大阪児童言語研究会 |
ぼくの心に感じたコトバ(101~200)ぼくの心に感じたコトバ(101) <一人ひとりに与えられた体は、それぞれ、 天然自然、あるいは宇宙全体の縮小版であって、 その中に根源の真理がすべて内包されている。> 井上雄彦:漫画家『バガボンド』 若いときには、「身体」について 井上とはちがう意見を持っていたのですが、 今では井上の考えが少しわかるようになりました。 体を動かすことは自己との対話である、ということも。 ぼくの心に感じたコトバ(102) <自然破壊をする性質を持つ科学技術社会では、 人間という自然も破壊される。 生きものを機械とみている。> 中村桂子(JT生命誌研究館館長) ぼくは人間です。自然です。機械ではありません。 日本は科学技術文明の進んだ国ですが、 生きものを機械とみない国であってほしいものです。 ぼくの心に感じたコトバ(103) <問題意識がなければ、目は節穴だということだ。> 川田順造(文化人類学者) 川田はさまざまな国を見てきてこう言います。 「食う、運ぶ、座る、歌うなど身体の使い方にも 異なる作法と原理がある。 ちょっとした差異に気づくことから問題意識が生まれ、 見えなかったものが見えてくる」 「問題意識がなければ、目は節穴だ」という意見に ぼくも賛成です。 教師の現役のとき、子どもたちの何を見ていたか、 見えていなかったことが後からわかる体験は多々ありました。 ぼくの心に感じたコトバ(104) <「これ、見られたらやばいな」って意識せざるを得ないような、 畏怖の対象があるかどうか、これは大事だと思う。> 阿川佐和子 このような意識は若いころからもっていました。 しかし、生意気にも、 身近に具体的な先達をみつけることができませんでした。 今は、身近ではありませんが、そのような人がいます。 ぼくの視野が広くなったことの証でしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(105) <言葉が無駄遣いされています。 ツイッターやフェイスブックの大半は 垂れ流しなのではないでしょうか。> 谷川直子(作家) 「言葉の無駄遣い」にはいつも注意しているのですが、 他者から見たら、 「無駄遣い」になっている場合があるかもしれません。 いっそう心したいと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(106) <「あたしこれ好きかも!> 若者の言い回し 好き嫌いは本人がいちばんよく知っているはずなのに、 こんなふうに言う若者。 未知の自分を発見した喜び? 自己の対象化? 判断の延期? 金田一秀穂は 「これはアナログの中にとどまっていたいという欲求だ」 と解釈します。 「アナログの中にとどまる」ってどういう心情なのか、 ぼくにはわかりません。 ぼくの心に感じたコトバ(107) <社会学の基本には、物事を「関係」として捉える発想がある。 家族を取り上げたら、 家族とそれ以外のものとの関係も考えなければいけない。> 佐藤俊樹『古市くん、社会学を学び直しなさい』 佐藤はゼミの学生に ① 「自分の言うことがどれだけ間違い得るかに鋭敏になれ」 と言っているそうです。 また、こんなことも言っています。 ② 「触る」というのは、 全部はわからないけれども、何かの部分をつかむことができる。 触っているモノやコトが何かを教えてくれる。 ① は厳しいですね。 ② は留意したいコトバです。 ぼくの心に感じたコトバ(108) <社会学に向いている人は、 一に好奇心、二に好奇心、三、四がなくて、 五に尻軽さ(好奇心に体が伴って、現場に動く)。 + 想像力より現実の方が豊かだと思えること。> 上野千鶴子『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』 ぼくも社会学に向いているようですね。 上野の言うこの条件に合うようですから。 ぼくの心に感じたコトバ(109) <文末に「思う」「考える」と書くのは、極力避けようと 心がけている。安易な感じがするからだ。> 近藤勝重(毎日新聞、客員編集委員) ぼくも同感です。 言い切ればすっきり・はっきりするのに、 なぜか、政治家の発言に「・・・、と思います」 が多いように感じます。(はっきりさせたくない?) ただ、近藤も言うように 「思う」と「考える」の使い分けは重要です。 ぼくも気をつけています。 ぼくの心に感じたコトバ(110) <役に立つことを求めることが社会をだめにする。> 大隅良典(ノーベル賞受賞者) 「基礎的なことを大切に」ということで、 このコトバの趣旨は同感ですが、 教育の場面ではどう理解すればいいのでしょうか。 「社会の役に立つ人を目指しなさい」 という趣旨のことを、ぼくは子どもたちに話してきました。 ぼくの心に感じたコトバ(111) <まっとうな批判が「悪口」と受け止められる時代、 本音でモノを言うのが毒舌、と認知される昨今、・・> 武田砂鉄:『紋切型社会』の筆者 武田は「安易な同調や 耳に心地よい『いい話』風の言葉が好まれる」 とも述べています。 コトバが軽くなってきている、 主体性が弱くなってきている、 とぼくは思います。 「イエスとノーとの間に どれだけのグラデーションを用意できるか」 「言葉を取り戻さなければならない」 ぼくも同意見です。 ぼくの心に感じたコトバ(112) <「多数者の専制」: 民主主義が常に多数派による 少数者の自由侵害の危険をはらむこと。> トクビル(フランスの思想家) 例えば、多数決という方法がはらむ危険性を 常に意識しておくことが大切だと、 ぼくは思っています。 