を身につけることなしに、すぐれた実践はできません。児言研が今日まで発展してきたうらには、会員の徹底した理論研究があったからです
。大阪サークルも、今後一層の躍進をとげるためには、もっともっと理論武装する必要があります。また、これまでは本部から出た「基礎理論」をテキストに使っていましたが、これからは「自主
教材」で勉強していきたいと思います。
あなたも、ぜひ参加してください。
参加について
これまでの理論研究会は解散します。新しい理論研究部に参加される方は、事務局に申し出てください。参加資格は一切ありません。熱意さえあればどなたでも参加できます。
なお、締め切りは9月27日の第26回例会までとします。第1回理論研究部会当日においでくだされば、テキストをお渡しします。無料です。
<下記の本をお持ちの方は、必ず読んできてください。>
 о旧『児言研国語』第3、4、5、7、号
 о『児言研国語』No.4(通巻17)
 о「文法教育の基礎資料(その1)」
 о「国語教育の基礎理論(その2)」

<第1回 理論研究部会>
と き 10月9日(木)17:00~20:30
ところ なにわ会館(もと浪速荘) 3階和室
テキスト 『新言語学と文法教育』野林正路著 (広瀬さんが用意する)
リポーター 広瀬省三(岸和田高校)

第2回理論研究部会
日 時 11月15日(土)14:00~17:00
場 所 大阪府教育会館(上六)
テキスト 野林正路著『新言語学と文法教育』
     5ページ「文法の基準は意味ではない」から学習します。第1分冊は、最後まで読んでおくこと。第2部分冊は、まだもらっていない方には、当日お渡しします。

 (現在、部会員は26人。第1回参加者は11人。
   о無断欠席が3回続くと、学習意欲が無いものと判断し、部会員からはずします。
    部会員は、休まれるときには、必ず連絡してください。
   о学習範囲は必ず読んでおいて、疑問点をはっきりさせておいてください。
    あいまいなままほっておかずに、納得がいくまで話し合いましょう。
   о文法理論学習を5回ほどで終わって、次は認識論をやりたいと考えています。
    よいテキストがあれば、お知らせください。)
第3回理論研究部会
日 時 12月6日(土)14:00~17:00
場 所 大阪府教育会館(上六)
テキスト 野林正路著『新言語学と文法教育』
     第2分冊の最初から31ペ「音声過程」まで。前回欠席された方は、第1分冊を最後まで読んでおかれること。
いよいよ、具体的に生成文法の説明にはいってきました。請う、ご期待!
『文法教育の基礎資料(その1)』を、お忘れなく、ご持参ください。
(現在の理論研究部会は、文法研究部と提携して行っていますので、報告者は広瀬さんです。
 いろいろ質問して、広瀬さんから知識をぬすんでください。)

<機関紙から>(24)

<事務局通信 No.21>より  児言研大阪サークル事務局
{第27回例会}
と き 10月25日(土)14:00~17:00
ところ 東大阪市立八戸の里小学校
テーマ 文学の授業で何を教えるか~「ベロ出しチョンマ」をめぐって~
提 案 高学年部会:橋本 馨、藤岡俊永
<予想される問題点>
оこの作品を積極的な「抵抗の文学」とみるか。 
о主人公の長松をどうみるか。
оこの作品を教えるにあたって、予備知識を与える必要があるか。
о以上を包括して、この作品で何を教えるか。
✪各自で問題を持ってきてください。

{第27回例会の報告} <事務局通信 No.22>より
橋本さんの報告内容
о教科書よりも良い教材を与えたいと思った。ねらいとしては、「『はぐるま』指導の手引き」の中の“支配者の理不尽な弾圧に対する抵抗”が当てはまると思った。
о長松の生き方と当時の庶民の生活、差別や弾圧の中で名主や農民がいかに苦労をしたか、ということに重点を置いて読み取らせたかった。また、村人の抵抗から長松を浮かび上がらせようと思った。
藤岡さんは、「補説」について報告した。
оプリントした語句(内容は省略):年貢、殿様、名主、出府、一揆の罰、ひきまわしの裸馬、
非人、社、縁日。
{討議のあらまし}
◎作中人物を評価する際に、押さえておかなければならない原則的なこと。
о人物の行動・考えをどう評価するか(読み手の感想・意見)。
о表現の中で、作者がどう価値づけているか(作者の価値づけ)。
これらのことは、児童の話し合いの中で、分けて考えなければならない(教師が整理する)。
о長松について(省略)
о村人について(省略)
◎補説について
о国語辞典(児童用)でわかる事柄については補説の必要は無いが、百科事典的な知識は補わなければならないことがある。
о教師の主観的な解説や必要以上に専門的な知識は不必要である。
о読み取りの過程で出すことが望ましい。プリントして初めに与えることは、まずい結果を生む。
о作品の時代背景を取り立てて教える必要は無い。作品に出てくる語句に即して解説する方が
よい。
о当時の役職を「今の○○」というように現代の役職を例示することは、かえって、正確な理解
(表象・イメージ化)をさまたげるのではないか。
о非人の仕事、与えられた位置・社会的役割を明らかにすることも必要だろう。

<第26回例会の報告>
例会では、関西集会でとりあげた「かわいそうなぞう」の問題点を、低学年部会から報告してもらうことから始まりました。とくに問題となったのは、この作品が思想を強調しているかどうかということでしたが、「戦争反対」の思想を教えることについては、参加者全員が賛成の立場をとりました。
以下に、討議のあらましを報告します。
оこの作品に表現されている「戦争反対」の思想は積極的に教えたい。
о補説が必要になる二つの場合 
① 説明が不十分であるか、まったく抜けている場合。
② 表現が難解な場合。
о戦争というテーマ(戦争否定)は低学年でも扱うべきだ。低学年でも戦争の悲惨さは感じ取ることができる。
о「ぞうがかわいそうだ」ということだけで終わってはいけない。ぞう使いの気持ちにまで入っていかなければいけない。
оとくに補説しなくても、この作品から「戦争否定」の思想が生まれるのではないか。
о補説のしすぎはいけないが、子どもから出てきた疑問は解決しないと次に進めない場合が多い。
о『教師のはぐるま』にあるような、読み取りの中で「ベトナム戦争反対」と叫ばせるような授業は
納得できない。「今の自分たちは大声で叫べる」という反応の仕方・読み方は問題だ。
о思想注入の授業も、作中人物の心情だけを重視する授業も、児言研としては否定する。

<事務局通信 No.23>  大阪児言研事務局
 
第29回例会のお知らせ
と き 1月6日(火)10:00~17:00
ところ なにわ会館
内 容 1、文学教育をどう考えるか  鷹野克己(岸和田高校)
    2、宮沢賢治作「注文の多い料理店」の実践報告  新開惟展(豊中・北丘小)
о虚構の問題に触れて

鷹野さんの報告は、12月26~28日に、熱海で行われる児言研合宿研究会で発表されるものです。
新開さんの報告は、『国語教育』131号(1969.9)(明治図書)に掲載されたものです。
日教組全国教研(熊本)で提起した「文学作品で、何をどう教えるか」が商業誌に注目されたのです。
{第19次 全国教研について}
日教組第19次・日高教第16次教研全国集会が、来年2月7日から4日間、岐阜市で開催されます。
大阪からは、正会員として、新開さんと下橋さん(吹田高校)が、昨年に引き続いて出席します。
テーマは、「文学作品で何をどう教えるか」。内容は、
о「読み方教育」と私たちの「文学の読み」との違い。
о形象の読み取りとはどんなことか。
о虚構をふまえた読み。
о状況を認識する目をどう育てるか。
などが中心です。
大教組は、『研究報告』として冊子にまとめる予定です。出来上がるのは、来年2月ごろ。

