一読総合法を育てる土壌作り


「一読総合法を育てる土壌つくり」というテーマで、これまでに書いたことをもとに、思いつくまま、書いていくつもりです。
論理的に筋の通ったものではないので、どこからでも、関心のある事柄から読んでください。

子どもは他者との関係のなかで学ぶ

1、<授業>について
こんな「授業」を見たことがあります。
先生が発問し、児童が答える。「正解」が出されるまで、児童たちは「答え」を教科書の中から探しつづける。先生が「正解」と認めると、次の問題が出される。常に、先生の考えが絶対に正しくて、児童はいつもテストを受けている状況におかれている。
これは<授業>ではない、と私は考えます。<授業>で、子どもは「学習」するのです。<授業>は、子どもの潜在的な能力がひきだされる場であるはずです。自覚していなかった力を知ることが「学習」の大切な体験の一つです。それでこそ、子どもは「学ぶ」ことに喜び・楽しさを感じるのです。
また、自分の存在感・自己肯定感、もう少し大きく言えば、自分の尊厳が実感できる、そのような授業でありたいと願うのです。
<授業>とは「教授」⇆「学習」の過程における現象です。「教授」とは児童・生徒が「学習」するのを支える働きのことでしょう。「学習」する主体は児童・生徒なのです。自分たちが授業を創り出していると感じられるには、授業の目標も自分たちで設定できることが重要です。教授者の指導目標がそのことを含んでいる必要があります。
この事実を教師は常に留意しておかなくてはなりません。

2、<学習の主体>とはどういうことか
 子どもが自分の問題意識で教材に働きかけ、自分たち(学習者どうし・先生も参加して)で解決していく、何がその問題の解答かを、学習者自身で判断することが認められている、ということです。先生の「発問の枠内でしか取り組まない、考えない」という受け身の姿勢ではないということです。
 もう一つ重要なこと。ここが肝心なのですが、
<主体>は、「他者とは関係なく、自己完結している」のではない、ということです。主体は他者との関係のありようによって決まるのです。次に述べるように、学級集団、学習集団、つまり、他者との関係性のなかに現れるのです。

3、「授業」ではなく、「実践」というコトバを使うのはどうしてか
 同じ教材を使って「授業」をしても、先生によって
その現象が異なるのは、よく経験していることです。
それは「学習集団」のありかたが異なるからです。
「学習集団」は自然にできあがるものではありません。先生と児童・生徒が一緒になって創りあげていくものです。そのためには、「授業」だけを視野に入れていてはだめです。学級集団のありかたが学習集団・授業に深く関係しているのです。学級集団を組織するには「授業」以外のさまざまな取り組みが関係してきます。ですから、現象としては「授業」のかたちをとっていますが、内容としては「実践」と言うほうが実際に合っているのです。

4、「指導書」について
 「指導書」を参考にしている人は多いと思います。ぼくは以前、<指導書の思想と「文学教育」観>という原稿を書きました。当時(1971年)の(国語の)「指導書」は、教材を絶対視し、「そのとおり」受け取らせるにはどうするか、という姿勢で書かれていて、
「批判的味読」という読みの構えが乏しいものでした。
(現在でも基本的な姿勢は変わらないですね。)
言いたいことは、あくまでも「一つの意見」として参考にするのはいいが、とらわれすぎてはいけない、ということです。

「注」
 この原稿は、「新任教師にむけて」書いた原稿から
 抜粋したものです。
<「くぐらせ期」が必要>という考え方

『ひらがな』という自主教材集があります。大阪府・市同和(人権)教育研究協議会が30数年前
に編集した冊子です。この冊子では、全112ページの内24ページを「くぐらせ期」に当てていま
す。体系的なひらがな学習は25ページ目から始まるのです。
この24ページで何をすると思いますか?
運筆に必要な手指の練習をするのです。文字が書けるからだを育てるのです。
他者との対話を促すのです。話し言葉と書き言葉をつなぐのです。
 1年生に入学する子どもたちはさまざまな生活環境の中で育ってきています
紙に落書きする体験のない子がいます。
からだ全体をつかって遊ぶことをしていない子がいます。
家族との会話の時間がとても少ない子がいます。
入学するまでに体験していてほしい事を、もういちどここで通過させて(「くぐらせ」て)、
できる限り学習へのつまずきを減らして、どの子も<同じ条件でスタートを切らせたい>という
願いから、設けられたのが「くぐらせ期」なのです。
入学当初から“とりこぼさない”ための手だてとして設けられたのがこの24ページなのです。

「くぐらせ期」は、文字指導の場合だけに重要なのではありません。どの教科指導においても、
教師が考慮しなければならないことだ、と私は考えます。
「子どもの現実」から指導を始める、というのが、私たちの合言葉です。