ぼくの心に感じたコトバ(113) <個性的な作品を作りたいと思う作者は 個性の弱い人です。 「個性的である」とは、 競争に勝ち抜いて目立つことではありません。> 山田洋次(映画監督) 山田はこのように述べています。 「か弱く傷つきやすい人たちをあらゆる暴力からかばい、 その命を深く愛しみ、守り抜くところに、 人の個性とその強靭さがおのずとあらわれるのです」 山田のこのコトバは、教育界でも大切にしたいものです。 ぼくの心に感じたコトバ(114) <対話は、 私が消えていく出来事だ、 と言えるかもしれない。 そこにコトバだけが存在する。 対話とは、 自分が何を考えているかを相手の口から聞くことだ、 と言えるかもしれない。 また、 自分が何を考えてきたかを、 相手の言葉を光にして、たどって見る経験だ、 とも言えそうだ。> 若松英輔『現代の超克』(中島岳志) 「対話」について、 ぼくはこのような感想をもったことはありませんでした。 対話する相手によるのでしょうか。 自省の構えによるのでしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(115) <置かれた場所で咲きなさい。 どうしても咲けない時もあります。 そんな日は下へ下へと根を降ろします。> 渡辺和子『おかれた場所で咲きなさい』 「咲けない時は下へ根を降ろしなさい」 というコトバに強く心を動かされました。 “見えないことを豊かにする”、 この発想を大切にしようと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(116) <障害は個人に属するものではなく、環境に依存する。> 福井佑実子:KKプラスリジョン代表 (=障害を「ある」から「ない」に変える 仕組み作りに取り組む企業) ぼくは、「関係論的視点」でものごとを見るようにしています。 ぼくが主催する集まりでもこのことは明言しています。ですから、 「個人能力還元主義」的な見方をしない福井の意見に賛同します。 ぼくの心に感じたコトバ(117) <人間はなぜ「権威」(命令)に「服従」し、 残虐行為もやってしまうのか。> 玉木研二(毎日新聞編集委員) 教師は重々気をつける必要があります。 子どもたちは教師の働きかけに従うからです。 かつて現役のころ、ぼくのクラスで、 「先生、なぜそんな質問をするのですか」 と尋ねた児童がいました。 このような質問ができる集団(学級・学習)を つくることが大切でしょう。 (アイヒマンは「命令に従ったまで」と繰り返し、 責任を感じる様子はなかったそうです。) ぼくの心に感じたコトバ(118) <平均からはずれているために 不安感からひきこもってしまう人や、 いじめられる人からの相談をうけることが 多くなってきた。> 海原純子(心療内科医師) 「平均の中に入れない人はダメ、という 社会通念のような意識がある」 とも海原は述べています。 “みんなと一緒”でないと安心できない、 あるいは、そのような人を排除する、 という心理・風潮は困ったものだと思います。 ぼくはこのような「社会通念」とは無縁に生きてきたので、 なんとアドバイスしていいのか・・・・・。 ぼくの心に感じたコトバ(119) <ゆがんでいるのは小説世界ではなく、 不条理だらけの現実世界の方だ。> 三崎亜紀(作家:『となり町戦争』にふれて) 小説世界がゆがんでいても、 ぼくは困ることはありません。 でも、現実世界がゆがんでいると、 ぼくは困ります。 このごろの現実は ほんとうにひどいことが多いです。 ぼくの心に感じたコトバ(120) <偏見や恐怖にとりいる虚報が 正しい情報より拡散してしまうのは 人の世の宿命なのか。> 毎日新聞:余禄(2016.12.28) 「宿命」とは思いたくないけれど、 現実がそうであることは 認めなければならないですね。 ぼくの心に感じたコトバ(121) <5万人を前に演奏したこともあれば、 50人のために演奏したこともあります。 しかし、 50人に演奏する方がむつかしい。 5万人は「一つの人格」に見えますが、 50人は一人ひとりが自分だけの世界をもっています。> ボブ・ディラン:ノーベル文学賞受賞のスピーチ 教室では45人以下(?)でしょう。 「一人ひとりが自分だけの世界をもっている」 このコトバを十分かみしめて、授業したいですね。 ぼくの心に感じたコトバ(122) <現在、 自由や民主主義が守られる保障のある国は 一つもない。 私たちが想像する以上に 自由を失うのは簡単である。> ヴィタリー・マンスキー(ロシアの映画監督) ソ連時代の経験を動機に、全体主義社会の存在理由に 興味・関心を持ったそうです。 日本も「自由や民主主義が守られる保障」はありません。 わたしたち自身が守る以外には。 ぼくの心に感じたコトバ(123) <今、「福は内、鬼は外」という理論がまかり通っており、 それが正当化されつつある気配がこわい。> 海原純子『新・心のサプリ』(毎日新聞) 自分と意見や思想、ルーツを同じくする人たちを「内」とし、 じぶんと異なる人たちを「外」として受け入れない考え方。 海原は、 <「投げた豆は隣の屋根に落ちる。 隣の家にとっては“内”なんだよ」と 父に言われた記憶を例にあげて、 真の「鬼」とは何だろう、と考える。> ぼくも同じ考えです。これからも、 真の「鬼」を考え続けていくつもりです。 ぼくの心に感じたコトバ(124) <この上なく有能な傾国官僚> 面 一也:大学教員(『週刊読書人』2017.2。