(以上の外は省略する。)

<機関紙から>(25)

<事務局通信 No.24>より  (児言研大阪サークル)
 
{第30回例会のお知らせ}
 と き 1970年2月21日(土)14:00~17:00
 ところ 東大阪市民会館(西公民館)2階第2集会室
 内 容 「スーホの白い馬」の教材研究(『はぐるま』2集の2.大塚勇三再話)
     о教科書(光村2年下)との比較
     о教材分析
 報告者 長谷川英子(東大阪市弥刀小。低学年部会)

 ◎「作品をどのように教材分析するのか」という問題は、児言研ではまだ解決できていません。
  このことを念頭において、「スーホの白い馬」を具体的に「教材分析」しながら、「教材分析・教材化」について話し合いたいと思います。

 {第29回例会}から。
 提案1、「文学教育」をめぐって  鷹野克己(岸和田高校)
① 教育をとりまくもの。
文学は素朴なイミで教育的、感化的機能をもっている。文学を教育の中に持ち込む場合、
「何のために、何をめざして、何をこそ、どう教えるべきか」をふまえなければならない。
この大前提をぬきにして教えると「技術主義」に陥ってしまう。
 教育の目的は、人間が、自己を含めて、存在を正確に確認することであり、それによって、
未来にどう働きかけるかという方向づけをしなければならない。しかし、現在の社会体制では
それが非常にやりにくくなっている。政府・独占は、すべてを自己の体制内におさめるため、
教育の中に徹底した差別・選別方式を押し付けようとしている。その中で、「内部と外部をヴィヴィッドに対応させ得ない人間、対象化の視点を持てない人間、本質と現象の脈絡がつかない人間」
が多くなってきている。
② 「文学による教育」をどう考えるか。
 教育にひきつけて考えれば、「人間や人生を体制順応主義的な目で把握するのではなく、さまざまな願いや欲望を持った人間が、自己の置かれている状況の中で、悩み、苦しみながら精一杯生きていく姿を理解させ、そのことによって現実を鋭く見抜く力を持った人間を育てるものでなくてはならない。また、真実や美に感動し、それを尊ぶ人間や、強い連帯意識を持った人間を育てるものでなくてはならない。」(第18次日教組教研、大阪レポート)、ということになる。
 文学にひきつけて考えれば、「文学を読ませるということは、このねらいがすべてではなく、
文学を教える一部でしかない」と考える。

③ 文学の教育。
 先のことを実現するには、「文学を文学として読む」ことを教えなければならない。そのため「
には、「コトバと人間」「コトバと認識行為」「文学におけるコトバの機能」「想像力の問題
(イメージ、表象を含む)」「虚構」「同化・異化」などを問題にしなければならない。
 なお、「反体制の教材を教えさえすればよい。」という考えがあるように思えるが、それはまちがっている。文学の表現と内容は分離して考えるものではない。教師の指導性と生徒の自発性をどう統一するか、ということは今後の課題であろう。

<話し合いの中から>
 о「内部と外部のヴィヴィッドな対応」が正しい認識に支えられていなければ危険が伴う。
 о「対象化の視点」とは、物語世界の人物や自己を対象化してとらえる力である。

提案2、「文学の授業で何を教えたか」 新開惟展(豊中・北丘小)
  (省略)

<話し合いの中から>
  оこの作品では、作品の本質に到達するための方法として「虚構」という視点を使っているが、
すべての作品にこの方法をあてはめるのはまちがい。作品のタイプによって、それぞれ有効な
切り込み方があるはず。
о「虚構」とは何か。その概念規定は、たとえば視点論の立場から、あるいは、現実の切り取り方
 (ルポルタージュなど)から、また、人物と状況とのからませあい(設定)などから考えることができるが、現状では的確に規定できない。
о書き込み、発言を活発にするためにはどうすればよいか。(発言や書き込みが多ければよく読めているということではない、との確認のもとに)
 ◉まず、国語科以外の授業・場面でも、
コトバに敏感に反応する子ども、
自分の意見を述べられる子ども、 を育てることを目指す。
 ◉子どもの発言をできるだけ認める。
 ◉教師が指名しなくても発言してよい、というルールを共有している。
 ◉ひとりごとの中で、今言ってしまいたい事があれば、指名して発言させる。

提案3、野林正路氏の「言語の内部構造の概念図」について 広瀬省三(岸和田高校)
   (省略)





<事務局通信 No.25>より
{本年度の活動方針} 
 さる3月26日の第31回例会で、本年度の活動方針を次のように話し合いました。次回の例会で確認したいので、熟読しておいてください。

1、 研究内容
① 文法実践プランの試作。
② 説明文の読み(基本的な考え方と指導法)。
③ 文学の読み(理論の実践化)。
④ 理論研究(「認識論」その他)。
2、 研究組織
① 例会(原則として月1回。参加資格は問わない=オープン)。
② 理論研究部会(月1回。会員中の希望者)。
③ 文法研究部会(適宜。   同上   )。
④ 学年・学校別部会(同上)→「部会」と呼ぶ。
低学年部会(原則として小学校1,2年の担任)
中学年部会(  〃     3,4年 〃 )
高学年部会(  〃     5、6年 〃 )
中学・高校部会( 〃  中学・高校に勤務している人)
⑤ 地域・学校単位の研究会(自主的な集まり)
3、 運営・役割
① 常任委員会:会全体の運営および計画立案、例会の司会、各部会の援助などに当たる。
② 事務局・会計:常任委員に中より選出。会の運営の世話、会費の徴収・保管に当たる。
③ 会費:健全財政確立のため、会費を徴収する。会員は特別な会合(関西集会など)以外は無料。
④ 会員以外の参加:例会などに参加された人からは、そのつど会費をいただきます。
⑤ 役割(一部交渉中)
事務局 林田哲治(東大阪・楠根小)東大阪市中小阪310-1
会 計 倉本政太郎(大阪東部・巽小)
    長谷川英子(東大阪・弥刀小)
常任委員(上記3名のほか)
    新開惟展(豊中・北丘小)     森川紘一(大東・四条北小)
    広瀬省三(府立岸和田高)     鷹野克己(府立岸和田高)
    藤岡俊永(東大阪・弥栄小)    池下育三(松原・天美小)
    丸山正昭(西大阪・四貫島小)   高田すが枝(北河内・四条畷小)
    若狭節子(門真・大和田小)    高谷安英(摂津・三宅小)
⑥ 会合責任者
 例会:林田哲治(勤務校、略)
 理論研究会:新開惟展(自宅、略)
文法研究会:広瀬省三(自宅、略)
各部会:部会で話し合って決める。
4、 会費
会員:年額600円(分割払いも可、ただし年単位)。
会員外:例会ごとに50円。

 {部会の編成について}
  о新年度を迎えて、担当学年が変わったと思います。新しい担当学年で部会を編成しますので、
   25日の例会には必ず参加してください。もし欠席される場合は、何らかの方法で事務局まで
   連絡してください。(25日か前日までに)
  о部会が例会を兼ねることもあるので、会員以外の人も登録しておいてください。
  о各部会の責任者は、25日に決定してください。
 
{理論研究会について}
 о次回の理論研究会は、4月18日午後2時~5時まで、教育会館で行います。昨年から継続して
きた「文法研究」の最終回になります。(以後の研究は、「文法研究部会」に引き継がれます。
о5月からの理論研究は、寺沢恒信さんの『認識論入門』(明治図書『現代教育科学』に6回にわたって掲載された)をとりあげます。私たちはよく「認識を高める」とか「認識を変革する」とか
 言いますが、その“認識”の中身をしっかりと把握する必要があります。大変わかりやすい内容ですので、尻込みせずに参加してください。
оテキストは、岡林さんの献身的な努力で、もう半分できあがっています。残りは、新開、丸山、藤岡、広瀬、鷹野の5氏が分担して、ガリ切にあたってくれます。完成すれば、紙代と原紙代の実費でお分けします。
о新年度の理論研究会の申し込みは、新開または林田までしてください。(他の常任委員を通してでもかまいません。)