授業について
       2015.4.18  新開 惟展
 授業は教室の中で行われます(教室の外でも行われるが)。教室での主人公は子どもたちです。
授業を構成する要素のなかで、子どもたちの関係のありようが非常に重要です。
教材は重要ですし、教師の指導性のありようも重要ですが、これらの要素が生きるか死ぬかの分岐点は、
◎教室のなかにおける子どもたちの関係のありよう、
◎教師と子どもたちとの関係のありよう、
◎教材と子どもたち・教師との関係のありよう、
にあります。
 佐藤学は、<授業の三つの側面>として
1.世界づくり(認知内容の編み直し=対象との対話):テキスト・対象世界との出会いと対話(認知的・技術的な実践)
2.仲間づくり(対人関係の編み直し=他者との対話):教室の仲間との出会いと対話(対人的・社会的な実践)
3.自分探し(自己概念の編み直し=自己との対話)自己との出会いと対話(自己内的・倫理的な実践)
を取り出し、授業はこの三つが総合された複合的な営み(「意味」と「人」の「関係の編み直し」)である、
と述べています。 (『学びへの誘い』、『授業研究入門』より)
 また、この三つの「対話的実践」は、
① 「活動」と ②「協同」と ③「反省」の三つで構成され、
「活動的で協同的で反省的な学び」として遂行される、と述べています。
 この指摘は学ぶ側からの分析で、この営みに教師がどのように関係していくのかについては、次のように
述べています。
・・・「聴く」ことが授業における活動の中核である。・・・子どもの尊厳を一人残らず授業のなかで尊重することである。「いい発言」を求めるのではなく、「どの子の発言もすばらしい」という信頼と期待が、「聴く」という対応の根底を支える。
・・・子ども一人ひとりに対して誠実であること、そして、教材に対して誠実であること、この二つの誠実さが授業の成否を決定づけていると思う。
・・・子どもの発言を「聴く」ということは、次の三つの関わりにおいて、発言を受け止めることを意味する。
一つは、その発言がテキストのどの言葉に触発されたものかを認識すること。
二つは、その発言が他の子のどの発言に触発されたものかを認識すること。
三つは、その発言がその子自身のその前の発言とどうつながっているのかを認識すること。
           (『教師たちの挑戦』より)

「まず学級集団ができていなければ授業もこのようにはできない」と考えられると、それはちがいます。
「まず学級集団づくり、それから授業づくり」ではないのです。
両者は相互作用の関係にあり、同時並行的に取り組んでいくことが大事なのです。

画家の横尾忠則は、「共同制作で開かれる自分」という文章で、次のように述べています。
「(略)彼が加わったためにぼくの中の複数の他人がにわかに活性化して、思わぬ自己発見につながった。(略)
共同作業はお互いの差異を認めるところから出発しなければ共存できない。ぼくの彼の作品に対する態度は、可能な限り彼の作品を魅力的に美しく引き立たせることに徹すべきだと考えた。その結果は自分の作品も引き立って、生かされていることを発見した。(略)」
 
 最近の学校現場では、「学習」が、体系的な知識・記憶のようなことから、一人ひとりの興味・関心に基づく
意欲の重視のようなことに力点を移しつつあるようです。子どもの「主体的学び」を教育の場で正しく位置づけることは大切なことですが、「学び」を個人の中にとじこめ、個人の孤独な作業になっていないか心配です
(「個人能力還元主義」に陥っていないか、要点検)。
 横尾が言うように、子どもの学び・認識は教室の子どもたち(他者)との相互交流・支え合い(共同的学習)
の過程を経てこそ、豊かになるのです。(「関係性」という視点が大切)


わしの国語の授業を体験した子どもが、こんな感想を書いています。
「・・・先生は、文章の中味についてみんなと話し合いをさせ、みんなの意見を聞いてくれて、みんなで読み進められるように、授業を進めていってくれます。先生はみんなと同じように意見を言い、わたしたちの意見を聞いてくれるのです。でも、先生は少しへそ曲がりで、わたしたちの意見といっちすることは少ないです。
けれど、そこらへんがおもしろいところで、わたしたちが意見を出しても、その意見についての意見を出してくれなければ勉強は進みません。だから、先生がわたしたちとちがう意見を出してくれることがうれしいし、
みんなとの勉強が楽しくなります。・・・」
別の子どもは、こんなふうにまとめています。
「・・・授業中、話が広がっていくときは、先生が種をまき、ぼくらがそれを大きく育てていく。花が咲いた
ときはとてもいい気持ちだ。・・・」

授業(学習集団)の基盤に学級集団(生活集団)が安定していれば、たしかに授業も安定してくるでしょう。しかし、学級が集団として成立したら、授業が集団として成立してくるかといえば、ことはそれほど簡単ではありません。授業が学習集団として成立するためには、学級集団づくりとはべつに、手を打たねばなりません。
(それはまた別の機会に話します。) 

わたしの学級つくりの方法 (できることから始めます)

1) 子どもの現実からスタートする。
 ◉子どもを認める。
 ◉子どものコトバ(発言)を受けとめる。
 ◉子どもに共感する。
 (できることから始めます)
2)子どもたちのあいだに「応答関係」をつくる。
 ◉お互いを認め合う。学び合う。
 ◉発言している人の方に向いて、からだ・ことばで、聞いていることを表わす。からだで反応する。
 ◉発言する人は、みんなの方を向いて言う。(先生に向かって言うのでなく)
 ◉発言はおしまいまで聞く。とちゅうで口をはさまない。
 ◉話し合い・討論のルールを決める。
  「きまり」(外から与えられたもの)を「規律」(自分たちのもの)へと内化していくことが大事です。
 ◉机の並べ方を工夫する。(小集団学習も視野にいれて)
3) 子どもが目標を決める。
 ◉やる気をおこすもの。
 ◉まずは、簡単に(短時間に)できることを(「やった」「できた」という達成感がもてるもの)。
 ◉欲張らないこと。
4) 授業は子どもたちと力を合わせてつくっていく。
 ◉その時間の授業目標は、子どもたちにわかってもらう(学習目標)。
 ◉子どもが参加できる場を設ける。(「発問」を工夫する、一問一答でなく)
 ◉つぶやきをとりあげて、全員に提示する。(「わからない」「おかしいな」など)
 ◉黒板がみんなのものになる。

 子どもが、自分のコトバで考え、感じたことを、自分のコトバで発言するようになる。
教師を含めて教室のみんなに聞いてもらい、ともに考えるために。


学級集団づくりの一つの手立てとしての「学級通信」について、具体例を示して、この例会で3回にわたって
述べる予定です。



大阪児言研