3) 大学交付金一律削減という国の方針について、 「基礎的研究がやりづらくなる」と述べた学長を、 マネジメント「無能」者と評価したエリート官僚。 その高級官僚について面が評価したコトバです。 「有能な傾国官僚」とはうまい形容語だと感じました。 ぼくも有能な「傾学級集団」教員にならないよう 留意しなければ、と思ったのです。 こんな教師が周りにいましたから。 ぼくの心に感じたコトバ(125) <古人、禍は口よりいで、 病は口より入るといえり。> 貝原益軒『養生訓』 「禍は口よりいで」 というコトバはよくわかります。 留意して話してはいるのですが、 時に、後悔することもあり ぼくの心に感じたコトバ(126) <彼(オバマ)は、 誰かを見下したり、いじめたり、おとしめたり、 そういうことをしなさそうな人だった。 そういう安心感は、株価が高騰することよりも、 人が生きる社会にとってはずっと大切なことです。> 中村安希:ノンフィクション作家 ぼくも同感です。 トランプ大統領は信用できないし、安心もできません。 子どもたちにとって、 安心できる教師はうれしい存在です ぼくの心に感じたコトバ(127) <「いい質問」が人を動かす> 谷原 誠の本の題名 <質問を大切に。 答えは平凡でも、 質問で何が問題なのかを伝えることができる。> 国谷裕子(ニュースキャスター) 今回は「質問」の重要性について取り上げました。 国谷キャスターのコトバに、ぼくも同感です。 教育界では「発問」と言っていますが、 教師は授業での「発問」を重要視していて、 「発問」研究会もあるほどです。 ぼくの心に感じたコトバ(128) <囲師には必ず闕(か)き、 窮(きゅう)コウ(漢字出ず)には迫ること勿れ。> 孫武著『孫子』より 意味は、 相手を追い込んでも逃げ道をつくっておかなければならないし、 負けた相手をさらに追いつめてはいけない、ということ。 若いときの自分を思い出します。 議論するとき、 先に逃げ道を閉じておいてから追いつめる、 ということを意識的にしていました。 相手がどんな思いをするか、 ということに考え及ばなかったのです。 ある時期から、 「鬼」の新開―→「仏」の新開 に変わりました。 ぼくの心に感じたコトバ(129) <「フェイクニュース」> 昨年のアメリカ大統領選挙頃から 急激の耳にするようになりましたね。 オックスフォード大学出版局が 2016年を象徴するコトバとして 「POST-TRUTH(ポスト真実)」 を選んだことにも驚きました。 マスメディアが「フェイクチェック」するのは 当然だと思っていたのですが、 そうでもないのでしょうか。 ネットで情報が世間に広がるようになって、 世の中、何かおかしくなったように感じられます。 <オルタナティブ・ファクト> トランプ大統領のこのコトバには驚きました。 「事実は人によって異なる」 一般論としては認めます。 「事実」は多様だという意味で。 人によって「事実」は異なるという意味で。 しかし、参加者の人数は客観的に判断できることでしょう。 こんなことがまかり通れば、世の中、 声の大きい者が「勝ち」ということになりかねません。 怖い世の中になったものです。 ぼくの心に感じたコトバ(131) <お母さんのこえは、 耳かきと同じくらいきもちがいいです。> 小学3年生の男子 この子は 「お母さんのこえがやさしいこえなので、 よんでもらうのがすきです」 とも書いています。 この子は、コトバでなく、声に優しさを感じているのです。 声にお母さんの気持ちがこもっているのでしょう。 すてきなお母さんだなあ、と思います。 ぼくの心に感じたコトバ(132) <若くなるには、時間がかかる。> 日野正平 日野は身体のことを言っているのだと思います。 (若いからだをつくりあげるには、 時間をかけて鍛えなければならない。) ぼくは精神的なことに置きかえて、同感です。 この歳(傘寿)になってみて、そう思うのです。 若いとき、それから先の時間は気になりませんでした。 今また、残された時間を気にせずに、 自由に、すきなように、行動しています。 ぼくの心に感じたコトバ(133) <まんがで学ぶメリットは、 活字ほどハードルが高くなく、 映像ほど受動的でないこと、です。> 野島博之:『学習まんが 日本の歴史』アドバイザー 「まんがを読んでも読書とちゃう」という親、 「まんがを読まんと勉強しなさい」という先生、に このコトバを聞かせてあげたいです。 こまとこまのあいだを考える・想像することは、 あたまをきたえるのによい活動になるのですね。 ぼくの心に感じたコトバ(134) <人間がつけた価値観というのは、 それが通用する社会の中だけのものといえる。> 海原純子:医師 視野をひろげ、多様性を認め、相対的にみる、 ということの大切さを改めて感じます。 教室の前に掲示されているスローガンは 要注意ですね。 ぼくの心に感じたコトバ(135) <本や雑誌の売り上げが ここ16年で4割も減った。 が、自費出版は増加傾向にある。> 高田公理:酔狂道中記(2017年) 高田はこのようにも書いています。 「SNSなどで発信し、 多くの他者に知ってほしいと考える人が増えた。 自己表現の面白さに目覚めたのだろう」 ぼくはこの傾向を歓迎します。 ただし、他者の非難や悪口はいただけませんが。 ぼくの心に感じたコトバ(136) <「アメリカファースト」 「都民ファースト」> トランプ米大統領、小池都知事 ぼくたち学校教育に関わる教員としては、 「児童・生徒・学生ファースト」 ですね。 このことが徹底していない職場を 知っているぼくは、声を大にして言います。 