{自主的な研究会について}
 地域や学校単位で児言研の一読総合法や文法指導、あるいは、理論研究などの研究会を持たれる
場合は、ぜひ事務局か常任委員に知らせてください。できるかぎりの協力をさせてもらいます。
費用の心配はいりません。私たちは、いろんな場所で自主的な研究会が持たれることを望んでいます。


<第31回例会の報告>
 例会は1年間の反省をこめて、実践報告や座談会を企画しました。兵庫県の瓦木小学校から筏さんをはじめ5名もの参加があり、大阪勢が圧倒されるほどでした。大阪の参加者は(春休みで旅行しているのか、それとも、座談会がおそろしい?ためか)、11名しかなく、寂しい感じでした。
 以下に、概略を報告します。
1、 実践報告
① 「スーホの白い馬」(佐々木鈴枝 東大阪・意岐部小)
② 「ベロ出しチョンマ」(林田哲治 東大阪・楠根小)
(どちらも授業記録が中心ですので、省略します。提案のプリントがあるので、必要な人は
 知らせてもらえば、次回にさしあげます。)
③ 表現活動の指導(高野克己 岸和田高校)
оはじめ、個人の「書きなれノート」とグループの「書きなれノート」の2本立てでスタート
したが、個人の「書きなれノート」はいつの間にか立ち消えになり、グループの「書きなれ
ノート」(毎日1人が書き、回覧)だけが最後まで続いた。
о平行して、時間を特設し(学期に1回しかできなかった)、プリントにより、表現活動の
基本的な理解を図った。(内容は、主として、大久保忠利先生の著書から引用)
о指導内容(プリント)
① 表現活動をめぐって
◉書く必要と書きなれる必要について。
◉4原則(正しく、分かりやすく、切れ味よく、感じよく)。
② 話し方、綴り方、共同助言の重点。
③ コトバの網の図(大久保先生考案)と論理的思考をするための語彙(70語)。
 о「書きなれノート」は一行おきに書かせ、空いている行にグループ員の書き込み(助言)をさせた。初めは、なかなか書きづらいようだったが、しだいに抵抗なく書くようになった。
  第2段階では、「ねうちのあること」を書くように呼びかけた。
 оねらい:常時書かせることによって、思考を活発にさせる。論理的な思考力を育てる(共同助言も同じねらいから)。作文指導を、文学的批評から論理的批評へ。
 оテーマのはっきりした文章を書かせることを主眼にした。「題を決めて書け」と指示したり、教師が題を提示したり(「差別について」など)した。
④ 座談会(時間がなくて、一人一回の発言になった)
Ha о学級:忙しすぎて子どもたちに申し訳ないことであった。
   о研究:他者の研究を吸収する事の方が多かった。来年度は説明文と文法をやりたい。
Ta о授業で発言の整理ができず、いつも最後がピシッとしまらなかった。
         о「今日の授業を終えて」というプリント(生徒が書く)が自分の反省に役立った。
         оこれからは、「国語教育の全体像」を追究したい。
      Hi о一番力を入れたのは文法だったが、底の浅さが、生徒から質問されるごとに強く感じられた。特に、山田文法を学ぶ実用を痛感している。
         о来年から、「現代国語」が週2時間になるのがつらい。頭打ちしながらでも、一歩踏み出していこうと思っている。
      Ma оまだ1年目、会合に出て、わからないなりに発言してきた。
         о来年は、実践を深めながら、勉強していきたい。
      O  о「現代国語」は何をねらっているのかわからなくて、困った。
         о文法は、疑問をかかえながら児言研の会合に出て、自分の研究を深めたい。
      Si о理論的な研究が先行して、現実に子どもとぶつかるとうまくいかない。
          子どもを見つめなおす必要がある。子どもの自己主張と学級全体の協力とがあまり一致しなかった。
         о「文学教育」について、「何が」ということがわかりかけてきた。そういう意味では、腰がすわってきた感じがする。
      Fu о尻をたたかれながらやってきた、という感じだが、会合に出てよかったと思っている。
         о「作品研究」は、学校現場でもやれるが、たとえば、「民話とは何か」という一段高い観点から見ることができるようになった。
      Sa о今年は初めての1年生担任なので、はじめからやり直したい。

<機関紙から>(26)

<事務局通信 No.26>より
{各部の活動状況}
1、 文法研究部会
о今月の例会のあと、第1回部会を開きます。
о部会の構成メンバーがまだ確定していません。あなたもぜひ加入してください。
 学年・学校別部会からは、必ず1名以上の参加を要請します。特に、常任委員は、特別の事情がないかぎり、参加してもらいます。
2、 理論研究部会
о今月から新しく「認識論」の勉強をすることになっています。
 第1回の会合は、29日(金)の午後6時から、教育会館でおこないます。
оテキストは、寺沢恒信『認識論入門』です。前回までの「文法」に比べると、内容が理解し
やすいということで、前評判はかなりよいようです。
о参加希望者は、研究部長の新開か事務局の林田まで連絡ください。

{第32回例会}より
  学年初めということで、「一読総合法による読みの指導をどう始めればよいか」をテーマに、
① 児言研が目指す読み、 ②一読総合法をどのように導入するか、について話し合いました。
参加者は36名。兵庫県や奈良県からも参加があり、話し合いも活発におこなわれました。
◎報告の概要
1、 児言研が目指す「国語教育」「文章の読み」
1) 解釈学的な読みからの脱皮
戦前の名教師とうたわれた芦田恵之助の授業も、戦後の官制側指導者輿水・沖山の授業理論も、
また、民間側の一部サークル理論の授業も、垣内松三が構築した解釈学理論(形象理論)を受け継いでいる。その基盤にあるのは「己を空しうして読む」という「没個性的な読み」である。
戦前の軍国主義教育に貢献したこのような「読み方」がいまだに生き残っていることはうなずけない。
2) 言語についての正しい認識を
 戦前・戦後を通じて、このような誤った国語教育・読みが行われてきたのは、その根元にある
 「言語とは何か」という問題が不問のままに過ぎてきたからである。現代の諸科学にてらして、
言語の本質を追究してきた「児言研の読みの理論」は、その意味から非常に価値あるものと考えられる。
現在、私たちが最も重視していることは、個人の脳の中にある「コトバの網」を強化して、思考力・
認識諸能力を高め、豊かな感性・正しい行動力を育て、正確に表現し・理解する力を育てることで
ある。

3)あるべき国語教育の姿
以上の目的から考えると、私たちはまず「文法教育」を重視しなければならない。構文法を主とした認識・思考と直結する文法教育を体系だてて行う必要がある。その他の言語要素(文字・
語彙)の指導、文学作品の読み、説明的文章の読み、作文教育なども同様に(科学的に)重視しなければならない。
4)文章の読み (新しい参加者向きなので省略)

2、 一読総合法による読みの指導をどう始めればよいか
оどの学年でも、初めての場合は同じような導入の仕方が必要である。
その一例として、
プリントで書き込み例を示してまねさせる(高学年)、
文を板書して、子どもに「ひとりごと」を言わせ、それを文の横に書き込んでいく(低・中学年)、
が出された。
о話し合いの指導では、
何よりもまず、「一人の発言をみんなが聞き、それに反応する」という姿勢を育てることが重要。また、発言のルールを少しずつ指導して、話し合いの内容を高めていくこと。
表象化の指導を初めから重視し、「目をつむって友達の話を聞き、頭のテレビに映しましょう」などの方法も加えていくことで、その能力を高めていくこと。