「児童・生徒・学生ファースト」!!! ぼくの心に感じたコトバ(137) <日本の社会は、異質なものに対しては モーレツに冷たい。> 山田太一:ポスト・バブルの日本人考 この発言は15年前のものです。 最近は、 街中で障がい者を目にすることが多くなりましたが、 「異質なものに冷たい」状況は 変わっていないと思います。 「日本文化の一面だ」という人がいますが・・・・!? ぼくの心に感じたコトバ(138) <「みんな」という魔力> 海原純子:心療内科医 海原は次のようなことも述べています。 「日常生活のなかのさまざまなものごとで、 「みんな」と同じでないということを ストレスにかんじている方が多いことを 診察のさいに気づく。」 ぼくは、小学生の頃のことはおぼえていませんが、 中学生から周りのことはあまり気にしませんでした。 それで、 「少しは周りのことを考えなさい」と、 母親から言われたことが何度もあります。 大人になってからも、今も、この傾向はつよいです。 ぼくの心に感じたコトバ(139) <「印象操作」、「マジックワード」> 安倍晋三首相 「ポスト真実」というコトバが社会化しています。 いやなコトバです。 引用したコトバも同じようなことを意味します。 事実を示すのではなく「印象」づけて、「そうか」と思わせる。 「この道しかない」「選択肢はほかにない」 なども同様で、聞く人に思考停止させる働きがあります。 政治家は意識的に(あるいは無意識に)コトバを発しているので、 要注意ですね。 ぼくの心に感じたコトバ(140) <どんな文化も平等に尊重するという「多文化主義」は もう失敗していることを認めるべきです。> 谷口功一(法哲学者)(2017.4) 谷口はこのような現実を示しています。 「どの国でも、多文化主義は 社会の断片化、マイノリティの疎外、市民の怒り、 に行きついている」 これが世界の現実だとすれば、 そのような社会をつくってしまう「市民」の問題ですよね。 ぼくもその「市民」の一人なのだ、と認めたくはないのですが。 ぼくの心に感じたコトバ(141) <我が国の正義は力で守る> 北朝鮮国家 「力で守る」ところは横において、 ぼくが守る「正義」は『日本国憲法』です。 残念なことに、 『日本国憲法』をきちんと読んでいない人 (ぼくを含めて)が多いようです。 「豊中市民力フェスタ」(2016.11)の参加者に、 第99条の「尊重・擁護する義務は国民にある」というのは 「正しい」か否かをたずねたところ、 男女ともに「正しい」と答えた人の方が多かったのです。 正解は否です。義務を負うのは「国民」ではなく、 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」 です。 教師は、憲法を、学校できちんと指導しているのでしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(142) <続けるという行為は、 新しいことに取り組むよりもエネルギーのいることかも。> 山中隆太『阪神・淡路大震災 わたしたちの20年目』 わかります。 ぼくもずっと続けていることがありますが、 新しいことに取り組むほうが気持ちが昂りますから。 ぼくの心に感じたコトバ(143) <外来語を大和言葉に置きかえないと、 ほんとうには「実感」できないと思う。> 上野誠:『さりげなく思いやりが伝わる大和言葉』の著者 ぼくも同感です。 大和言葉には、意味だけではなく、感情が感じられますが、 外来語は、感情抜きに、知的に意味だけが受け止められて、 「実感」とはなかなかいかないですね。 ぼくの心に感じたコトバ(144) <チョウチョの飛び方、 あれがチョウチョにとってのまっすぐなんだ。> 坂口恭平『現実宿り』 チョウチョがとぶ方向はぼくには予測できません。 子どもたちの行動も同じで、 その子にとっては「まっすぐ」なんだろうけれど、 ぼくから見るとそのように見えないことがあります。 ここが悩ましいところです。 ぼくの心に感じたコトバ(145) <正しい大きさの感覚が、認識を正しくするのだ。> 長田弘『幼年の色、人生の色』 「感覚」と「認識」の関係、 なんとなくわかるような気がしますが、 むずかしいです。 「認識」が「正しい」かどうかは、 何かにもとづいて判断するわけですが、 「感覚」が「正しい」かどうかは、 もとづくものがあるのでしょうか。 ぼくの心に感じたコトバ(146) <すべての人間関係は力関係であり、 その意味では政治である。> 池澤夏樹の、『紋切型社会』についての評語から。 「人間関係は力関係」と言われると、 すなおに納得できないけれど、 否定もできないですね。 「政治と同じ」と言われると、 「うーん・・・・」 学級集団つくりもそうなのか!? ぼくの心に感じたコトバ(147) <ファクトを直視せよ。 南スーダンに派遣されている自衛隊が 二つの「オルタナティブ・ファクト(別の真実)に 振り回されている。> (2017.2.28) 森 健(ジャーナリスト) 「ファクト」というコトバが新聞を駆け巡っています。 辞書では「事実」と訳されているのですが、 「真実」の意味で使われている文脈もあります。 上記の文章もそうです。 日本語で書かずに英語で書くのはなぜでしょうか。 トランプ大統領の言葉遣いに端を発しているようです。 (「フェイクニュース」も日本語に訳されず、そのまま使われている) 「事実は真実の敵である」というコトバもあるようです。 日本語にせず、英語のまま使うほうが、 「現実」をあらわしているのでしょう・・・・ こうなると、理解に苦しみます。 