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<一読総合法の授業がテレビで放映されます!!>

「一読総合法」の授業の様子がテレビで放映されることになりました。どのような取り上げ方を
されるかわかりませんが、ぜひご覧になって意見を寄せてください。
放映日 (1970年)5月26日(火)ごご3時35分~4時。
放送局 NHK教育テレビ
題 目 教育のアイデア、子どもの興味を生かす一読総合法
内 容 「一読総合法とは」(林進治) 授業(6年 園木学級) 討論(浅間台小 国語部員他)

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<第33回例会のお知らせ> 
児言研大阪サークル
と き 5月23日(土)ごご2時~5時
ところ 大阪府教育会館 新館3階 第1会議室
テーマ 一読総合法による説明文の読み
提 案 「ジャガイモの花と実」を、5年生でどう教えるか 丸山正昭(大阪・四貫島小)
大阪児言研では、本年度から「説明文の読み」を研究テーマのひとつに加えました。
その第1回目として、「仮設実験授業」で有名な板倉聖宣さんの『ジャガイモの花と実』を取り上げることにしました。この教材は、上記の福音館の絵本をもとにして、大阪児言研で教材化したものです。具体的な教材研究・授業計画をもとに、説明文で「何を」「どう教えるか」について、みんなで
考え合いましょう。
 最近、文学の分野では自主教材の発掘がさかんで、この面での研究はかなり進んできています。
しかし、説明文に関しては、いい作品が少ないこともあって、自主教材の研究が大変遅れています。
その意味でも、この作品を素材にして研究会をもつことはとても意義のあることだと思います。
ぜひ、参加してください。

{第33回例会から}
 テーマ 「ジャガイモの花と実」の教材分析
報 告  丸山正昭(大阪・四貫島小)
 参加者 33名

 報告の要旨
① 教材分析
じゃがいもの品種改良の過程と、じゃがいもは実からとった種子をまいて育てるのではなく、イモからイモを増やしていくようになった過程とに焦点をすえる。
具体化(くわしい話しかえ)や補説によって科学的な用語をおさえ、予想・見通しをもって
主体的に「論運び」などを読み取らせる。
② 授業計画
時間配当 全8時間
基本作業 題名読み、具体化、予想、関係づけ
(指導内容は省略。当日配布の資料が必要な人は、請求してください)
(話し合いの内容も省略)

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<第2回関西集会の日取りが決まる!!>
先日の理論研究会のあとの常任委員会で、関西集会の日取りが決まりました。この件については、数回の会合を開き、今年も開催するかどうか検討してきました。そして、本部や地域(他の関西児言研)の方々からの要望もあって、昨年と同じ規模で集会をもつことにしました。
しかしながら、この集会は、みなさんのお力添えなしには成功させることはできません。ぜひとも、ご協力をお願いします。
期 日 1970年8月26・27日
会 場 東大阪市民会館
内 容 文学・説明文・文法


<機関紙から>(27)

<事務局通信No.28>       児言研大阪サークル
{第2回関西集会 無事に終わる}
 取り組みがおくれて心配されていた関西集会は、143名という昨年を上回る参加者を得て、無事に閉会しました。特にうれしかったことは、提案者が名古屋、兵庫、滋賀、大阪と4府県にふえたことです。司会者も入れると、広島、和歌山が加わって、6府県になります。文字通り関西集会としての機能が発揮されたわけです。
 参加者は、大阪の81名は当然として、兵庫23名、和歌山9名、愛知6名、福井・京都3名、滋賀・広島1名、それに、東京5名と、大阪以外の参加者が43.4%を占めました。
 参加者の層は、全く初めてという人は27名、18.9%です。助言者から「討議の質が高かった」とお褒めのことばをいただきました。集会の様子については、『児言研国語』の次号(通巻26号)に、
若狭さんの報告が掲載される予定ですので、ぜひ読んでください。なお、常任委員会として、第1回、
第2回の『関西集会報告集』を冊子にまとめる計画を立てていますので、ご期待ください。
 あとになりましたが、報告・司会などの表方、記録その他諸係りおよび前日までの準備に当たってくださった裏方の人たちに、参加者全員になりかわって、お礼申し上げます。ほんとうにごくろうさまでした。

{常任委員会の内容}
 (1970年)9月9日に常任委員会が開かれ、そこで、関西集会と今後の研究方針について話し合いがなされました。
  関西集会の反省点
  о授業のようすはテープを使って再現したほうがよかった(一番望ましい授業を再現すること)。
   о教材分析を裏付ける授業がたりなかった。文学では「文理文体」を、説明文では「データ分析」を
    どのように授業に生かすかについての実践が不十分。
    о授業の科学的な分析が不十分だった。単に、児童・生徒がこんな発言をしたとか、全体の発表が
活発になったというのではなく、そこに科学的なメスを入れるような授業分析をする必要がある。
授業をしてから、教材分析と対比することは最低限必要な作業だ。
 о授業の質的向上の見通しを明らかにすることが必要。
なんでもしゃべれる状態から、質的に授業をどう高めていくのかをかんがえなければならない。
 о討議のあり方として、参加者みんなが加われるよう考えるべきである。自己紹介やグループ討議
などを交えて、全員がしゃべれるように工夫すべきだった。全体によそよそしい、冷たい感じが
したのではなかろうか。仲間意識を育てるムードが足りなかったように思う。
今後の研究方針
 東京のアカデミー、大阪の関西集会と、本年度の研究活動の重要な行事が終わった時点で、次のような方針を討議しました。
文法教育:広瀬さんの提案をうけて、小学校各部会で実践する。9月例会に実践例を提起する。
文学の読み:さらにきめ細かい読みをめざして、10月例会で教材分析を行い、それにもとづく授業
      分析を12月に行う。
説明文の読み:関西集会で話し合った教材を使っての授業分析をすすめる。
そのため、11月例会で「くじら」の実践をとりあげる。
理論研究:『認識論入門』を引き続いて学習する。
次回は、「無条件反射と条件反射」の後半から「認識とは何か」まで。

  その他
    о「文法研究班」をいよいよ発足させます。各部から数名ずつ参加してもらおうと思っています。
 о第20次全国教研は、来年1月11日から4日間、東京で開催されます。この機会を利用して、
現地で授業参観や学習会を企画しています。東京の会員の授業が見られるチャンスはめったに
ありません。全国教研には参加しましょう。

<大阪児言研・例会のお知らせ> 児言研大阪サークル
{4月例会}
 と き (1971年)4月24日(土)ごご2:00~17:00
 ところ 中小企業会館(上本町6丁目駅南西約500m)
 内 容 文学作品で、何をどう教えるかーーー「はだかの王様」を素材にしてーーー
      о文学作品を与える意味
      о教材をどう見るか                
о一読総合法による文学の読み
提案者 林田哲治(東大阪・楠根小)
テキスト 東京書籍・4年上「はだかの王様」
     新潮文庫『マッチ売りの少女』矢崎源九郎訳(アンデルセン童話Ⅲより、
「はだかの王様」)
(テキストの比較表は、事務局で用意しますが、お持ちでしたらご持参ください。)

◎今月は、文学作品の読みをとりあげます。
児童に文学作品を与える意味、どのような作品が 教材として価値をもつか、
「一読総合法による文学の読み」はどうあるべきなのか、という問題を考えたいと思います。
 文学作品が「道徳」の指導資料に利用されたり、文学の読みが「読書指導」に流れたりして
いきそうな今日の状況で、「文学による教育」を今一度見直す必要があります。また、教科書
の文学作品やその読ませ方(学習の手引き)に問題はないか、という面からの検討も大切です。
ぜひ、参加してください。