いや、 「現実」が理解不可能なのですから、それでいいのかも・・・・ ぼくの心に感じたコトバ(148) <私は・・頭髪は真っ白で、電車に乗るときは帽子をかぶります。 席を譲られるのが嫌なのです。 今の若者はアルバイトや・・私よりもっと疲れていると思いますので、 1時間くらいは立っています。 見えです。見えを張らなくなったら本当の老人になったのだと思います。> 75歳の女性 ぼくと同じ態度や意見なので驚きました。 ただ、1時間もかかるほど遠くへ行くときは、 見えをはらずに、 座ることにしています。 この女性より6歳年長ですので。(言い訳です) ぼくの心に感じたコトバ(149) <人間として生まれたから人間になるのではない。・・・ 人間として育っていく・・・、その一つが「書くこと」。 「書く子は育つ」> 近藤勝重(毎日新聞客員編集委員) ぼくも全く同じ意見です。 「書く」行為は自分を知る大切な実践です。 だから、子どもたちに「書くこと」を求めてきました。 そして、その文章をプリントして、クラスメートに届けました。 学級文集はぼくの宝です。 ぼくの心に感じたコトバ(150) <「凡庸は罪である」> 藤井聡著『<凡庸>という悪魔―21世紀の全体主義』 「凡庸は罪である」と言われるとつらいですね。 「凡庸」とは「優れていないこと」と、辞書にあります。 自分には何か「優れた」ところがあるかなあ・・・? でも、 「罪である」とまで言われると・・・!! 「人間である限り思考停止してはならない」 という意見に反論はしませんが、 そうありたいとは思っているのですが・・・、 このごろ、木々の緑、色とりどりの草花にやすらぎを感じる時間が 増えてきました。 ぼくの心に感じたコトバ(151) <親が子どもに及ぼす影響というのは、計り知れない。> 小川 糸(作家)「日曜日ですよ!」 ぼくにはふたりの子どもがいる。 (子どもが小さいとき、 ぼくは仕事でほとんど家にいなかった。 子どもは母子家庭のような中で育った)。 今はふたりとも独立していて、ぼくは安心している。 どんな「影響」を及ぼしてきたのか、「計り知れない」!! ぼくの心に感じたコトバ(152) <差別とは、本来対等で同じ価値を持つ私たちが、 私たち自身をus(私たち)とthem(彼ら)に分けてしまうこと。> 中島京子(作家) ここでの「分ける」ことを 「分類する」というコトバに置き替えてみます。 「分類」は認識や行動のために人間がつくった枠組みですから、 存在そのものの区別ではありません。 「分けること自体が差別だ」という意見は どのような認識・行動のための「分類」なのか、 「私たち」と「彼ら」とを分ける根拠・論拠を問う、 という作業をとばしています。 「本来対等で同じ価値を持つ」存在を「分類する」、 という発想自体が差別なのだ、 ということのようですね。 う~ん・・・、 差別的発想だ、と言われると、わかるような気はしますが。 ぼくの心に感じたコトバ(153) <野に雑草という名の草がないように、 工場には雑用という名の仕事はない。> 小関智弘著『どっこい大田の工匠たち』 教室の係活動は、自分たちの活動のためにあるので、 先生の雑用をする「先生係り」はありません。 そんな係りを置いている学級があるようですが、 わたしはそのような係りを置いたことはありません。 ぼくの心に感じたコトバ(154) <定型があるからこそ、 うたい出すことのできる魂もある。> 上野千鶴子:社会学者 「ホームレスの鳥居さんは短歌と出会って、 これなら自己表現ができると思った。 定型が彼女の感情とことばを解放した。」 上野はこう述べています。 以前にも述べたことがありますが、 今のぼくは詩や短詩に こころを動かされることが多くなりました。 なぜだか、自分でもわかりません。 ぼくの心に感じたコトバ(155) <「言葉でなく、態度で示す」こと。 「弱音を吐いてもよい」環境をつくること。> 上野千鶴子:社会学者 先生は話すことも大事ですが、 子どもたちは、それを実感できて 初めて安心するのです。 これは心にとどめておきましょう。 ぼくの心に感じたコトバ(156) <書くことで、 誰かの心の蛇口をひねっているような 心地がしました。> 文月悠光(詩人) うまい比喩ですね。 読んだ人が、自分の胸の中のもやもやを 代わりに書いてくれた、と感じるわけですから。 ぼくもそんな文章が書きたいです。 ぼくの心に感じたコトバ(157) <人々の鬱屈する不満に応えるうそが 真実を打ち負かした今年である。> 余禄(2016.11.18) 「ポスト真実」については以前にも触れましたが、 また触れます。 どうしてこんな世に中になってしまったのでしょうか。 「なってしまった」ではなく 「してしまった」というべきだ、と 叱られそうですが、 ぼくはぼくなりに行動してはいるのです。 ぼくの心に感じたコトバ(158) <高校のクラスというのは、 イケてるグループ、中間グループ、 イケてないグループ、菌類、 という階層状にわかれる。 これが「スクールカースト」だ。> カレー沢 薫(漫画家) 「スクールカースト」と名付けられるグループ階層は いつごろから存在し始めたのでしょうか。 ぼくが高校生のころ(60数年昔)はなかったと思います。 あれば、ぼくは「中間グループ」だったでしょう。 (何をもって、「イケてる」「イケてない」というのか、 実はよくわからないのですが) これが事実だとすれば、いやな世の中になったものです。 (子どもに尋ねてみよう) ぼくの心に感じたコトバ(159) (158)の続きで、「スクールカースト」についてです。 いつごろから言われるようになったのか、少しわかりました。 2000年代半ば、中学・高校生の流行語になっていたそうです。 その社会的背景には、1990年代後半、 中央教育審議会、臨時教育審議会、などで議論された 「能力主義」「自己責任論」や、 「近代型能力」(知識量、知的操作の速度、など)から 「ポスト近代型能力」(主体性、創造力、思考力、 コミュニケーション能力、など)への 能力観の転換があります。 また、 生徒たちのあいだで自分と他人とを、 「人付き合いがスマートな人」「体育会系でノリのおもしろい人」、 など多様な観点で比較し、「格・身分」など上下関係で位置づけする ようになったようです。 『スクールカーストの正体』堀裕嗣著(2015)参照 ぼくの心に感じたコトバ(160) <日本の侵略戦争に「共同謀議」を適用するのは、 無理がある、と東京裁判では言われたが、 アメリカは、A級戦犯に適用した。 そして、今 「共謀罪=テロ等準備罪」の審議が始まった。> 「余禄」(2017.4.20)から 4月15日午前7時45分ごろ、可決・成立しました。 徹夜して強行する裏に どんな狙いが含まれているのでしょうか!!! 安倍政権の今後の行動をしっかり見張りましょう。 ぼくの心に感じたコトバ(161) <「記憶にない」ことは、 実は前後の記憶があるからこそ認識できる。 記憶にないことこそが記憶なのである。> 福岡伸一(生物学者) そう言われればそうですね。 福岡さんは、また、 「うそにならないよう言い繕うときに使う方便でしかない」 とも述べています。 なかなか辛辣ですね。 ぼくの心に感じたコトバ(162) <人間は自分自身がはりめぐらした 意味の中にかかっている動物である。> クリフォード・ギアーツ(文化人類学者) 「人間」のコトバに「ぼく」を置き換えてみます。 そのままあてはまります。 よくわかります。 ぼくの心に感じたコトバ(163) 当たり前のことに気がつくのに時間がかかる・・・・ 年を取ることのいいことのひとつです。 福岡伸一(生物学者) ぼくも齢をとりました。その結果、 いろいろ気がつくことがあります。 よくもの忘れをするというのもそうです。 これは 「年を取ることのいいことのひとつ」でしょうか?! ぼくの心に感じたコトバ((164) <1995年、二十歳の私は、 何に依拠して生きていけばいいのか。 地震の揺れ以上の精神的揺れが、 自分の中で起こっているのを感じました。> 中島岳志(政治学者) 1995年は、ぼくが退職した年です。 後輩に道を譲るよう教育委員会から指示されて、 1年早くやめました。 あと1年でやれることが見えなかったからです。 図書館に籍をとってもらって、本を読み漁りました。 昼休みは、千里中央の公園まで散歩しました。 楽しい、豊かな時間でした。 ぼくの心に感じたコトバ(165) <自分の失敗や過ちを思い知ることが 認識を相対化し、思考の幅を広げる。> 山室信一『アジアの思想史脈』 山室さんのコトバはぼくなりに解るのですが、 「思い知る」ということはなかなかむずかしいです。 ぼくの心に感じたコトバ(166) <いかに怒りや葛藤を美しい形にかえることができるかが 大人の条件なのだ。> 海原純子(心療内科医師) ぼくは大人になりたくありません! だって、 「美しい形にかえること」がむずかしいことを 経験から知っていますから。 できれば子どものままでいたいです。 「子どもみたい」と、ときどき言われます。 ぼくの心に感じたコトバ(167) <普通の人たちが、真面目に、懸命に、 きちんと日常生活を送る努力をしているから、 社会が成り立っていると思うのです。> 葉室麟(作家) 葉室さんは、 「普通の人が誠実に生きて、 高みに到達する。 小説にはそんな思いを込めています」 とも述べています。 ぼくはこのごろ小説をあまり読まなくなりましたが、 引用したコトバには同感しています。 小説を読まなくなったのは、 生きてきた時間が長くなったからでしょうか?! 最近は、詩をよく読むようになりました。 発想や飛躍が楽しめるからでしょうか?! ぼくの心に感じたコトバ(168) <正確を期そうとして書き換えた結果、 わけがわからなくなる。> 青野由利(毎日新聞編集委員) ぼくもこのような経験があります。 読んでくれる人の読解力の想定が むずかしいのです。 ぼくの心に感じたコトバ(169) <「日本語」というものはない。 漢字語とひらがな語、カタカナ語の混合体を 「日本語」と呼んでいるにすぎない。> 石川九楊(書家) 「日本語」の定義を述べていないので、 意見を述べることができません。 ただ、実体として 「漢字語とひらがな語、カタカナ語の混合体」 であることは認めます。 ひらがな語のことを「大和言葉」という人もいます。 ぼくの心に感じたコトバ(170) <共産主義国にはサービスという概念がない。 ノルマだけがある。> 新日鉄副社長 旧ソ連のコルホーズ(集団農場)では、 こんなことも話されていたそうです。 「ロシアのトラック会社では 使った鉄の量でノルマが測られる。 だから、 大型のトラックを作る。 細い道が通れない不便は我慢する。」 ぼくは、若いころ、 社会主義・共産主義の考え方に期待していました。 その後、 社会主義・共産主義国の現実を知るようになって、 夢を捨てました。人間の社会は複雑です。 悲しい、さびしい思いです。 ぼくの心に感じたコトバ(171) <選手に「こうやれ」ではなく 「こういうやり方もあるよ」 と言ってきた。 野球は自分で考え抜いてやるものだから。> 森 和繁(中日のヘッドコーチ) このコトバの 「選手」を「子どもたち」に、 「野球」を「学習」に置き換えてください。 