<事務局通信No.33>より
 {1971年度 研究方針(案)}
 去る4月2日、3日、万緑荘で行った合宿研究会で、本年度の研究方針が決まりました。
24日の例会で承認を得た後、実施したいと思っています。
1、 研究内容について
例会 ①文学・説明文の読みをさらに追究する。
   ②文法の実践を検討する。
   ③国語科の構造を考える。
   ④その他、実践的な内容のもの。
理論研究会
① 現在やっている『認識論入門』は、あと1~2回で終わる。
② その後は、会員(理論研究の希望者)で話し合って決める。
(合宿では、「教授=学習理論」をやりたい、という希望が出ていた。)
文法研究会
① 有志を募って、プランづくりを進める。
② プランにもとづいて実践し、それを例会に出す。
部 会
① 小学校低・中・高学年の3部会と中学・高校部会をつくり、部会独自で研究会をもてるようにする。
② 常任委員会の要請によって、例会に提案する内容を検討する。
常任委員会
① 例会の内容、研究方針など、会の運営に関するプランを作成する。
② 児言研の他の集会への参加や、他団体との協力について協議する。
2、 会合について
例会・理論研究会は原則として月1回、他は適宜開くものとする。
例会の司会は、常任委員が輪番で当たる。
3、 役割の分担
事務局    林田哲治(東大阪・楠根小)
機関紙    新開惟展(豊中・北丘小)
理論研究会  鷹野克己(岸和田高)
文法研究会  広瀬省三(岸和田高)
会 計    佐々木鈴枝(東大阪・意岐部小)
部会世話役  未定(小学校は各部より2名を互選。中学・高校部は1名)
常任委員   以上の12名および会員数の多い学校の代表によって構成する。
4、 会合の予定
(日時、場所、内容については省略)
5、 会 計
これまで事務局会計と一般会計を別にしてきましたが、不便なので、事務局会計にまとめます。
会費は、昨年どおり、年間600円(300円ずつ分割納入も可)とし、
そのつど参加費を払う人は、1回50円です。


<機関紙から>(28)

 これまでは、<事務局通信>や「例会案内」で、話し合われた内容を会員に知らせていましたが、
「大阪児言研」という<機関紙>を初めて発行しました。
第1号は1971年4月発行、第2号は5月に発行しています。

1号の内容は、<文学作品で、何を、どう教えるか、――「はだかの王様」を素材にして――>
提案者は林田哲治さんです。3段組で4ページあるので、ここでは柱だけ紹介します。
Ⅰ、文学作品を与える意味
 A,文学を味わう側面から
1) 人生の深い意味を知る。
2) 自然・社会・人間についての認識を深める。
3) 生活を豊かにする。
B,文学を知るという側面から
1) 作品の味わい方を知る。
2) 文学を成り立たせているものについて知る。
3) 文学史・作家についての知識の蓄積。
  Ⅱ、どんな教材を与えるか
1) 感動のある作品。
2) 考えさせる作品。
3) 痛快に笑う作品。
Ⅲ、文学教材をどう見るか
Ⅳ、一読総合法による文学の読み
 その後行った質疑・討論の要点を載せている。

2号も3段組で4ページなので、柱のみ紹介します。
内容は、瀬田貞二再話『ねずみじょうど』(福音館)の教材分析と実践報告。
報告者は、古江台小(吹田市)グループ・森田キヨミさん。
Ⅰ、作品について
1) 民話で、何を与えるのか(質疑・討論)。
2) 主題が子どもたちにわかるか(質疑・討論)。
о 残された問題・今後の課題
Ⅱ、実践報告
1) 指導計画(13時間)
2) 授業記録

о天美小(松原市)の実践{すべての子にわかる授業を}も紹介しています。
 ウクライナ民話「小さい白いにわとり」(1年)。いぬいとみこ作「川とノリオ」(6年)。
<大阪児言研例会のお知らせ>     大阪児童言語研究会
と き (1971年)7月10日(土)14:00~17:00
ところ 大阪府教育会館 4階第2会議室
内 容 ドーデー作「最後の授業」をめぐって
    о作者と時代背景。
    о教材分析。
    о授業について。
報 告 丸山正昭ほか(大阪市・四貫島小)

 今月は、ドーデーの名作「最後の授業」を取り上げました。普仏戦争の結果、敗戦の代償として
ドイツに割譲されたアルザスの人たちの悲しみと怒りを描いた物語です。この作品は文部省の道徳教育
にも利用されており、扱い方によっては、体制側に奉仕することになりかねない危険をはらんでいます。
“愛国心”の問題をどう扱うかは、ひじょうにむずかしい課題ですが、高学年部会では、そのことにも触れながら、問題提起をしてくれることになっています。なお、教材は桜田佐訳(「はぐるま」第1集・
高学年用、または、岩波文庫『月曜物語』)を使いますが、教科書(学校図書・光村 6年)との比較もする予定です。

{理論研究会}
と き 7月10日(土)18:00~21:00
ところ 大阪府教育会館
内 容 ショシャール著『言語と思考』(白水社 クセジュ文庫)

<大阪児言研9月例会のお知らせ> 大阪児童言語研究会
と き 9月18日(土)14:00~17:00
ところ 大阪府教育会館 4階第2会議室
内 容 説明的文章の読み
    о説明的文章の読みのねらい。
    о説明的文章の教材分析と授業。
提 案 林田哲治(東大阪・楠根小)
 テキスト 『大阪児言研・研究収録』(第1集)(会場で、用意しています。)

 「説明文の読み」というと、「あゝ、味気ないね」という人のほうが多いようです。日教組教研でも
「社会科や理科に解消すべきものだ」という考え方もあって、説明的文章はあまり重視されてきませんでした。とにかく書いてあることさえ理解させればいい、と考えている人が案外多いのです。 
 児言研は、児童の言語能力・認識能力を高めるという観点から、説明的文章の読みを追究し、過去
数回のアカデミーでの討論を経て、筆者の発想にまで迫る読み(データ分析の読み)を提唱するにいたりました。今回は、その成果をふまえながら、大阪児言研として「説明的文章の読み」をどう考えるか
話し合いたいと思います。
 説明的文章というとみんな「苦手」なせいか、文学より集まりがわるくなります。しかし、その
「苦手」を克服するためにも、ぜひ9月例会においでください。

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『大阪児言研・研究収録』について
このたび、過去4年間の研究成果をまとめた冊子を印刷しました。つたない内容ですが
私たちの現在の到達点を示すものです。紙数(資金)の関係で、書きたいことを十分に
書けなかったうらみはありますが、各人が全力を傾けて研究や実践をまとめた結果がこの
冊子です。ご参考に供することができるかどうか、いささか心もとないのですが、ぜひ
お読みください。なお、財政的な事情もありますので、できるだけ多くの方に買っていた
だけるようご配慮をお願いします。(冊子代 150円。送料は45円)

『大阪児言研・研究収録』(第1集)の内容
基本提案 1、文学の読み              新開惟展
     2、説明的文章の読み           林田哲治
実践報告 1、「スーホの白い馬」(小2)      佐々木鈴枝
     2、「ききみみずきん」(小3)      林田哲治
     3、「おれたちにゃ口はねえだに」(小5) 長谷川英子
     4、「童謡」(中学・高校)        鷹野克己
     5、「くじら」(小1)          新開惟展
     6、「ジャガイモの花と実」(小5)    丸山正昭
提案・報告 文法指導について            広瀬省三