ぼくたち教師の姿勢です。 ぼくの心に感じたコトバ(172) <耳で聞いた感覚と 目で読んだ感覚は違う。> 桂 福車(落語家) 国語科で音読指導が欠かせない理由です。 特に、文学関係の文章の場合は、 音読させる文章を指定することが大切です。 ぼくの心に感じたコトバ(173) <根拠が示されていなくとも、 「ああそうなんだ・・・」と 事態の確認材料を提供できれば、 神話は神話としての使命を果たしている。> 苅谷剛彦(社会学) 「事態の確認材料」と「根拠」の違いがよくわかりませんが、 ぼくは「根拠」にこだわる傾向があります。 (意見と神話のちがいにあるのかもしれない) 苅谷のこの「意見」をしっかり分析したいと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(174) <指導者の暴力を「指導」と受け取る 生徒や父母が少なくないのが現状らしい。> 毎日新聞の余禄(2016.12.20) 幕末の英国初代行使オールコックは 「日本人は決して子どもを撲(う)つことはない」 と書いているそうです。 その日本社会がなぜ <余禄>にあるような状況になったのでしょうか。 ぼくたちはよく考えてみるべきでしょうね。 ぼくの心に感じたコトバ(175) <大人とは子ども時代がそのまま続いている人間だ と信じています。> マーロウ「子どもの文学とは」? 「成熟した人間に備わっている最高の能力は、 すべて子どものときにすでに内在している」 とも述べられています。 子ども時代がいかに大切か!!! 改めて思います。 心すべきことです。 ぼくの心に感じたコトバ(176) <女性には男性とはちがうサイクルがあるのだから、 あせって目標を決めるよりも 自分のサイクルを生きながら 長期戦で構えた方がいい。> 緒方貞子 妻を見ていて本当にそうだと思います。 妻は「自分のサイクルを生きながら」 今、自分のやりたいことを実行しています。 ぼくの心に感じたコトバ(177) <女が安心して幸せに生きるには、 男の人格が守られていなければむずかしい。> 吉武輝子 吉武はこんなことも述べています。 「自分の人格が守られていない状況では、 自分より弱いものの尊厳を認めることはなかなかできない」 また、こうも述べています。 「自分が抑圧されている人は、 他人を抑圧するし、攻撃する」 子ども社会も同じだと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(178) <時事川柳は、その時々の言葉への感度が問われる文芸だ。> 近藤勝重:『健康川柳』の著者 近藤は 「反権力の笑いこそ時事川柳の真骨頂であろう」 とも述べています。 権力を批判的に論評することはジャーナリズムの仕事ですが、 その表現に「笑い」をもたせるのは至難の業でしょう。 五七五の形式におさめるのもむずかしい作業です。 ぼくは少し以前から川柳を楽しんで読んでいます。 ぼくの心に感じたコトバ(179) 正社員派遣社員が指導する (作者:いつのまにやら) 続けて川柳をとりあげます。 この句、学校現場にもあてはまります。 「正社員」=新任の教員 「派遣社員」=再任用の校長 最近の若い教員は、ぼくが若かったときに比べて、 とても従順です。いいのかなあ・・・・ ぼくの心に感じたコトバ(180) <赤ん坊はみんな天才> 類塾「天才教室」から 「天才とは追求力を失わない人。 追求心の塊である赤ん坊はみんな天才」 とも述べています。 ぼくも同感です。 ただ、 学校に来るようになると、 なぜか、天才でなくなっているのです・・・ ぼくの心に感じたコトバ(181) <「愛」の反対語は憎しみではなく「無関心」である。> マリアテレジア(マザーテレサ) 「憎む」のは相手に関心を持っているからですね。 「無視する」「眼中にない」心境こそが反対語。 (「語」というのには少しひっかかりますが。) 言いたいことはわかります。 ぼくの心に感じたコトバ(182) <孤立できる人間、独りでもぜんぜん平気な人っていうのは、 家庭がすごくあったかかった人が多いんじゃないか。> 内田樹:『橋本治と内田樹』から 自分を振り返ってみて、わかる感じがします。 父親は優しくて叱られた記憶がありません。 母親は厳しかったけれど、あたたかかった。 ぼくが独りでも平気なのは、家庭があたたかかったことに 一因があるのかもしれません。 ぼくの心に感じたコトバ(183) <「ものがあふれ、豊かになるほど 分け合うのがむずかしくなるのでは」 とおっしゃる方がいた。・・・ 分け合っても減ることがなく、 逆に増えるものがある。 それは「信頼」という 目に見えない絆である。> 海原純子:「新・心のサプリ」(2017) 「信頼」を得ることがいかに大切か、 そして、いかにむずかしいか。 多くの役割を経てきて、実感します。 ぼくの心に感じたコトバ(184) <会議する準備のためにまた会議> 詠人知らず(サラリーマン川柳) 小学校の職員会議を思い出しました。 今も同じような状況が多々あるようですね。 ぼくの心に感じたコトバ(185) <喜びは、自分のものじゃない成果を見る楽しさです。> 糸井重里:『ほぼ日刊イトイ新聞』 糸井は「数字にできないことが誇り」とも 「勝手にやっていることを、だれかに審査されるのはいや」 とも述べています。 ぼくにはよくわかります。 「自分のものじゃない成果を見る楽しさ」は、 先生も同じですね。 ぼくの心に感じたコトバ(186) <障害はその人にあるのではなく、 環境にあるのです。