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<機関紙から>(29)

{1971年10月例会のお知らせ}
大阪児言研事務局
と き 10月23日(土)14:00~17:00(時間厳守)
ところ 大阪府教育会館 4階第1会議室
内 容 自主教材「かぶとむし」の読み
報 告 教材分析・授業記録 吹田市・古江台小グループと森田キヨミ
教 材 福音館:月刊科学絵本『かがくのとも』通巻29号、古川晴男著「かぶとむし」
 
 この自主教材「かぶとむし」は、低学年部会が発掘して教材化したものです。一般の説明文に比べて
描写的な表現が多く、低学年の子どもたちを文句なしにひきつける文章です。同じ題名の東京書籍2年
(上)「かぶとむし」と比較すると、カブトムシの生態や自然界の法則などがよくわかるという点でも
すぐれた教材だと言えます。低学年における説明文教材のあり方を考える上でも、興味ある文章です。
説明文というと、教科書の説明文を思い浮かべて「つまらない」と考えがちですが、この「かぶとむし」で教えると、子どもも教師もきっと説明文が好きになると思います。

{理論研究会}
例会のあと、午後6時から、4階和室で行います。
テキストは、ショシャール著『言語と思考』
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<事務局からのお知らせ>より
 新雑誌『国語の授業』が発刊延期に。
東京事務局から、次のようなハガキが届きました。
  
  11月に新雑誌(季刊。128P)発行をメドに、『児言研国語』を先の27号で打ち切る予定
でしたが、11月に、28号を発行し、これを終刊号として、ケジメをつけることにしました。
 というのは、新雑誌の内容企画に、革命的アイデアが出たため、予告内容を全面的に変更し、
予定原稿は28号にまわし、新雑誌は来年3月、第1号発行ということにしました。
読者の皆様にはご迷惑をかけますが、新雑誌は必ずご満足のいけるものとなりましょう。
詳しくは28号を見てください。
 
そこで、28号をどう扱うかということになりますが、すでに差額をいただいている方もありますので、この号はバラ売りさせていただきます。価格は200円の予定です。(但し、新雑誌の申し込みが
まだの方には、残金で送らせていただきます。)
なお、新雑誌をまだ申し込んでいない方は、早やめにお願いします。
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<1月例会のお知らせ>   大阪児言研事務局
と き (1972年)1月22日(土)P.M.2:00~5:00
ところ 教育会館(上本町6丁目)
テーマ 解放教育と「文学の読み」
報告者 井上俊永(東大阪・弥栄小)
教 材 川崎大治作「夕焼けの雲の下」(『にんげん』5年)(教材は各自で用意してください)
報告の柱 ①教材と子どもとの関わり。
     ②指導の実際。
     ③解放教育と文学の読み。

 あけましておめでとうございます。
新しい年の初めを、「解放教育と文学」の問題に取り組むことにしました。報告者の井上さんは、一昨年から「同和教育研究指定校」の一員として研究にうちこみ、一読総合法と同和(解放)教育について考え続けてきた人です。『にんげん』が府下全域に配布されている現状から考えて、この問題はだれもが避けて通れない重要なテーマです。ぜひ、周囲の仲間をさそって参加してください。

同じ日の午後6時から理論研究会をもちます。
ところ なにわ会館
内 容 ショシャール著『言語と思考』第2部第1章「言語中枢」について。
   今回は、大阪教育大の大日向先生に講義をしてもらいます。
<事務局通信>より
{春の合宿について}
о今年(1972年)の春の合宿は、3月24、25日の両日、嵐山「花の家」で行います。費用は
 2000円~2500円程度。希望者は1月22日(理論研究会)までに、事務局に申し込んでください。(TEL:自宅○○、学校○○)なお、常任委員・学年世話役は必ず参加してください。
о合宿では、次の内容について学習します。
 24日夜――国語科の全体像(何を教えるか)。
       「どのような子どもを育てるか」:新開 
       「国語科の構造について」:鷹野
       その他、「作文」「文法」「読み」についてのミニ報告。
 25日朝――「読みの基本作業」をどう考えるか(‘71年度の総括)。
       (文学と説明文のちがい、学年によるちがい)
       低、中、高、中・高、の各部会より報告。
 25日昼――「文学の読み」を考える:広瀬
       (大人向きの文学作品を素材にして、「文学をどう読むべきか」を考える。)
 日 程――24日午後5時~25日午後4時。
      (収容人数が限られているので、申し込みは早めにお願いします)

大阪児言研に支部をつくりたい
  私たちのサークルもメンバーがふえ、かなりの人数になってきました。
(『児言研国語』の購読者58名)。新しい人も毎回3~5人参加してくれています。会員がふえるのはうれしいことですが、例会が、心おきなくしゃべったり、抱えている問題を全部出し合ったりという場ではなくなってきました。話し合いの仕方にも問題はあるのですが、物理的にむずかしくなってきたように思います。ことに、新しく参加した人にとって、例会の討議が「ひじょうに難解で、近づきがたい感じがする」ということです。これからも新しい人がどんどん入ってくることを考えると、そういう人たちが遠慮なく疑問を出したり、実践を報告できる場が必要だと考えます。「支部」は、そのために
ぜひ創りたいのです。可能なところから支部作りを始めましょう。(詳しくは次の例会で)

<2月例会のお知らせ>より  大阪児言研事務局
と き 2月26日(土)P.M.2:00~5:00
 ところ 大阪府教育会館
 内 容 1、ベルコール作「海の沈黙」の実践――高校における文学の読みの一つの試み
      提案 広瀬省三、鷹野克己(岸和田高校)
     2、解放教育と文学の読み(前回のつづき)
      ―― 川崎大治作「夕焼けの雲の下」の読み取りをめぐって――
      提案 井上俊永(東大阪・弥栄小)
 司 会 林田哲治(東大阪・楠根小)
   
  (「海の沈黙」は『岩波現代叢書』、「夕焼けの雲の下」は『にんげん』5年。
「海の沈黙」は梗概をプリントします。)     

今回は、はじめて高校の実践を取り上げることになりました。変な言い方かもしれませんが、
高校の先生で自分の実践を発表する人はきわめて稀だと思います。それだけに、こんどの例会は
貴重な会であると同時に、画期的な会になると思います。
 「海の沈黙」は反戦をテーマにした作品です。受験体制にすっぽりはまりこんでいる高校生に、
「命の大切さ」をどうとらえさせるか。この問題は、第2の柱である解放教育と深く関わっています。
 また、この実践の価値は、ともすれば“訓詁注釈”になりがちな高校の授業に反逆して、生徒の活動を中心においた主体的な読みを目指した点にあります。主として小学校の実践を中心に形成されてきた児言研の読みが、高校段階でどのような進展を見せるのか、非常に興味深い問題が提起されることを期待しています。
 おそらく、第1のテーマと第2のテーマが互いに関連して、文学の読みと人間の解放について、活発な討論がなされるだろうと思います。

 
第2のテーマ「解放教育と文学の読み」は、次の点について話し合う予定です。
о作品のどのような点に重点を置いて読ませるのか(読みのねらい)。
о子どもの現実に照らして、どのような面に注目させるのか(子どもと教材の接点)。
оどの人物(庄太、末治、辰)に焦点を当てるべきか。
о末治は本当に変革したのか――末治にとっては庄太と辰が入れ替わっただけではないだろうか。

{理論研究会のお知らせ}
と き 2月26日ごご6時(例会と同じ日)
ところ 教育会館(例会と同じ)
内 容 ショシャール著『言語と思考』第2部第2章「第2信号系」
    前回は大日向先生にくいついて、ずいぶんがめつく勉強しました。
    今回もその熱気を失わずに参加しましょう。

<事務局通信>より
{合宿の会場の変更について}
 3月24,25日の合宿は、当初、嵐山の「花の家」を予定していましたが、参加者が申し込み予定数(昨年並みの16名)より多い23名になったので、急遽会場変更をしなければならなくなりました。あちこち当たった結果、桃山荘(近鉄奈良線、あやめが池駅南1km)が引き受けてくれました。方向が東になりましたが、ご了承ください。会場の地図や詳しい日程は後日郵送します。なお、
 あと2名余分に申し込んでおいたので、今からでも申し出てください。

{雑誌『国語の授業』講読について}
 『児言研国語』に代わる『国語の授業』の発行予定が4月上旬に延びました。申し込まれた方は
もう少しお待ちください。なお、採算がとれるかどうかは、予約者をどれだけ確保できるかにかかっています。ぜひ読者を広めてください。そして、予約金を添えて申し込んでください。

<昭和46(1971)年度 大阪児言研会計報告>

収入  前会計より引継ぎ 10,450円
    雑誌売り上げ  4,000円
    図書売り上げ  5,900円
    会費 19,300円
    その他    400円
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
計 40,050円


支出  前年度赤字(事務局)  1,760円
    切手 10,000円
    封筒  1,255円
    例会会場費 20,660円
    常任委員会・文法研究費用  5,546円
    講師謝礼  1,000円
    機関紙:紙代その他    970円
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
     計 41,196円

差し引き

<機関紙から>(30)
{大阪児言研 第1回“学習会”の案内}
と き (1973年)6月23日(土)午後2時~5時
ところ 大阪府教育会館4階第2会議室(上六駅北東2分)
テーマ 国語教育の基礎理論:言語・コトバの働きをどう考えるか
提 案 広瀬省三(府立岸和田高校)
テキスト 児童言語研究会著『国語教育の基礎理論』(その1)

 「あなたは、なぜ三読法をすてて一読総合法で授業するのか」という質問をよく受けます。それに対してみなさんはどう答えられますか。「子どもが喜ぶから」「子どもが活発に発言するようになるから」というような現象面からの回答では、相手をほんとうに説得したことにはなりません。また、そのような
観点でしか一読総合法をとらえていないとすれば、その実践はすぐに行きづまってしまうでしょう。
この学習会は、私たちの実践に理論的な裏づけと展望を確立させるための試みです。毎回、古くからの
会員が自分なりに把握した児言研理論を具体的に説明することになっています。「理論は苦手だ」という
前に、まず参加してみてください。

  今年度から、誰にでもわかる、やさしい『国語教育の基礎理論』(その1)を使って学習会を計画しています。初めての人も、今までやってこられた人も、みんなもう一度基礎から私たちの理論を確かなものにしていきたいとの願いからです。国語教育に悩んでいる人も、理論を学習することによって、
 技術や方法だけでなく、理論にかなった実践をしたいものです。
 仲間を誘って多数おいでください。    大阪児言研学習会係り

<9月の会合案内>より
{第2回 学 習 会}
と き (1973年)9月22日(土)P.M.2:00~5:00
ところ 教育会館4階第2会議室
テーマ 読みの学習過程
     о三読法50年のあしあと。
     о本来的な読みとは。
     о主体読み、創造の読み。
     о「ひとり読み」と共同思考による授業。
提 案 丸山正昭(大阪・東中浜小)
テキスト 『国語教育の基礎理論』(その1) (テキストは会場で販売します。1部100円)

  前回は、「言語をどうみるか」について学習を深めましたが、今回はいよいよ「なぜ一読総合法
 という手立てで読ませるのか」について、丸山さんの提案を聞きながら勉強することになりました。
 一読総合法を実践している人、これからやろうと考えている人が、必ず頭に入れておかねばならないことがらです。初めての人もぜひおいでください。

{理論研究会} 
と き 9月28日(土)P.M.6:00~9:00
ところ 教育会館4階第2控室
内 容 「ニュークリティシズムの本質と限界」:小川和夫著『ニュークリティシズム』(弘文堂)より
レポーター 鷹野克己(岸和田高校)

{第3回 大阪児言研学習会}
と き (1973年)11月24日(土)ごご2時~5時
ところ 教育会館4階第2会議室
内 容 「総合読みにおける文学の読み」――『国語教育の基礎理論』(その2)より――
     о「文学の読み」は国語科にかかわるものである。
     о文学的認識力。
     о第2信号系から第1信号系にもどす過程で。
     о書き手主体と読み手主体との対決。
レポーター 新開惟展(豊中・北丘小)
  
『国語教育の基礎理論』(その2)の文学理論は、児言研の「文学の読み」についての考え(仮説も含めて)を大胆に提起したものです。国語教育と文学教育の位置づけ、文学的認識とは何か、ことばと現実世界との関わり、文学を読むとはどういう働きなのか、など、「文学の読み」にかかわる重要なことがらについて、学習を深めましょう。一読総合法による「文学の読み」も、これらの点をおさえたうえでなければ、単なる技術主義に陥ってしまいます。ぜひご参加ください。

{第4回 大阪児言研学習会}
と き (1974年)1月26日(土)ごご2時~5時
ところ 教育会館1階第2会議室
内 容 「総合読みにおける文学の読み」――『国語教育の基礎理論』(その2)より――
     о総合読みにおける「文学の読み」。
     о基本的な「読みの方法」。
      (テキストは当日用意します。実費150円)
レポーター 林田哲治(東大阪・高井田東小)

  前回に続いて、基礎理論「文学の読み」を学習します。
今回は、読みの具体的な方法(一読総合法による授業)と密接に関わる部分の学習です。
なぜ総合読みでなければならないのか・総合読みの特質・基本的な作業・将来への見通し、
などについての児言研の考えが述べられています。あなたの実践をより確かなものとするために、共に
学習しましょう。

合評会のおしらせ
 と き 1月26日(土)ごご6時~
 ところ 教育会館
 テキスト ①雑誌『解放教育』No.24(1973.6 明治図書)
       「王様と九人のきょうだい」を読む:新開惟展
      ②同上
       「おらたちにゃ口はねえだに」に取り組んで:林田哲治 
      ③雑誌『解放教育』No.25(1973.7 明治図書)
       「しばてん」を実践して:高畠道子
    ◆常任委員・文学班は必ず参加すること。


{大阪児言研案内}     大阪児童言語研究会

 「2月例会」
 と き 2月23日(土)P.M 2:00~5:00
 ところ 府教育会館4階第2会議室
 テーマ 岩倉政治作「空気がなくなる日」の授業(授業仮説)
     提案 文学部会
 文学部会では、‘74年関西集会にむけて、高学年対象の自主教材として「空気がなくなる日」
を取り上げ、教材研究をすすめてきました。そのことについては、昨年秋の例会で提案し、会員の
検討を受けることができました。その後、授業過程にのせるにあたって必要な具体的作業(授業の
構想、授業仮説づくり)はかならずしも順調に進んだとはいえず、1月の合宿研究会でも十分な
提案ができませんでした。今回あらためて提案しますので、会員のみなさんの厳しい検討をお願い
します。(文学部会より)

「理論研究会」
と き 2月23日(土)P.M 6:00~9:00
ところ 教育会館
テーマ 言語活動と文学(岩波『文学』1974年2月号 坂野論文)
    テキストは各自で購入しておいてください。

「お知らせ」
 о2月例会終了後、常任委員は残ってください。春休み合宿について相談したいことがあります。
 о『国語の授業』誌が値上がりし、年間1900円になりました。ご了解ください。

<機関紙から>(31)