> 岸田ひろ実(車いす生活者) かなり以前から街中で障がい者によく出会うようになった。 うれしいことです。 ぼくが障がい児・者を意識するようになった50年ほど前は、 社会の視線から隠れるような状況でした。 ぼくは地域の人に知ってもらうために 意識的に校外へ連れ出していっしょに歩いたりしたものです。 (同様のことは以前にも取り上げていますが、違う視点で 感想を述べているので、またとりあげました。) ぼくの心に感じたコトバ(187) 諦めが幸せ連れてやってきた さわとら(68歳) ぼくが作者の年齢のときには、 「諦める」ことがなかなかむずかしかった。 今では、「諦める」こともできるようになり、 ここに詠まれたことがわかるようになりました。 ぼくの心に感じたコトバ(188) <銭湯で、3歳の子どもに 「上がるときは30になってからね」と言うと、 「5かける6は30」と言って、 一瞬で上がってしまいました。> 新聞の投稿欄から。 子どもの知恵には感心する。 ヤルネ~ 子ども!!! それにしても、 3歳で掛け算をどこで覚えたのだろう。 ぼくの心に感じたコトバ(189) <自らの権利を放棄する者は 他人の権利を侵害する。> ヨーロッパの言葉 この言葉の意味を じゅうぶんかみしめる必要がある。 自分が我慢すればすむこと、と、 単純に思わないようにしたい。 ぼくの心に感じたコトバ(190) <40歳をすぎたころから、肩の力が抜けた。 自意識が薄れていくと同時に、 他人とつながろうとする気持ちが生まれた。> 野矢茂樹(大学教授) ぼくと同じような人もいるな、と思った。 ぼくも若いころは、肩に力が入っていた。 理屈が先に立っていた。 野矢は 「相手に届くような言葉を身につける」 ことを述べているが、 そこが未熟だった。 ぼくの心に感じたコトバ(191) <日本語によくある次のような表現 「~と思われる」「~と考えられる」に 〔誰が〕思っているのか 〔誰が〕考えているのか という反応・発想は不適切である。> ぼくもこのような反応・発想をするタイプです。 しかし、そのような反応・発想は×。 ―それは、欧米的・中国的反応・発想で、 日本語的反応・発想ではありません。 「みんなが」そう思っている、 「みんなが」そう考えている、 という表現なのです。― と説明されて、 あ~、なるほど、日本的だなあ、と思いました。 ぼくの心に感じたコトバ(192) <命より大事な仕事はない。> 過労死した人の家族 「息子は、誰からも自分を守る知識を教えられていない」 とも、家族は述べています。 これは耳が痛い! ぼくは子どもたちに「自分を守る知識」を教えてきただろうか。 「相手の立場にたって」ということは常に言ってはきましたが・・・ ぼくの心に感じたコトバ(193) <子どもらは大人と別の地図を持つ> 小雪(投稿された川柳) ぼくも同じ意見です。 子どもたちと話しているとよくわかります。 「自分の意見が正しい。 子どもに何がわかるか」 と、 態度でおさえる大人を見かけますが、 あれでは、子どもは育たないと思います。 ぼくの心に感じたコトバ(194) <アメリカのやり方を日本人に押しつけては駄目だ。> ヘレン・ミアーズ 戦前の日本の社会を内在的な視線でみつめた アメリカ人の女性ジャーナリスト・研究家。 理論や政治にとらわれない姿勢を持ち続けた。 『忘れられた日米関係』で初めて知った、 魅力的な人物です。 ぼくの心に感じたコトバ(195) <子どもに教えるクルアーン的世界観は 愛(神からの・神への)、尊厳、平和の構想。> 『クルアーン的世界観』から ムスリムの大人たちは、 自分たち(の行動)をふりかえって、 子どもたちにどんな顔で話すのだろう。 ぼくの心に感じたコトバ(196) <記憶力 ないから楽し 再放送> 鳰の里(新聞に投稿の川柳) 「再放送」ならぬ「再めぐりあい」。 旅に出て、時々、 あっ、ここは以前訪れたことがある! と思うことがあります。 妻は、「○○年前に、来たことがあるでしょ」 と言って、前後のことを説明してくれますが、 ぼくは思い出せません。 妻は「新鮮でいいね」と言います。 ぼくの心に感じたコトバ(197) <大学が教育すべきは 「正しく知り、考える技術、 異論を持つ人とも討論しすり合わせて、 意見を共有する技能」 である。> 山口裕之著『「大学改革」という病』 この教育内容は、義務教育の内容と重なります。 ぼくは小学校で同じことを教育してきました。 ぼくの心に感じたコトバ(198) <個人を重視する欧米、 人間関係を大事にする日本、> ポポウィチュ・ペーテル(ハンガリー) この意見に同意します。 ぼくは「関係性」ということを、 いろんな場で話しています。 ぼくの心に感じたコトバ(199) <他者理解は自己理解と表裏一体である。> 小熊英二『誰が何を論じているのか』 小熊は 「他者への理解を通じて 自己理解を深める」 とも述べている。 ぼくにも少しはわかります。 ぼくの心に感じたコトバ(200) <知性というのは個人においてではなく、 集団として発動するものだと私は思っている。> 内田 樹『日本の反知性主義』 学級集団・学習集団を重視して、実践してきたぼくには 納得できる意見です。 内田はこうも述べています。 「集団として情報を採り入れ、その重要性を衡量し、 その意味するところについて仮説を立て、 そのプロセス全体を活気づけ、 駆動させる力の全体を<知性>と呼びたい」 ぼくはそこに集団を構成する人の「関係性」を加えます。 |
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<文責:新開惟展> |