理論研究ニュース
No.1(1973.4.10)
<今年度の研究方針>
 理論研究部では、昨年度にひきつづき、<文学>についての研究をしていく予定です。「昨年度にひきつづき」とは言っても、昨年秋からのことであり、しかも、一定の明確な方針ももてないような状態での活動でしたので、実質的には今年度から出発するようなものです。

――そもそも、この研究テーマを選んだ背景は――
すでに科学的な言語観、読みの心理過程に即した、<一読総合法>という有効な武器を手にしている
われわれも、他方、読みという行為が読む対象の特性によっても規定されるという側面を考えたとき、
たとえば、「文学を文学として読ませるとは」「文学をなぜ読ませるのか」といった問いを前にすると、
今なお明らかでないことが多くあります。それらを明らかにするためには、一度<文学>の特性について取り組んでみることが必要でした。もろもろの文学教育論、文学の読みの理論が提出されている現状の中で、それらを参考にしつつ、われわれ自身が文学の根本に分け入ってみる必要ある、との問題意識がありました。
 とはいえ、われわれの現在の力量では、これはあまりに大きなテーマであり、何を課題にして、どのような観点から、どのように切り込んでいけばよいのか、正直なところ、暗中模索で、とりかからざるを得ませんでした。そういう状態で今までしたことは、児言研と同じ言語観を持ち、民族の課題に応えることをスローガンにして、総合読みを手立てとした文学教育研究者集団の中心メンバーである熊谷孝の『文体づくりの国語教育』の輪読、つづいて、「文体」に焦点をあてた江藤淳の『作家は行動する』の輪読、の二つですが、この作業では、結局われわれの基本認識の再確認ができたことにとどまりました。
 そこで、今年度は再出発するつもりで、あらまし次のような見通しをたてました。
1) まず、<現実――作家――作品――読者――現実>という関係の全体的構造について、
一定の認識を持つ。
2) その上で、1の関係・各項、とりわけ作品創造過程の内的構造における要素を課題に取り上げる。
さらに、活動上の具体的な留意点として、
① 毎回、報告者を設定する。報告者は簡単でいいからレジュメを用意する。
② 毎回ニュースを、案内をかねて、出す。


(「理論研究ニュース」2号以降が見当たらないので、ご容赦ください。 新開)
その後の研究内容の一端は、次のようなことです。
1974年5月例会 ◎表象形成の力を育てる文学の読み。
   6月例会 ◎表象形成の指導をどうするか――読みの基本過程について
   8月に開催した第4回関西集会の講師 今江祥智「なぜ児童文学を書くか」
   10月例会 文学作品の読み――表象形成のあり方をめぐって
       継続して表象形成のあり方をテーマに取り組んできましたが、作品の文体や児童・生徒の発達段階に対応しての具体的作業の中身がいまひとつ明らかになりません。
今回は、残されている課題の追究を、別の角度から行おうということで、超現実主義的 な発想と特異な文体をもつ安部公房の「赤い繭」を取り上げました。いわゆる解釈主義ではどうにも読みこなせないこの作品をどう読ませるか、虚構を虚構として受け入れさせて、しかもそれが読み手の状況認識に影響を与えさせるにはどうしたらいいのか、読みの過程を通してイメージづくりをどのように行わせたらいいのか。岸和田高校で小牧さん・広瀬さんが3年生を対象にした実践(生徒の学習ノート、感想文を手がかりに)の分析を素材に、明らかにしえたことを報告してもらいます。
1975年1月例会 文学教材分析のための読み(テキスト『国語教育の基礎理論』その3)
        о作家と語り手
        о文理、文体の追究
  4月合宿研究会 文学の読み
        о読みにおける表象化←→概念化 (今江祥智「花はどこへいった」)
        о文理、文体にそった読みとは (安部公房「赤い繭」)
  4月例会 一読総合法による文学の読み(斉藤隆介「毎日正月」)
  5月例会 文学教材の分析(アーノルド・ローベル「おてがみ」)
  6月部会 模擬授業(アーノルド・ローベル「すいえい」)
  9月部会 「おてがみ」の実践検討
  9月例会 アーノルド・ローベル「おてがみ」の実践報告
  10月部会 文学作品の読み方(さねとう・あきら「首なしほていどん」)
  11月部会 さねとう・あきら「首なしほていどん」の分析
  11月理論研究会  文学作品分析の方法(第2回)
1976年1月例会  文学作品の読みの理論
         о主題をどう考えたらよいか(テキスト『国語教育の基礎理論』その4)
    
 新しい年を迎えてさまざまに抱負を持っておられると思いますが、大阪児言研の活動は
基礎理論の学習でスタートしたいと思います。

――<作者が主題をもつことは正しい。作品が主題をもつということも正しい。しかし、作者
の主題は作品の主題の中でしか生きられないし、その作品の主題は、在ることは確かだと考え
ても、読者の読みによってしか現前してこない。とすれば、われわれは作者の主題、あるいは、
作者の意図・理想などと取り立てて分けることは、作品の読みにおいては必要を認めない。
そして、読者の捉える主題が文章のワクの中である程度の幅のできるのは当然のことである。>
主題をどう考えるかは、文学作品をどう読むかと密接にかかわっているテーマです。具体例を
あげて、かみくだいた提案が用意されています。確かな実践は確かな理論があってこそ・・・
理論だからと敬遠しないで、ぜひ参加してください。
5月例会 文学の教材分析
① 「おてがみ」(アーノルド・ローベル):高野 京
② 「ごろはちだいみょうじん」(中川正文):峯近誠次
③ 「ふたりのデェデラ坊」(さねとうあきら):辻 雅義
④ 「信号」(ガルシン):石本真理
6月例会 高学年の文学の授業実践
 「露地うらの虹」(安藤美紀夫):滝口豊一
7月例会 文学の読み方・読ませ方:新開惟展
    о作品世界との出会い。
    о表現に即した読み。
    оイメージづくり。
   以上のことを中心に、文学作品の教材化のあり方を考える。

  「一読総合法は、子どもに勝手気ままな読みとりをさせる」という声をときどき耳にします。
 おそらく、わたしたちの主張がまちがって捉えられているのでしょう。しかし、わたしたちの
実践を振り返ってみると、教材分析の甘さ、確信のなさから、子どもたちの読み取りを混乱させ
てしまうことがよくあります。また、漫然と「書き込み」をさせ、「話し合い」をさせるだけと
いった授業もときどき見られます。このような授業から抜け出すためには、教師の文学教材を見
る目が確かでなければなりません。今回は、“わかりやすく”学習する機会です。

9月以降の研究課題 
 例会:関西集会で問題の多かった「ごろはちだいみょうじん」を分析しなおす。
文学部会:作品分析の研究(作品を実際に分析する)。文学作品を読む(自主教材の発掘)。
  理論研究部会:文学(詩を含む)の表現について
 10月例会 「ふたりのデェデラ坊」の教材研究
 10月文学部会 「ごろはちだいみょうじん」の教材分析
 11月例会 「ごろはちだいみょうじん」の教材分析
1977年 文学部会はテーマを「文学作品の分析」(文学的表現に即した読み)にしぼって、
     「露地うらの虹」(安藤美紀夫)を題材に4回連続(3月は3回)の研究を行う。
4回目は、全体を通して、問題点を洗い出し、話し合う。
2月例会 「おてがみ」(アーノルド・ローベル)の授業をどう組織するか:新開惟展
4月4~5日の会員合宿研究会で、文学部会は「文理・文体に即した読み(文学的表現に即した
読み)を追究する。


{1977年度以降の<機関紙から>については、会員の意見を尋ねてから決めます。}





 
大阪児言研
 <文責:新開惟展>